[The main text of this post is in Japanese only.]
私が住んでいた頃とはすっかり様変わりした JR 七尾駅前の風景。
Landscape in front of JR Nanao Station. The view has completely changed from the days when I lived there. 貴君も級長を務められたのではなかったでしょうか(私は自分が級長に選ばれた記憶はあっても、他に誰がなったのか覚えていないのですから、記憶も身勝手なものです)。級長になると軍隊式の赤い筋の入った腕章(服の腕の部分に縫い付けるもの)を貰ったと思います。夏用には胸につける布の徽章(ピンクの桜の花型の中に緑色の級長の文字があったと思います)を貰ったようです。
屋外での朝礼か何かの折に、隣の松組の級長・H 君[注]と私とが、各組の先頭に立って並んでいました。その二人を比較して、松組の先生(お名前を忘れました)と私たち竹組の O 先生が、H 君は帽子を少し傾けて洒落っ気を出しているが、タバタ君は生真面目にまっすぐにかぶっていると話していらっしゃいました。
E・O さんは電話中に、S・Y 君という級友がいたことを思い出させてくれました。それで、彼にも電話しましたが、貴君と同様に、彼も私のことを思い出せないようでした。私も彼については、ある日の休み時間に相撲を取ったところ、私はスポーツが苦手だったにもかかわらず、いい勝負だったということしか覚えていないのですから、不思議ではありません。それでも長時間、互いに思い出を語り合いました。
馬出町のわが家のあった通りの角には、医者の息子の故 H・H 君がいました。彼とは、紙芝居のようなものを一緒に作って遊びました。小さな箱の底部を観音開きの扉のついた窓のように切り開き、箱の側面近くの両端に、底部に平行に割り箸を突き刺し、そこへ長く貼り合わせて幾つもの絵を描いた紙を巻きつけ、割り箸を回して、絵を次々に窓の部分に出すのです。「紙芝居」のテーマは「サイパン島玉砕」など、軍国少年的なものでした。その工作道具一式を入れて彼が持参した紙袋に「工作ぶくろ」のつもりで「作さくぶくろ」と書いてあったことを、いまでも覚えています。中学時代、金沢兼六園球場で県下の中学野球大会があった折に、彼の名を御祓中学の選手の名として北國新聞紙上で見て、懐かしく思ったものです。
私は幼稚園へ行かなかったので、小 1 の時に水疱瘡やハシカにかかった上に、しばしば風邪も引いて、よく学校を休みました。ある時しばらくぶりで登校すると、父君が銀行勤務だったと思う女児(T さんといったでしょうか)が、「タバタさんはこんなの知らないでしょう」といって、♪ターデターデガキツー/イールマイールマイルマンマー/…♪と、文部省唱歌「月」を器用に逆さまに歌ってみせました。しばしば欠席しても先生の質問によく答えていた私に、彼女は仕返しをしたつもりだったのだろうか、などと思っています。また、私が前方の席に移して貰ったときの隣席が彼女だったのかとも思います。
私が先生の質問によく答えていたといっても、何を答えたのか一つも覚えていませんが、そのことに関係する思い出があります。ややだぶだぶの黒い学童服を着ていた、腕白な児童(名前を思い出せません)が、「タバタはお母さんみたいに、なんでも知っとる。あだ名を "お母さん" にしよう」といったことです。そのあだ名は定着しませんでしたが…。
時折脳裏を去来する懐かしい思い出の一端を書き留めておきたい気もあって、長文の手紙になり、失礼いたしました。
では、くれぐれもご自愛下さい。ごきげんよう。
引用時の注- H 君は金沢大学附属高校へ進み、私の住んでいた家の比較的近くにいて、その頃再会した。彼は大阪大学理学部物理学科という、私と似た大学進学をした。彼の就職した会社名も聞き知ったが、その後の消息を知らない。彼の七尾の家は大きな屋敷だった。それがどうなったか分からないだろうかとインターネット検索してみると、 "七尾の財閥・H 家にあった茶室は七尾城史資料館の玄関前に移設され、「日本一小さい茶室」として知られている" ことが 分かった。合わせて、 H 家の屋敷が戦後進駐軍に接収されていたということも知った。
[The main text of this post is in Japanese only.]
