2015 年 7 月 15 日、七尾・穴水間の往復で乗った「のと鉄道」の列車。
Trains of Noto Railway we took in the round-trip from Nanao to Anamizu on July 15, 2015.
さる 7 月 14 日に郷里・金沢へ墓参に行ったついでに、私が小学校入学前から小 3 の夏休み末まで住んだ七尾を訪れるとともに、そこから穴水までの「のと鉄道」の短い旅を楽しんだ。七尾では、いまやそこに在住する唯一の知人である N 氏宅を訪れ、旧・御祓(みそぎ)小学校同級生の何人かの消息が分かるだろうかと、七尾高校の同窓会名簿の私と同じ卒業年度のページを貰って来た。そうして知った 3 人の旧級友たちに電話したところ、その中の女性 1 人は私を覚えていてくれたが、男性 2 人、O・T 君と S・Y 君は私を思い出せなかった。彼らに私のことを思い出して貰う一助にと、長文の手紙を後日書き送った。2 通は、相手についての思い出部分だけが異なる、ほぼ同じ手紙である。以下に、O・T 君(金沢近郊在住)宛のものを若干修正して紹介する。
2015 年 7 月 25 日
O・T 様
炎暑の候となりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。
先日は突然電話しましたのに、長時間、思い出話に付き合って下さり、ありがとうございました。貴君が私のことをご記憶でなかったのは、同じ教室で共に学んだのが 70 余年も前という遠い昔のことで、無理もありません。
私も貴君について記憶していることといえば、実は、お名前と、勉強のよく出来る方だったということと、電話でも申しました、ご尊父が国鉄ご勤務だったことのほかには、次のようなことしかありません。1 年生の元日に式があって登校し、友人たちの間で元旦の食べ物の話が出たときのことだったでしょうか、貴君が「ぼくは "べろべろ" を食べてきた」というような発言をされたこと(私も "べろべろ" が大好きで、いまでも正月料理の一つとして、大阪育ちの妻に苦心して作って貰っています[注 1])、そして、貴君の家へ遊びに行った折に、お宅の前に広がる田んぼと遠方の山のスケッチを小さな紙にしたことです。
当時の学童服はおおむね「国防色」と呼ばれた黄土色でしたが、貴君は紫色がかった学童服を着ていらっしゃいませんでしたか(この記憶はたいへん不確かですが)。
私の父の教え子(故人)[注 2]の次男で、七尾駅前の旗店の現当主が、七尾在住で年賀状を交換し続けているただ一人の人です。先日七尾を訪れた際に彼のところへ寄りました。彼は私より 6 歳若く、七尾高校の同窓会名簿の私と同じ卒業年度のページは要らないというので、切り取って貰って来て、真っ先に貴君のお名前を見つけた次第です。
貴君に私を思い出していただく一助になればと思い、私が御祓小学校(当時は「国民学校」でしたが、戦争中のいやな名称はやめて、以下、御祓小と書きます)を去って間もない頃の写真を同封します。大連嶺前小でのクラス集合写真(1945 年 2 月撮影)からとったものです。大連へ引っ越したのは、父が死んで、母の両親のいた地へ移ったのです。大連から引き揚げ後は、母の郷里の金沢に住み、就職・結婚してから堺市に住むようになりました。金沢には、父母や祖先の墓があり、毎年墓参に行っています。
先日七尾から堺の家へ帰ったあとで、E・O(現姓 M)さんに電話しました。彼女の住む高槻市は、私の住む堺から比較的近いところです。彼女は私を覚えていてくれて、俳画を趣味にしているというので、私が長女と来る 9 月に大阪で開催する水彩画とキルトの「親子展」の案内状を送りました。ご参考までにその案内状も同封します。「親子展」会場で、古い級友と 70 余年ぶりに再会するという、珍しい経験が出来そうで、楽しみにしています。
七尾高校同窓生名簿では、御祓小で、少なくとも入学直後のしばらくの間、私がその隣の席にいた Y・S(現姓 W)さんの名前も見つけました(私は当時から近視になり始めていたので、間もなく、最後部だった S さんの隣の席から、黒板の字の見やすい前方の席へ移して貰ったと思います)。彼女は私が級長[注 3]の時の副級長(これも少なくとも 1 年 2 学期の時はそうでしたが、2 年 1 学期と 3 年 1 学期でも同じコンビだったのかどうか覚えていません)でもありましたが、いともしとやかな性格という印象があり、電話番号を知っても、活発な子という印象だった O さんに対してのように、気軽に電話しにくい気がします(住まいが堺から遠いということもあります)。そこで、彼女と大の仲よしという O さんからよろしくいって貰うように頼みました。(つづく)
