2005年9月8日木曜日

上村(かむら)地蔵尊


 わが家の近くの笠池公園の北側の短い坂道を登りつめたところに、近年改築された立派な地蔵堂がある(写真上)。そこに収められている地蔵尊(写真下)の由来が、地蔵堂の前の説明板に詳しく書かれている。それが面白いので、ここに紹介する。(原文は、一つのセンテンスが長すぎたりして、名文とはいえないので、全体にわたり書き換えた。そもそも題名が「上村地蔵尊縁起由来」となっているが、縁起と由来は同義語であろう。「一対の石像」という表現もあるが、石像は対になってはいない。「一体の石像」の間違いと思われる。)

   上村地蔵尊縁起

 668(天智天皇7)年頃、上村(かむら)に照という女性がいた。照女は法貴丸の乳母となって、彼を大切に育てた。法貴丸は成人して行基となり、乳母の功績を讚え、地蔵尊の石像を作って彼女に与えた。照女は尼となり、法名を妙善とするとともに、堂を建てて石像を安置し、生涯信心を怠ることがなかった。

 照女の死後も、石像は村人の信仰を集め、大切に守られてきた。しかし、戦国時代末期(1580年頃)に、村を襲った悪人が石像を井戸に投げ込んだ。人びとはこれを知ることなく、約60年が過ぎた。ある日、一人の村人が井戸の中から自分を呼ぶ声を聞き、不思議に思って井戸をのぞくと、一体の石像があった。はしごをかけて降りていくと、不思議や、石像の方から村人の背にもたれかかり、軽がると地上に持ち上げることができたという。1644(正保3)年のことであった。

 妙善以来久しく崇敬してきた尊像に再び接した村人たちは、奇異の思いを深くし、また、信心をいっそう篤くし、村をあげて堂を建立して、地蔵尊を崇拝した。この石像こそ、行基菩薩の作として近郷近在の信仰を集めた「上村の地蔵尊」である。家内安全、無病息災、とくに安産と母乳の出を願うと霊験あらたかといい伝えられている。

 その後、堂は地蔵尊講の手によって手厚く守られてきたが、老朽化したため、1999(平成11)年12月から再建を進め、翌2000年3月吉日、落慶法要を相営んだ。

 2000(平成12)年3月吉日
 (「上運営委員会」作成の原文に手を加えた。)


 石像が声を出したり、自ら村人の背にもたれかかったりしたというのは、怪談めいているが、像のありがたみを増すための後代の脚色であろう。なお、私の持っている年号西暦対照表によれば、天智天皇7年は西暦667年、正保3年は1646年であり、説明板の文はこれらの点でも狂っているようだが、ずれている年号と西暦のどちらの年を採用すべきかが分からないので、原文のままにした。『広辞苑』には行基の生年が668年とある(没年は749)ところから見れば、「668(天智天皇7)年頃」は「668(天智天皇8)年頃」とすべきかも知れない。

 ここまで書いて、行基のことを少し詳しく知りたいと思い、"Google" で検索したところ、すでに、大阪近辺の異名地蔵尊30体の一つとして、上村地蔵尊を「乳地蔵尊」の名で紹介しているウェブページ [1] のあることを知った(ウェブサイト [2] の一部をなしている)。そこには、現在の説明板にあるのとほとんど同じ由来が記されているが、井戸から石像を引き上げた村人の「弥兵」という名が見られ、地蔵堂の所在地の大まかな地図も添えられている。また、その場所は照女の住んでいた屋敷址とも伝えられている、との説明もある。

 行基について記したウェブページ [3] によれば、彼は和泉国大鳥郡蜂田郷に百済系渡来人の血をうけて生まれた旨記されている。上村(現在の町名は「町」をつけない「上(かみ)」)からほぼ北約2kには大鳥大社が、また、ほぼ東約2kmには蜂田神社があることから、大鳥郡蜂田郷という村は、まさにこの付近にあったことが分かる。

 行基についての上記ウェブページの説明中では、彼が「弟子たちを自ら率いて、交通の難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築いていった。…中略…また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、彼らを救うために布施屋を9ヵ所も作った。彼のこうした社会事業は、国家仏教の形をとっていた当時においては、僧尼令に違反するものであったので、五度にわたって中止を命ぜられ、弾圧もされるが、彼は国是の禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていった」という記述が印象的である。行基の仕事は後に公認され、さらに、東大寺の建立に協力したことによって、彼は聖武天皇に敬重され、745(天平17)年に、わが国で最初の大僧正の位を授けられたのである。

後日の追記

 行基の生涯を記した本 [4] が哲学者・岩崎允胤によって最近著されたことを知った。

文 献

  1. 15. 乳地蔵尊 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  2. 三村正臣, 野仏巡礼 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  3. 北河内古代人物誌・僧行基 (2005) (後日の注:リンク切れとなった).
  4. 岩崎允胤, 天平の桑門―僧行基の生涯 (本の泉社, 2005).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/08/2005 11:14
 一見したところなんの変哲もない小さな地蔵に、不似合いなほどの瀟洒な立派なお堂と見受けましたが、行基ゆかりとなれば合点のいくところです。役行者伝説や行基伝説は、灌漑や治水で各地に伝説を残した空海—弘法大師の祖形ともいえる、日本の民衆宗教のもっとも古層の人たちですネ。

Ted 09/08/2005 13:23
 伝説には尾ひれがついているかも知れませんが、それにしても、昔は強靱な人たちがいたものと感心します。

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