2015 年 7 月 15 日、七尾・穴水間の往復で乗った「のと鉄道」の列車。
Trains of Noto Railway we took in the round-trip from Nanao to Anamizu on July 15, 2015. さる 7 月 14 日に郷里・金沢へ墓参に行ったついでに、私が小学校入学前から小 3 の夏休み末まで住んだ七尾を訪れるとともに、そこから穴水までの「のと鉄道」の短い旅を楽しんだ。七尾では、いまやそこに在住する唯一の知人である N 氏宅を訪れ、旧・御祓(みそぎ)小学校同級生の何人かの消息が分かるだろうかと、七尾高校の同窓会名簿の私と同じ卒業年度のページを貰って来た。そうして知った 3 人の旧級友たちに電話したところ、その中の女性 1 人は私を覚えていてくれたが、男性 2 人、O・T 君と S・Y 君は私を思い出せなかった。彼らに私のことを思い出して貰う一助にと、長文の手紙を後日書き送った。2 通は、相手についての思い出部分だけが異なる、ほぼ同じ手紙である。以下に、O・T 君(金沢近郊在住)宛のものを若干修正して紹介する。
2015 年 7 月 25 日
O・T 様
炎暑の候となりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。
先日は突然電話しましたのに、長時間、思い出話に付き合って下さり、ありがとうございました。貴君が私のことをご記憶でなかったのは、同じ教室で共に学んだのが 70 余年も前という遠い昔のことで、無理もありません。
私も貴君について記憶していることといえば、実は、お名前と、勉強のよく出来る方だったということと、電話でも申しました、ご尊父が国鉄ご勤務だったことのほかには、次のようなことしかありません。1 年生の元日に式があって登校し、友人たちの間で元旦の食べ物の話が出たときのことだったでしょうか、貴君が「ぼくは "べろべろ" を食べてきた」というような発言をされたこと(私も "べろべろ" が大好きで、いまでも正月料理の一つとして、大阪育ちの妻に苦心して作って貰っています[注 1])、そして、貴君の家へ遊びに行った折に、お宅の前に広がる田んぼと遠方の山のスケッチを小さな紙にしたことです。
当時の学童服はおおむね「国防色」と呼ばれた黄土色でしたが、貴君は紫色がかった学童服を着ていらっしゃいませんでしたか(この記憶はたいへん不確かですが)。
私の父の教え子(故人)[注 2]の次男で、七尾駅前の旗店の現当主が、七尾在住で年賀状を交換し続けているただ一人の人です。先日七尾を訪れた際に彼のところへ寄りました。彼は私より 6 歳若く、七尾高校の同窓会名簿の私と同じ卒業年度のページは要らないというので、切り取って貰って来て、真っ先に貴君のお名前を見つけた次第です。
貴君に私を思い出していただく一助になればと思い、私が御祓小学校(当時は「国民学校」でしたが、戦争中のいやな名称はやめて、以下、御祓小と書きます)を去って間もない頃の写真を同封します。大連嶺前小でのクラス集合写真(1945 年 2 月撮影)からとったものです。大連へ引っ越したのは、父が死んで、母の両親のいた地へ移ったのです。大連から引き揚げ後は、母の郷里の金沢に住み、就職・結婚してから堺市に住むようになりました。金沢には、父母や祖先の墓があり、毎年墓参に行っています。
先日七尾から堺の家へ帰ったあとで、E・O(現姓 M)さんに電話しました。彼女の住む高槻市は、私の住む堺から比較的近いところです。彼女は私を覚えていてくれて、俳画を趣味にしているというので、私が長女と来る 9 月に大阪で開催する水彩画とキルトの「親子展」の案内状を送りました。ご参考までにその案内状も同封します。「親子展」会場で、古い級友と 70 余年ぶりに再会するという、珍しい経験が出来そうで、楽しみにしています。
七尾高校同窓生名簿では、御祓小で、少なくとも入学直後のしばらくの間、私がその隣の席にいた Y・S(現姓 W)さんの名前も見つけました(私は当時から近視になり始めていたので、間もなく、最後部だった S さんの隣の席から、黒板の字の見やすい前方の席へ移して貰ったと思います)。彼女は私が級長[注 3]の時の副級長(これも少なくとも 1 年 2 学期の時はそうでしたが、2 年 1 学期と 3 年 1 学期でも同じコンビだったのかどうか覚えていません)でもありましたが、いともしとやかな性格という印象があり、電話番号を知っても、活発な子という印象だった O さんに対してのように、気軽に電話しにくい気がします(住まいが堺から遠いということもあります)。そこで、彼女と大の仲よしという O さんからよろしくいって貰うように頼みました。(つづく)
