2015年7月31日金曜日

旧友への手紙 2 (Letter to an Old Friend of Mine -2-)

[The main text of this post is in Japanese only.]


私が住んでいた頃とはすっかり様変わりした JR 七尾駅前の風景。
Landscape in front of JR Nanao Station. The view has completely changed from the days when I lived there.

 貴君も級長を務められたのではなかったでしょうか(私は自分が級長に選ばれた記憶はあっても、他に誰がなったのか覚えていないのですから、記憶も身勝手なものです)。級長になると軍隊式の赤い筋の入った腕章(服の腕の部分に縫い付けるもの)を貰ったと思います。夏用には胸につける布の徽章(ピンクの桜の花型の中に緑色の級長の文字があったと思います)を貰ったようです。

 屋外での朝礼か何かの折に、隣の松組の級長・H 君[注]と私とが、各組の先頭に立って並んでいました。その二人を比較して、松組の先生(お名前を忘れました)と私たち竹組の O 先生が、H 君は帽子を少し傾けて洒落っ気を出しているが、タバタ君は生真面目にまっすぐにかぶっていると話していらっしゃいました。

 E・O さんは電話中に、S・Y 君という級友がいたことを思い出させてくれました。それで、彼にも電話しましたが、貴君と同様に、彼も私のことを思い出せないようでした。私も彼については、ある日の休み時間に相撲を取ったところ、私はスポーツが苦手だったにもかかわらず、いい勝負だったということしか覚えていないのですから、不思議ではありません。それでも長時間、互いに思い出を語り合いました。

 馬出町のわが家のあった通りの角には、医者の息子の故 H・H 君がいました。彼とは、紙芝居のようなものを一緒に作って遊びました。小さな箱の底部を観音開きの扉のついた窓のように切り開き、箱の側面近くの両端に、底部に平行に割り箸を突き刺し、そこへ長く貼り合わせて幾つもの絵を描いた紙を巻きつけ、割り箸を回して、絵を次々に窓の部分に出すのです。「紙芝居」のテーマは「サイパン島玉砕」など、軍国少年的なものでした。その工作道具一式を入れて彼が持参した紙袋に「工作ぶくろ」のつもりで「作さくぶくろ」と書いてあったことを、いまでも覚えています。中学時代、金沢兼六園球場で県下の中学野球大会があった折に、彼の名を御祓中学の選手の名として北國新聞紙上で見て、懐かしく思ったものです。

 私は幼稚園へ行かなかったので、小 1 の時に水疱瘡やハシカにかかった上に、しばしば風邪も引いて、よく学校を休みました。ある時しばらくぶりで登校すると、父君が銀行勤務だったと思う女児(T さんといったでしょうか)が、「タバタさんはこんなの知らないでしょう」といって、♪ターデターデガキツー/イールマイールマイルマンマー/…♪と、文部省唱歌「月」を器用に逆さまに歌ってみせました。しばしば欠席しても先生の質問によく答えていた私に、彼女は仕返しをしたつもりだったのだろうか、などと思っています。また、私が前方の席に移して貰ったときの隣席が彼女だったのかとも思います。

 私が先生の質問によく答えていたといっても、何を答えたのか一つも覚えていませんが、そのことに関係する思い出があります。ややだぶだぶの黒い学童服を着ていた、腕白な児童(名前を思い出せません)が、「タバタはお母さんみたいに、なんでも知っとる。あだ名を "お母さん" にしよう」といったことです。そのあだ名は定着しませんでしたが…。

 時折脳裏を去来する懐かしい思い出の一端を書き留めておきたい気もあって、長文の手紙になり、失礼いたしました。

 では、くれぐれもご自愛下さい。ごきげんよう。

 引用時の注
  • H 君は金沢大学附属高校へ進み、私の住んでいた家の比較的近くにいて、その頃再会した。彼は大阪大学理学部物理学科という、私と似た大学進学をした。彼の就職した会社名も聞き知ったが、その後の消息を知らない。彼の七尾の家は大きな屋敷だった。それがどうなったか分からないだろうかとインターネット検索してみると、 "七尾の財閥・H 家にあった茶室は七尾城史資料館の玄関前に移設され、「日本一小さい茶室」として知られている" ことが 分かった。合わせて、 H 家の屋敷が戦後進駐軍に接収されていたということも知った。

1 件のコメント:

  1. 突然のコメントで失礼します。読売新聞の記者で山田と申します。戦前の小学校での級長について記事を書いておりまして、お話を伺えると幸いです。ymdm0049@yomiuri.com までご連絡をいただけませんでしょうか。ご検討くださいませ。

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