引用時の注
2015 年 7 月 25 日
O・T 様
炎暑の候となりましたが、お元気でお過ごしでしょうか。
先日は突然電話しましたのに、長時間、思い出話に付き合って下さり、ありがとうございました。貴君が私のことをご記憶でなかったのは、同じ教室で共に学んだのが 70 余年も前という遠い昔のことで、無理もありません。
私も貴君について記憶していることといえば、実は、お名前と、勉強のよく出来る方だったということと、電話でも申しました、ご尊父が国鉄ご勤務だったことのほかには、次のようなことしかありません。1 年生の元日に式があって登校し、友人たちの間で元旦の食べ物の話が出たときのことだったでしょうか、貴君が「ぼくは "べろべろ" を食べてきた」というような発言をされたこと(私も "べろべろ" が大好きで、いまでも正月料理の一つとして、大阪育ちの妻に苦心して作って貰っています[注 1])、そして、貴君の家へ遊びに行った折に、お宅の前に広がる田んぼと遠方の山のスケッチを小さな紙にしたことです。
当時の学童服はおおむね「国防色」と呼ばれた黄土色でしたが、貴君は紫色がかった学童服を着ていらっしゃいませんでしたか(この記憶はたいへん不確かですが)。
私の父の教え子(故人)[注 2]の次男で、七尾駅前の旗店の現当主が、七尾在住で年賀状を交換し続けているただ一人の人です。先日七尾を訪れた際に彼のところへ寄りました。彼は私より 6 歳若く、七尾高校の同窓会名簿の私と同じ卒業年度のページは要らないというので、切り取って貰って来て、真っ先に貴君のお名前を見つけた次第です。
貴君に私を思い出していただく一助になればと思い、私が御祓小学校(当時は「国民学校」でしたが、戦争中のいやな名称はやめて、以下、御祓小と書きます)を去って間もない頃の写真を同封します。大連嶺前小でのクラス集合写真(1945 年 2 月撮影)からとったものです。大連へ引っ越したのは、父が死んで、母の両親のいた地へ移ったのです。大連から引き揚げ後は、母の郷里の金沢に住み、就職・結婚してから堺市に住むようになりました。金沢には、父母や祖先の墓があり、毎年墓参に行っています。
先日七尾から堺の家へ帰ったあとで、E・O(現姓 M)さんに電話しました。彼女の住む高槻市は、私の住む堺から比較的近いところです。彼女は私を覚えていてくれて、俳画を趣味にしているというので、私が長女と来る 9 月に大阪で開催する水彩画とキルトの「親子展」の案内状を送りました。ご参考までにその案内状も同封します。「親子展」会場で、古い級友と 70 余年ぶりに再会するという、珍しい経験が出来そうで、楽しみにしています。
七尾高校同窓生名簿では、御祓小で、少なくとも入学直後のしばらくの間、私がその隣の席にいた Y・S(現姓 W)さんの名前も見つけました(私は当時から近視になり始めていたので、間もなく、最後部だった S さんの隣の席から、黒板の字の見やすい前方の席へ移して貰ったと思います)。彼女は私が級長[注 3]の時の副級長(これも少なくとも 1 年 2 学期の時はそうでしたが、2 年 1 学期と 3 年 1 学期でも同じコンビだったのかどうか覚えていません)でもありましたが、いともしとやかな性格という印象があり、電話番号を知っても、活発な子という印象だった O さんに対してのように、気軽に電話しにくい気がします(住まいが堺から遠いということもあります)。そこで、彼女と大の仲よしという O さんからよろしくいって貰うように頼みました。(つづく)
引用時の注
- 「べろべろ」という料理の名は、わが家の中だけでの愛称かと思っていたが、そうでなかったことをこのときに知った。「べろべろ」(別名「えびす」)は石川県の郷土料理で、溶かした寒天に卵液を流し込み、上層部に浮かんだ模様にして、冷やし固め、正月や祭りなどの折に作るものである。
- 父が七尾郊外の高科小学校で教えていたときの教え子だったと、今回初めて知った。私はいままで、父が大連 2 中、金沢 1 中、七尾中(いずれも旧制)に勤務したことしか知らなかったが、師範学校卒業直後には小学校で教鞭をとっていたのである。
- 級長とは、いまの学級委員のようなものだが、児童による互選ではなく、クラス担任の先生が、小 1 の 2 学期以降に、成績のよい児童を選んで任命し、学期が変わると別の児童が任命された。
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