引用時の注- 「べろべろ」という料理の名は、わが家の中だけでの愛称かと思っていたが、そうでなかったことをこのときに知った。「べろべろ」(別名「えびす」)は石川県の郷土料理で、溶かした寒天に卵液を流し込み、上層部に浮かんだ模様にして、冷やし固め、正月や祭りなどの折に作るものである。
- 父が七尾郊外の高科小学校で教えていたときの教え子だったと、今回初めて知った。私はいままで、父が大連 2 中、金沢 1 中、七尾中(いずれも旧制)に勤務したことしか知らなかったが、師範学校卒業直後には小学校で教鞭をとっていたのである。
- 級長とは、いまの学級委員のようなものだが、児童による互選ではなく、クラス担任の先生が、小 1 の 2 学期以降に、成績のよい児童を選んで任命し、学期が変わると別の児童が任命された。
[The main text of this post is in Japanese only. It introduces my blog article From Fujioka's Fluid Drop Model of Atoms to Einstein–Arakatsu Relationship written in English.]
モミジアオイ。わが家の庭で、2015 年 7 月 12 日撮影。
Scarlet Rose Mallow; taken in my yard on July 12, 2015.藤岡由夫から荒勝文策まで
先般、インターネットの質問サイト Quora で、アメリカのフリー・ジャーナリスト Bill Streifer 氏から私へ、藤岡由夫が唱えた原子の fluid drop model がなぜ "ekiteki" と呼ばれるかという質問があり、それに答えたところ、次々に質問が来た。そして、話は私の大学での恩師・木村毅一先生の先生、荒勝文策にまで及んだ。Streifer 氏の許しを得て、そのやりとりを英文ブログ記事として掲載した。後日、Streifer 氏から、「荒勝はベルリン大学で、アインシュタインのもとで学び、その親しい友人仲間の一人となった」と記された本があるとの、追加の連絡があったので、きょう、その追加を入れるための、英文ブログ記事の修正を行った。興味のある方は、こちら(英文)を読まれたい。
[The text of this post is in Japanese only.]
上掲のイメージはさる 7 月 23 日に描き上げた私の水彩画である。2012 年の春、オランダとベルギーの運河をクルーズする旅で訪れたときに撮った、オランダ・キンデルダイクの風車の一つの写真を参考にした。ホルベインの 300g/m2 EHB-F6 紙と同社のアーチスト・ガッシュ(不透明水彩絵の具)を使用した。
同じ風車を斜め横から撮った写真が 2012 年 6 月 24 日付けブログ記事の最下部に掲載してある。向きが異なると印象も少し異なる。キンデルダイクを訪れたのは雨模様の日で、写真は全体が暗めに写っているが、絵ではより明るい感じにした。透明水彩絵の具を使って、始めに灰色の雲を着彩したところ、妙なむらが出来た。そこで、ガッシュの使用に切り替えた。私はこれでも結構あわて者で、よく塗り損ねをする。したがって、修正の困難な透明水彩絵の具を使うよりも、ガッシュを使う方が性格に適しているように思う。
題名『自然エネルギー』には、福島第一原発の事故がもたらした住民への甚大な被害や、廃棄物処理が未解決な原発技術の不完全性にもかかわらず、なおも原発推進を図る政府への抗議を込めてある。来る 9 月 10〜13 日、大阪・上本町のギャラリー風雅で、長女と共に開催する『水彩画とキルト 親子展』(その案内は、本ブログに近日中に掲載の予定)と、10 月 26〜31 日、堺市役所本館 1 階エントランスホールで開催される『美交会展 29』(堺の文化をそだてる市民の会主催)に出す予定の作品の一つである。
[The main text of this post is in Japanese only.]
