2014年8月10日日曜日

2014年6月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of June 2014)

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のカンナ。2014 年 8 月 8 日撮影。
Canna in omy yard, taken on August 8, 2014.

2014年6月分記事へのエム・ワイ君の感想

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2014 年 6 月分への感想を 2014 年 8 月 2 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。(6 月の記事は、感想を貰った 1 編だけだった。)



加藤周一の日本語文法解釈

 「加藤周一は『日本文化における時間と空間』において、過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴を説明するため、夏目漱石の文を引用し、その特徴が日本語の時制にも現れていることを述べている」ということを主題としています[Ted の注 1 参照]。そして、上記の本の 54~59 ページに書かれた漱石、鴎外、他の引用例を再配列し、二つの文献をも援用して解説し、論評したものです。文学に造詣深く、語学にも堪能な筆者が楽しみながら考察されたものと思いながら、興味深く拝読しました。以下に加藤の論旨と筆者の見解を対比させ、コメントします。
 ——Ted の注 1:貴君が冒頭の「」内で紹介されたことは、実は私の文の主題ではなく、「主題に関わる箇所での加藤の大筋の主張」です。私がこの記事で取り上げている箇所での加藤の記述は、漱石がフランス語の半過去・単純過去に似た使い分けをした原因の追及に話がしばらくそれています。私はそのような、それた細部での考察を問題にする、ということを、まず明言しなかったので、主題が分かりにくかったと思います。貴君のご感想の末尾には「一冊の本の一部の論旨に対して」とありますので、冒頭の紹介のずれにもかかわらず、主題をよく理解して貰えたようでもありますが。——
 筆者はまず、次のことを紹介します。
 [加藤は]具体的には、漱石が過去の出来事を記していながら、多かれ少なかれ持続する現象(フランス語の半過去の使用対象)には現在形を、過去の特定の時点で起こった出来事(フランス語の単純過去形の使用対象)には過去形を使っていることを指摘している。そして加藤は「しかしフランス語から漱石が深い直接の影響を受けたとは考えにくい」としているのである。
そして、筆者は「漱石によるこのような述部の用法の源はどこにあるかについての答を保留している」と指摘しています。私は、加藤はここでは文脈上、フランス語から漱石が深い直接の影響を受けてはいないことを説明したかったのではなかろうかと考えます[Ted の注 2 参照]。
 ——Ted の注 2:私が「加藤は[…]答を保留している」と書いたのは、推定的な指摘ではありません。加藤自身が「しかしフランス語から[…]影響を受けたとは考えにくい」に続いて、「私はさしあたり問題の答を保留するほかはない」と書いているのです。したがって、加藤は、貴君のいわれるように「フランス語から漱石が深い直接の影響を受けてはいないことを説明したかった」だけでなく、それを説明した上で、なお、彼自身の心の中に問題が残ることを述べているのです。しかし、加藤の大筋の論旨では、貴君が考えられたように、漱石の文体はフランス語から影響を受けたようでありながらも、そうではなく、日本文化の特徴である「過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない」形式に従っているということを主張しているのは確かです。「答を保留するほかはない」のあと、加藤は改行して、「われわれの当面の課題は、過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴を仮定すれば、その特徴は日本語の時制にもあらわれ、[…]日本文学の文体にも反映しているということの確認である」と、本筋へ戻しています。「Ted の注 1」で述べた通り私の文の主題が分かりにくかったことと、「答を保留するほかはない」という加藤の言葉をそのまま引用しなかったため、貴君が異論的な感想を持たれることになったと思います。——
 次いで、
 ところで、私たちは英文法で、進行形に出来る動詞と出来ない動詞として、状態動詞 (stative verb) と動作動詞 (dynamic verb) という区別を習う。漱石が過去のことでありながら現在形を使った述部と過去形を使った述部の間には、状態動詞と動作動詞の相違に対応する相違がある。
と、筆者は述べています。そして、加藤が引用している漱石の『夢十夜』の一節の具体例を示し、「加藤はフランス語に堪能なあまり、日本語にも時制の適用について状態動詞と動作動詞に相当する区別が古来あるとか、あるいは、少なくとも明治時代にはあったという可能性を考えることなく、漱石の場合にどういう外国語の影響があったのだろうかという考察に突き進んでしまったようであると」と論じています。私は、加藤が、漱石が影響をうけたのはフランス語ではないと上述し、ここではどういう外国語の影響があったのだろうかと考察し、やはり日本文化の特徴ではなかろうかということを裏付けたのではなかろうかと考えました[Ted の注 3 参照]。
 ——Ted の注 3:ここでも、「Ted の注 2」の後半の「しかし、加藤の大筋の論旨では」以下と同じことがあてはまります。加藤の大筋の展開は、貴君の考えられた通りで、私はここでは、加藤の細部の考察での「答を保留するほかはない」とした点への検討を続けているのです。——
 筆者はさらに、次のことを紹介しています。
 加藤は漱石の『夢十夜』からの引用をする前に、森鴎外の『寒山拾得』からの一節も引用している(…加藤の書中、この引用のあるページの記述を省略…)。(…引用例の記述を省略…)加藤はこの過去(または完了)、現在、現在、過去(または完了)という並び方について、日本語の文法が許す過去の出来事への現在形の使用を鴎外が利用し、単調さを破る工夫をした、と解釈している。
これについても筆者は、次の通り、独自の見解を述べています。
しかし、この場合も、現在形の述部は二つとも状態を表し、過去(または完了)形の述部は二つとも動作を表しており、漱石の場合と同じ使い分けになっている。鴎外が単調さを破る工夫をしたとすれば、単に活用形を変えたのではなく、叙述の内容の配置に工夫をしたと見ることが出来るのではないだろうか。
 筆者は次の点も取り上げています。
 また、加藤は鴎外と漱石の文を引用するよりも先に、『源氏物語』、『平家物語』、そして上田秋成の『雨月物語』からの引用文を使って、「過ぎ去った出来事を語りながら、現在形の文を混入させて臨場感を作り出す技法」が、「厳密な時制を要求しない日本語の文法が前提条件であった」と論じている(…加藤の書中の関連ページの記述を省略…)。そして、このことは『雨月物語』のフランス語への訳文と比較すればあきらかになるだろう、としている。
これに対して、筆者は、
過去の出来事に臨場感を与える表現として現在形を使用する「歴史的現在」は、各国語で用いられているようであり、加藤の論は、いささか強引であるように思われる。ただ、フランス語ならば半過去形を用いる過去の出来事に対して、日本語では抵抗なく現在形を用いることが出来るという時制の緩やかさが、「過去・現在・未来を鋭く区別しようとしない日本文化の特徴」の一例である、という加藤の主張には間違いがないであろう。
と述べて、結びとしいます。

 一冊の本の一部の論旨に対して、読者が対話するような形で、巧妙にブログにまとめたこの一例を読み、著者と読者との間の敬意ある親近性を感じ、感銘を受けました[Ted の注 4 参照]。
 ——Ted の注 4:「著者と読者との間の敬意ある親近性」とは、よく書いて下さったと思います。この記事では加藤に反論していますが、私は加藤の著作の大の愛読者なのですから。——

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