2014年8月11日月曜日

「鏡の謎について」("On Mirror Puzzle")

[The main text of this post is in Japanese only.]


わが家の庭のランタナ。2014 年 7 月 19 日撮影。
Lantna flowers in my yard, taken on July 19, 2014.

「鏡の謎について」

 先般、M. Y. 君に『日本物理学会誌』Vol. 62, p. 213 (2007)(「会員の声」欄)掲載の私の投稿「鏡の謎について」のコピーを送ったところ、それに対する感想文を貰った。その感想文を紹介するに先立って、私の投稿文をここに掲載する(『日本物理学会誌』に掲載されたままの PDF 版はこちらからダウンロードできる)。


鏡の謎について

 国府田氏は本欄の「鏡の謎:物理学と哲学の関係について」という文(文献 1)において,「物理学に文理を超えた総合知を求める機運」の高まりを望んでいる.私はこれに大いに賛同する.ただ,「なぜ鏡は左右を逆に映すのか.上下はそのままなのに」という「鏡の謎」は,プラトン以来(文献 2),若い日の朝永(文献 3)やファインマン(文献 4)の考察を経てなお,近年まで正解が出なかったものであるが,哲学と呼ぶほどの問題ではない.そうはいっても,私と共著者・奥田(ともに物理学会会員)は,この「謎」についてアメリカの認知心理学誌に論文(文献 5)を寄せ,国府田氏の望む機運のささやかな一端を担ったので,そこに記した「謎」の答えをこの機会に紹介したい.

 私たちの論文は,「鏡の謎」に対する心理学者・高野氏の多重プロセス説(文献 6, 7)という複雑な答えへの反論として投稿したもので,同様の反論がニュージーランドの心理学者 Corballis からも先に寄せられていた(文献 8)が,厳しい査読を経て,両論文は同時掲載となった(これらの反論に対する高野氏の再反論は不採用だった).また,イギリスの心理学者 McManus も,やや遅れて独立に,私たちのものと同じ答えを著書(文献 9)に記している(ただし,その答えに続いて,高野氏の分類では「回転説」に入るファインマンの説明を肯定的に引用しているのは矛盾している).以来,私たちの答えに対する有効な反論は出ていない(終りの 2 節に付加的説明を記す).こうした状況から,私たちの答えは決定的なものといってよいと考えられる.

 「鏡の謎」で「鏡は左右を逆に映す」というのは,例えば,私が右手を上げた姿を鏡に映すとき,その鏡像を鏡の向こう側にいる別の人物と見れば,鏡に対する私の向きがどうであっても,「向こう側の人物」は左手を上げていると見なされることを指す.これを,もっと正確かつ一般的に述べれば,「1 枚の平面鏡に非対称な物体を映すとき,物体と鏡像に,それぞれの固有座標系を適用(これを『固有座標系の個別使用』と呼ぶ)すれば,物体と鏡像の間で,左右非対称性の特徴が逆になる」ということである.ここで,物体の固有座標系とは,物体に基準をおいた「上」「前」の二つの向きに加えて,「右」の向きを,右・前・上の向きが右手座標系の x・y・z 軸の正の向きにそれぞれ対応するように定めた座標系である.鏡像の固有座標系も,これと同じ構造のもの(その鏡映でなく)である.

 さて,幾何光学は,平面鏡による像が,もとの物体の鏡面に垂直な向きを逆にしたもであると教える.また,立体幾何学は,非対称な物体を任意の一つの方向について逆にすれば,もとの物体に対して,右の手のひらに対する左の手のひらのような関係にある「対掌体(enantiomorph)」の生じることを教える.この二つの知見を合わせれば,物体とその鏡像は互いに対掌体で,上下・前後・左右のどの軸に沿って逆になったものと見てもよいことになる.それにもかかわらず,物体と鏡像に対して固有座標系の個別使用をすると左右が逆と観察される原因は,左右軸の定義段階での性格にある.

 すなわち,物体に固有の上下・前後は物体の外部的特徴によって決まるのに対し,左右は上下・前後が決まった後で,それらに関連づけて決まる(上下・前後軸のうちの 1 または 2 軸が決められない物体には,左右も決められない).例えば人体の場合,固有の下→上・後→前の向きは足→頭・背→腹の向きとして,まず決まり,鏡像においても同じ決め方がなされる.したがって,これらの方向の非対称性の特徴は逆になりようがない.そこで,対掌体同士で非対称性が逆になっている方向は,最後に決まる左右軸に,いわば押しつけられるのである.――以上が「鏡の謎」の答えである.なお,2 次元の形象である文字の鏡映による左右逆転も,文字とそれが書かれている媒体を合わせて考えれば,一般の物体の場合と全く同様に説明できる.