2015 年 7 月 7、8 日、童心に帰っての白浜への旅で撮影した写真。上、アドベンチャーワールドのジャイアントパンダ・海浜(桜浜・桃浜双子の父親)。
下、和歌山鉄道貴志駅の2代目ネコ駅長・ニタマ。
Photos taken on my trip to Shirahama with a child's mind, on July 7 and 8, 2015. Upper, a giant panda of the name Kaihin (the father of the twin, Ouhin and Touhin) in Adventure World. Lower, the second cat stationmaster, Nitama, of Kishi Station, Wakayama Railway.2015 年 5 月 3 日〜 6 月 7 日分記事への M・Y 君の感想 35. 英語の試験に出た名前
「フェイスブック上のイタリアの友人、キアラ・マイエロンさんの新しい書き込みを見に行くと、サビノ・チヴィタという名の彼女の友人によるコメントが書き込まれていた」と、この話は始まります。この姓のチヴィタkから、筆者はイタリアの著名な数学者・レヴィ-チヴィタにまつわる大学教養課程時代の思い出を語り始めます。まず、「大学教養課程時代の英語の試験問題にあったレヴィ-チヴィタという名の数学者を私に思い出させた。それはアインシュタインについての文を和訳する問題で[…]」という話に続いて、次の話があります。 レヴィ-チヴィタの名に再び出会ったのは、同じ大学 2 年生の間に、有志仲間で相対論の本を輪読していたときのことだったと思う。ある日、その輪読を、教室でなく、その輪読のアドバイザーをお願いしていた田村松平先生(湯川博士の先輩にあたる)の部屋ですることになった。[…]鷲見(すみ)義雄君というのが、先生の書棚にレヴィ-チヴィタの著書を見つけて、「レヴィ-チヴィタ、けったいな名前やな!」といった。しばらくして、田村先生が「鷲見君は、将来結婚するときに不都合があるだろう」といった。鷲見君は驚いて、「どうしてですか」といった。先生は答えた。——「湯川君の奥さんはスミという名だ。鷲見君が同じ名の女性と結婚すると、その女性は "すみスミ" という、いともけったいな名になる。」
この田村先生の機智に富んだ対応で話が完結します。短い文章ですが物語をうまく構成しています。内容からは、大学教養課程 2 回生時の友人たちのことや、物理学習の一面が描写され、60 年前の大学の様子がしのばれます。私は登場するキアラ・マイエロンさん、学友、先生、全ての人びとを知っていましたので、興味深く拝読し、筆者ならではの傑作だと思いました。
若干の補足をします。キアラ・マイエロンさんについては、ものうくやるせない気持ち、「巷に雨の降るごとくわが心にも涙ふる」の心境でしょうか、夜の街の写真に文章を添えてツイッターで発信しているのを、このブログを通して読みました。感覚を巧みに表現する方との印象を受けました。
上記の英語試験問題に正しい答を書けたという秀才の真木君については、3 回生の時と思いますが、友人と彼の家を尋ね、ヴァイオリンの演奏を聞かせて貰ったことがあります。かなり難しい曲を、時どき音程をはずことがありましたが、リズムよくバリバリと弾きましたので、初見で弾く才能があるのだろうと感じ、色いろな面で優れている人だなと思いました。
鷲見君とは 2 回生の時からの同級生でした。大柄で恬淡で恰幅よく、目立つ人で、理論物理を専攻していました。将来も理論物理学の研究を続けると決心したのでしょう、他の大学院に進学したようですが、その頃皆の前で「くそ度胸が据わった。何も恐れることはない」と公言していました。いかにも彼らしいと感銘を受けたことを覚えています。
筆者が mechanics という単語を誤訳したことに関連して、蛇足を記します。私は学生時代に、本の名は記憶していませんが、しっかりした出版社が発行した翻訳小説を読んでいて、仲間と科学の議論をする場面で、翻訳者が量子力学のことを量子機械論と訳していたことを思い浮かべました。文脈からその内容は通じましたが、翻訳では適切な訳語を当てる注意が重要だと思いました。 (完)
[The main text of this post is in Japanese only.]
