【概要】さる6月16日、大山崎山荘美術館(写真)で「万緑の大山崎山荘、絵画コレクション展――印象派を中心に――」を見た。美術館の前身の山荘を建てた実業家・加賀正太郎は、若い日ヨーロッパに遊学し、その際に魅せられた洋ランの栽培にこの山荘で没頭し、多くの新種を生みだした。第2次世界大戦の終り頃、山荘の庭園に戦車を置きたい、と軍人たちが加賀に頼みに来たが、洋ラン同様に平和を愛した彼は、軍人たちの暴力に抗して、許可しなかった。彼は軍事力でなく、文化によって日本を世界に知らせたいと願っていたという。 (Read the main text in English.)
この日に撮った関連写真:美術館の別の写真;美術館2階テラスからの南方の眺め;テラスからの北西方の眺め;美術館の庭園。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
Y 06/28/2005
いま、「高齢者の方々の福祉現場記録」(先日の体験、現象学的記述の前・前段階)が精神的に負荷がかかって一向進まないので、こちらに記事を読みに来ました。
加賀氏は実業家とのことですが、財も必要なことなのですが、洋ランならば洋ランの栽培に没頭し、実績も文化的価値も生み出せるような、ある意味こだわりの強い生涯を歩める人が輩出される日本社会であることが、貴重な文化・文化的建造物が遺されてゆく秘訣であるかとも思います。加賀氏は生涯がすべて戦時中であったような時代の方ですね。当時は軍人の力に抗する態度は容易ではなかったことでしょうね。
Ted 06/28/2005
加賀正太郎は、ウィンザー城を訪れた際に眺めたテムズの流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流する大山崎に山荘を建てたそうです。まさに、こだわりの強い人だったようです。戦後間もない1946年に、加賀が京都の版画師たちに依頼して自費出版したランの図録『蘭花譜』(木版多色摺り)は、貴重な学術的資料として今に伝わっているとのことです。図録は、いつまた出版が困難になるかも知れないと急いで作成されたため、製本された形でなく、多数のシートを大きな箱に収めたものになったそうですが、その作成にも大いにこだわりが感じられます。一部は大山崎山荘美術館で額に入れて展示されています。美術館のビデオでは、軍人たちの依頼を拒否した結果、顔全体に包帯を巻く結果となった写真が紹介されていました。
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