[In Japanese only]
M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2011年9月分への感想を2011年10月24日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。青色の文字をクリックすると、言及されている記事が別ウインドウに開く。
1. 湯川秀樹のリンダウ講演 (Hideki Yukawa's Lindau Lecture)
第3回ノーベル賞受賞者リンダウ会議での湯川秀樹の講演をよく見つけましたね。演題の「素粒子の統一的理論への試み」の頃の時代背景がよく分かります。イギリスの物理学者セシル・パウエルの業績を称えながらも、「パウエルは私にとって不要な多くの余分な粒子を見つけた」と湯川らしく皮肉めいたユーモラスな表現をしています。
湯川の中間子予言の2年後の1937年にアメリカのセス・ネッダーマイヤーらが宇宙線からμ中間子を発見し、これが湯川理論の中間子に対応するものと考えられましたが、性質がだんだん分かってくるにつれて、これが湯川理論の中間子であるとすることにいろいろな困難のあることがわかり、パウエルらによって1947年にπ中間子が発見されるに及んで、これが湯川理論の中間子であると考えられるようになりました。パウエルは、写真乾板による原子核崩壊過程の研究法の開発および諸中間子の発見により、1950年のノーベル物理学賞を授賞しました。
「湯川の英語の話し方には京都なまりがある、という噂があった。しかし、このリンダウ講演を聞くと、私にはそうは思われない。この講演での彼の声は若々しく聞こえ、"The Yukawa Story" というビデオのナレーターとして聞くことの出来る子息、高秋の声にかなり似ているような気がする。また、湯川の英語講演は、大学の教室においての日本語での講義よりも聞きやすいように思われる」と、筆者は自身の感想を述べています。湯川先生の講義を受講した私の経験から、さもありなんと思いました。興味深く読みました。
2. 台風12号が去って (After Typhoon Talas)
記録的な大雨を降らした1979年以来最悪の台風通過を機に、さり気なく御地の台風が去った後の安堵した様子を報じ、あまり知られていない専門機関が使用している台風名についても注記してあり、よい記事だと思いました。気象庁のウェブサイトによると、「北大西洋または南シナ海の領域で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14ヵ国が加盟)は、2000年から同上領域で発生する台風には、領域内で用いられる、加盟国などが提案した固有の名前をつけることになった」そうです。
3. 「戦友」:太平洋戦争中に禁止された軍歌 ["Sen'yu (The Fellow Soldier)": The Martial Song Banned during World War II]
付記に引用されている「戦友」についての解説には、
唱歌「戦友」を軍歌という人もありますが、私は、唱歌「戦友」は軍歌ではなく、反戦歌でもなく、戦死者を弔う鎮魂歌だと思います。戦時中、軍部は出征兵士を送るときにこの歌を歌うことを禁止しましたが、この歌が絶えることはありませんでした。現在でも愛唱する人は多いと思います。
という評価が記されています。昭和初期に兵役義務を果たした私の父は、全14番の中から抜粋して、よく歌っていまいた。当時の陸軍ではこの歌が愛唱されていたことと思います。このたび、歌詞を読んでみました。前年船出してお国が見えなくなった時、玄海灘で手を握り名乗りあったことから始まり、最後は、親たちが行燈の陰で読む姿を思いつつ、彼の最期を細ごまと、涙ながらに書き綴ります。ただ、一ヵ所「お国のためだ、構わずに、後れてくれるなと、目に涙」とあります。この「お国のため」は、一兵士としての国民の義務を意味しているに過ぎません。これを読んだブログには「古いグレゴリオ聖歌の旋法が使われている」とも書いてありました。
解説にある「戦死者を弔う鎮魂歌だ」との評価は妥当だと思いました。「あーかい夕日」は楽譜上、「あかいー」でしょうが、渥美清のような名優が「あーかい」と歌うことからしても、筆者の指摘の通りです。私は昭和19年秋に上海から引き揚げました。当時、長崎、下関への上海航路の制海権は既に失われ、辛うじて釜山―下関の玄海灘では保たれていました。そこで大陸回りの鉄道で釜山まで行き、このとき奉天近くの満州の南端も通りました。高粱畠が広々と続く満州大地の「あーかい夕日」をしんみりと眺めたことをはっきり記憶しています。
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