サルスベリの紅白の花。2015 年 7 月 12 日、ウォーキング途中で撮影。
Red and white flowers of crape myrtle; taken in the course of my walking exercise on July 12, 2015.2015 年 5 月 3 日〜 6 月 7 日分記事への M・Y 君の感想 33. 恵那と三ヶ根への旅
「かんぽの宿・恵那」(岐阜県)と「同・三ヶ根」(愛知県)へと、距離の離れた場所を旅し、写真にある美しい景色(農村景観日本一)、江戸時代城下町の町並み、美術館、蒲郡・竹島園地内の「海辺の文学記念館」、水族館見学などの予定を組み込み、宿では、「かんぽの宿・恵那」から見た恵那峡、「かんぽの宿・三ヶ根」から見た三河湾を望むスケッチを描かれています。筆者は健康でゆとりのある日々を過ごしておられることと拝察しました。私にとっても全く知らない土地ではありませんので、地図を参照して旅の足跡を追い、美しい数々の写真とスケッチを見ながら、楽しく拝見しました。
4. ことば
『日本の大和言葉を美しく話す』という本の広告を新聞で見た。いま、「やばい」(最近は、本来の意味とは反対の意味でも使われている)、「すごーい」(テレビの旅番組などで、案内人のタレントたちが、うるさいほどこの言葉を発する)、「つなげる」(「つなぐ」が、すでに他動詞である)、「〜になります」(「〜です」と言えばよいところで、しょっちゅう使われている)などの、変な日本語が幅を利かせている。そういう状況下で、心惹かれる本である。
と筆者は書き出しています。元アナウンサー・エッセイストの山川静雄さんが朝日紙夕刊の「人生の贈りものシリーズ」第 1 回目の冒頭で「最近どんなテレビをご覧になりますか」との質問に答えて、「NHK の娯楽番組も見ることは見ますが、どの放送局でもみられるようなタレントが司会をしていて、アナウンサーはアシスタント役として、わきにまわされている。あれなら NHK でなくてもいいわけで、昔を知る者としては抵抗を感じます」と述べています。このようなことからしても、筆者が上記に指摘した通りだと思います。
筆者は、次のように結んでいます。しかし、この本の題名は美しいとはいえない。「大和言葉」とは、「日本固有の言葉」のことだから、「日本」をわざわざつける必要がない。また、大和言葉(少なくともこの本の著者が勧めている大和言葉)自体が美しいので、「大和言葉を美しく話す」という表現も変である。[…]この本が紹介しているのは「話し方」ではなく、大和言葉そのものであり[…]。
ケチをつけるばかりで代案を言わないのもよくないだろうから、私の案を書いておく。『大和言葉で話をおしゃれに』とでもすればよかっただろうと思う。
もっともなことだと思います。私は「大和言葉」について詳しくは知りませんでした。この本には大和言葉が列挙され解説されているようです。話をおしゃれにするために、大いに参考になるものと思います。 (つづく)
[The main text of this post is in Japanese only.]
「かんぽの宿・白浜」からの眺めのスケッチ、その 2。2015 年 7 月 7 日。
Sketch of the view from Shirahama Kampo Hotel, No. 2; July 7, 2015.2015 年 5 月 3 日〜 6 月 7 日分記事への M・Y 君の感想 22. あらゆるところで戦争法案反対の意思表示を!
