2014年9月7日日曜日

J・M 君へ:深田久弥のことなど
(To J. M: On Kyūya Fukada, etc.)

[The main text of this post is in Japanese only.]


カノコユリ。2014 年 9 月 1 日、滋賀県高島市畑(はた)の棚田への道路脇で撮影。
Lilium speciosum, shot at the side of the road to the Hata rice terraces in Takashima, Shiga Prefecture.

J・M 君へ:深田久弥のことなど

2014 年 8 月 31 日

M 君

 今回は、那須からお帰り後の第一報への返事を中心に書きます。

 湿度が高いにしても、毎夏のように大阪より相当涼しいところで優雅な日々を過ごしておられるとは、うらやましいことです。

・深田久弥のこと

 妻は久弥の『日本百名山』の本は持っていませんが、朝日新聞社が 2001 年に発行した『週間日本百名山』を買いそろえ、そこに引用されている久弥の『日本百名山』を愛読しています。その『白山 荒島岳 大山』の号にある久弥の荒島岳についての文に、「大学一年の秋、私は年上の友人と二人で白山一周を試みた」とあることを、妻が教えてくれました。貴君のメールから察するに、この「年上の友人」とは貴君の伯父さんではないでしょうか。

 また、貴君が小谷温泉の山田旅館で聞かれた話は、確かに久弥とその恋人のことです。『週間日本百名山』の『雨飾山 高妻山』の号に、山岳写真家の三宅修が、雨飾山は「遠くから見るときれいな双耳峰」であることを述べています。そして、久弥の
左の耳は僕の耳
右の耳は
はしけやし[いとおしい]
君の耳
そんな詩が浮かんだのに理由があるが、それは言えない。
という文(1957 年、同人誌『霧藻』掲載の「二つの耳」の終節)を引用し、その「理由」なるものを、次のように明かしています。
昭和16 [1941] 年、彼[久弥]は一高時代に見初めた少女と再会し、一緒に小谷温泉に出かけ、雨飾山に登ろうとしたが果たせなかった。彼女の名前は木庭志げ子、昭和22 [1947] 年に結婚して深田志げ子となる運命の出会いであった。

 私たちが高校 1 年のときだったと思いますが、新聞部の先輩(同輩の誰かも同行したかも知れませんが、記憶がありません)が、当時金沢に住んでいた深田久弥にインタビューに行き、『菫台時報』の「門を叩く」という欄の記事を書いていました。どういう記事だったか覚えていないのが残念です(ひょっとすると、KJ 君はわれわれの在校時代の『菫台時報』を全部保存しているかも知れません)。大聖寺には「深田久弥 山の文化館」があり、2007 年 7 月、金沢へ墓参に行った折に妻と訪れました。

・紫中新聞部の人たちのこと

 F さんは旧姓 MT で、満月というあだ名の他に旧姓由来の呼び名も持っていたようです。Y・K さんと同級で彼女と大変仲のよかった Y・SK 君も OT という旧姓の持ち主でした。彼は私たちの 1 年下であるにしては、心身の発達がともに私たちに近いような感じの少年でした。それもそのはず、彼は中国で終戦にあい、その後、学校で勉強が出来ないまま引き揚げて来たので、1 年下に編入したのだそうです。(私は戦後の大連で、ある程度の勉強が出来たので、引き揚げ後、同じ学年に入りました)。彼は高校卒業後のある時期からだったでしょうか、OT 姓に戻りました。

 私は中学 3 年のときに岩波文庫の本を買って読み始めましたが、最初に読んだのは漱石の『坊ちゃん』とマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』でした。後者には主人公トムと仲のよいベッキーという女の子が登場するので、私の日記中では、SK 君に Tom、K さんに Becky のあだ名をつけていました。S 君に誘われて千石町の K さんの家(貴君の書かれた「治作」という料理店名は覚えていませんでした。家と料理店は離れていたのでしょうか)を訪れたこともありました。戸外で彼らが立ち話をしていたのを聞いていただけでしたが。

 私は中学 3 年から高校 1 年の頃、祖父と母を加えた 3 人で、天徳院脇の TN さんという家の二階に間借りしていました。その家の小柄な次女が K さんと同級でした。K さんは、私が高校 1 年のある日、TN さんを訪ねて来たことがあり、私は K さんに、われわれが去ったあとの新聞部をしっかり頼むと伝えました。いや、私が彼女たちの談笑していた部屋を訪れると、K さんの方から、「新聞部をしっかりやります」といったのだったかも知れません。

 SK 君は泉丘高校卒業後、東京でチンドン屋のアルバイトをしながら演劇の勉強をしている、と風の便りに聞いていましたが、私は大学院生の頃、K さんに電話して、彼の連絡先を教えて貰ったりしました。お陰で、私は OT 君となった SK 君が、名古屋で医療器械の販売店を経営していた頃までを知っています。私は 50 代の頃、名古屋大学プラズマ研究所との共同研究をしていて、名古屋へ行く機会が多かったので、そういう折に 2、3 回 OT 君と会い、年賀状も交換していましたが、ある年から賀状がぷっつり来なくなりました。故人となったのではないかと思っています。

 K さんが結婚・離婚したことは知りませんでしたが、彼女が比較的若いうちに病死したことを OT 君から聞きました。彼女は医者を訪れて、気分が悪いのですということを訴えたと思うと、へなへなとくずおれて、そのまま亡くなったとか。「そのまま」といっても、それから入院した後、回復することなく、ということだったのかも知れませんが、彼の言葉がその通りに、私の脳裏に映像となって焼き付きました。スカッとした性格だった彼女らしい最期のようにも思えます。

 新聞部の写真に写っている T・Y 君は、「べんきょう」というあだ名を貰っていてましたね。実は、彼と私は小学校の 2、3 年生ぐらいのときに、友人同士でした。私は当時七尾市の御祓(みそぎ)国民学校にいて、彼は父君の転勤(警察関係だったと思います)で金沢から転校して、私のいたクラスへ入って来たのです。彼の家へ遊びに行ったこともあったのですが、私は 3 年生の 2 学期から大連へ移りました。紫中で再会後は、お互いに内気になっていたせいでしょうか、あるいは、私にはすでに KJ、KZ、KB 君などの親友がいたからでしょうか、廊下ですれ違えば挨拶する程度の間柄でしかありませんでした。1998 年発行の紫中同窓会名簿では、彼はもう故人となっています。七尾での思い出を語り合う機会がなかったのが残念です。

 ではまた。

 T・T

 [注:実際に送ったメールの一部(紫中野球部の人たちのこと)を割愛した。]

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