 高野氏はこの答えに納得していないが,氏はその後[注 1],多重プロセス説を上下・前後・左右の逆転・非逆転という,鏡像に対するさまざまな認知を説明する,いわば「拡張された鏡の問題」に当てはめており(文献 10),その思考は本来の「謎」の解明から外れ,「謎」自体への彼の答えは複雑なままである.拡張された問題については,「謎」への私たちの答えに立脚した,心理学者・吉村氏の説(文献 11)もあり,私はこちらを支持する[注 2].

 物理学者・小亀氏も「鏡の謎」について論文(文献 12)を発表した.同氏は観測に二つの座標系を用いることは許されないとして(文献 13),従来の諸説を批判している.朝日新聞の記者が読者からの質問に対して最近まとめた「鏡の謎」への答え(文献 14)も,小亀説と同じ立場を取っており,紙上の回答者である架空の人物「藤原先生」に,「ものを観察するとき,途中で自分の『見る位置』を変えてはダメ」「一カ所に立って川を見れば水が流れていくのがわかるけど,水と一緒に走り出したら,止まって見えちゃうでしょ」といわせている.しかし,アインシュタインは,16 歳のときに光を追って光速で飛ぶ想像をしたことが,後に特殊相対論の構築に役立ったと述べており(文献 15),異なる座標系間の観測の比較は,許されないことでなく,逆に,重要な理解をもたらす操作なのである.いにしえの世に「鏡の謎」を出題した人物は,左右概念の把握における人々の弱さを巧みに突いて、現代人をも翻弄したといえよう.

文 献
  1. 国府田隆夫:日本物理学会誌 62 (2007) 60.
  2. R. Gregory: Mirrors in Mind (W. H. Freeman, 1997) p. 88.
  3. 朝永振一郎:『鏡の中の世界』(みすず書房, 1965) p. 130.
  4. J. Gleick: Genius (Pantheon, 1992) p. 331.
  5. T. Tabata and S. Okuda: Psychonomic Bull. Rev. 7 (2000) 170.
  6. 高野陽太郎:『鏡の中のミステリー』(岩波書店, 1997).
  7. Y. Takano: Psychonomic Bull. Rev. 5 (1998) 37.
  8. M. C. Corballis: Psychonomic Bull. Rev. 7 (2000) 163.
  9. C. McManus: Right Hand, Left Hand (Weidenfeld & Nicolson, 2002) pp. 307-312.
  10. Y. Takano and A. Tanaka: J. Exp. Psychol. (in press).[注 3]
  11. 吉村浩一:『鏡の中の左利き』(ナカニシヤ, 2004).
  12. 小亀淳:認知科学 12 (2005) 319.
  13. 小亀淳:日本認知科学会公開シンポジウム「なぜ鏡の中では左右が反対に見えるのか?」(2006年11月23日, 東京) での発言.
  14. 武居克明:朝日新聞,「Do 科学」欄 (2006年12月17日).
  15. A. Einstein: Autobiographical Notes, in P. A. Schilpp ed.: Albert Einstein: Philosopher-Scientist, 3rd Edition, Vol. 1 (Open Court, 1969) p. 53.

 (ブログへの転載にあたって記す)
  1. 「氏はその後」と書いたが,正しくは,高野氏は文献 6, 7 の段階から「拡張された鏡の問題」を扱っていたというべきである.高野氏はさらにその後,次の論文を発表し,文献 7 における欠点の一つとして文献 5 が指摘した点への回答を述べている.Y. Takano: Phil. Psychol. http://dx.doi.org/10.1080/09515089.2013.819279 (2013).しかし,高野氏はその回答が複雑なものであることを自ら論文中で認めており,そういう複雑さを内含するする説は,プトレマイオスの天文学における「従円と周転円」モデルを思わせるものといわなければならない.そのモデルを含む天動説は,地動説に取って代わられる運命となった.なお,「オッカムのカミソリ」の言葉で表される、より単純な説がよいとする考えについては,次の文献によくまとめられている.Alan Baker, "Simplicity", The Stanford Encyclopedia of Philosophy, Edward N. Zalta, ed. (Fall 2013 Edition).
  2. 吉村氏と私は,この投稿後間もなく,文献 11 に基づいて「拡張された鏡の問題」への答えを書いた共著論文を発表した.H. Yoshimura and T. Tabata: Perception 36, 1049 (2007).
  3. その後分った書誌情報は次の通り.J. Exp. Psychol. 60, 1555 (2007).

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