「私も、上掲のような写真(こちら参照)をフェイスブック・カバーとホームページに掲げ、戦争法案反対の意思表示をしています」とのこと。6 月 23 日の朝日紙は 1 面トップ記事で、『国会 95 日延長、戦後最長。安保法案、衆議院再可決も可能に。首相「決める時には決める」』と報じていました。野党も知恵をしぼって真剣に策を講じなければ、安保法案が与党の衆議院の数の力で国会を通過しそうな勢です。本議論は出発点から、一般国民には説明がつかない根本的な矛盾点があるようです。
新聞は、「安全保障関連法案を審議する衆議院特別委員会は[6 月]22 日参考人を呼んで質疑を行った。野党推薦で元内閣法制長官の坂田雅裕氏と宮崎礼壱氏は政府の憲法解釈に問題があるとして、法案の根幹にあたる集団的自衛権の行使容認に疑問を呈した。安倍内閣は、現在の畠山裕介長官の下で、これまで認められなかった集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更に踏み切った。内閣法制局の独立性を揺るがしてまで行ったこうした変更が、従来の憲法解釈と整合し憲法上認められるのかどうか、衆議院特別委員会で厳しく問われている」と解説していました。(6 月 24 日付け朝日紙から抜粋)。
[6 月]23 日に報道された朝日紙の世論調査結果は、「内閣支持率下落 39%、安保法案『反対』53%」となっています。国会の議論を TV で見ていますと、議員の方々の論理思考構造はどうなっているのか疑わしくなる議論で時間を費やしていると思われる節が多々あります。国会の議論やマスメディアの情報などにより国民が正しい判断をし、その結果をマスメディアが公正な世論調査をして報道し、国会議員の方々に知らせることが、この 95 日間の会期延長中大変重要なことだと思います。
民意を無視して国会の数の力で政治を行うことは、わが国のいつか来た道を感じさせます。筆者の上記の戦争法案反対の意思表示は、民意を強く主張する貴重な行動の一つといえるでしょう。
引用者の注:安全保障関連法案は、7 月 16 日の衆院本会議での強行採決で可決され、衆院を通過しましたが、法案成立を阻止出来るチャンスは、まだまだ残されています。私たちはあきらめないで、反対の運動を続けなければなりません。 (つづく)
[The main text of this post is in Japanese only.]
「かんぽの宿・白浜」からの眺めのスケッチ。2015 年 7 月 8 日。
Sketch of the view from Shirahama Kampo Hotel; July 8, 2015.2015 年 5 月 3 日〜 6 月 7 日分記事への M・Y 君の感想 1 M・Y 君から表記期間の "Ted's Coffeehouse 2" への感想を 2015 年 7 月 1 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。
1. 水彩画『草の根の力』
筆者は次のように書いています。 9 月に予定している長女との親子展に、親子共通の題材を扱った一組の作品を加えようということになった。そこで私は、長女のキルト作品『庭のドクダミ』に似た形で花の並ぶドクダミを描こうと、慣れない植物の絵に 1 月から取り組んでいたが、昨日ようやく出来上がった。[以下略]
ドクダミは、地下の根をどこまでも伸ばして、たくましく広がる。折しも、安保法制の名の戦争法案が国会で審議されている。9条を破壊するなという、人々の草の根からの運動が今こそ盛り上がらなければならないという思いもあって、この作品を『草の根の力』と名付けることにした。
奇しくも、けさの朝日紙「天声人語」欄もドクダミを取り上げていた。
私も筆者のこのブログ記事を見る前に、ここに記されている「天声人語」欄を読み、筆者のこの親子展のことを思っていました。よいタイミングでしたね。筆者の親子展については、本ブログ 4 月 22 付け記事「三つの絵画展へ」にも、郷倉和子、堀文子のどくだみの花の絵に関連して述べられていました。堀文子については「なもなきものシリーズ どくだみ 露草 姫小判草」について触れてあります。
ドクダミにまつわる思いは、いろいろあり得ますが、「地下の根をどこまでも伸ばして、たくましく広がる。人々の草の根からの運動が今こそ盛り上がらなければならない」と、ドクダミの力強さを作品に託したのは、今の国会の状況を考えると秀逸です。「慣れない植物の絵に 1 月から取り組んでいた」とのこと。ドクダミの植物学的な構造を観察し、精緻に描かれた庭に咲くドクダミの花に一目見て引き付けられました。貴親子展は観覧者に感動を呼び起こすものとなりましょう。
[引用者の注:私の絵は、庭にあったドクダミではなく、インターネット上にあった何枚かの写真を参考にして描いたものです。] (つづく)