2013年1月21日月曜日

2012年12月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of December 2012)

[This post is in Japanese only.]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2012 年 12 月分への感想を 2013 年 1 月 19 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。



1. 理論物理学者の分類、とくに湯川と朝永について
 亀淵廸氏が『図書』誌 2012 年 12 月号に「グラムシの言葉と湯川・朝永・坂田」と題するエッセイを書いている。氏は「知ることから分かることへ、感じることへ、そしてその逆、感じることから分かることへ、知ることへ——の移りゆき」という A・グラムシの言葉にある「感じる」「分かる」「知る」を理論物理学における三つの段階に当てはめ、それらを I「実務家」、II「理論家」、III「自然哲学者」の段階と名づける。次いで、日本における素粒子論の開拓者、湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一を I、II、III の型に分類することを試みている。ここでは、この分類について紹介するとともに、これを南部陽一郎氏が提唱した 2 種類の分類方法による湯川と朝永についての分類結果と比較する。
 上記のように、英文の本文の梗概を記しています。本文の後半は、亀淵と南部氏の互いに異なる観点に基づくクラス分けにおいての、湯川秀樹、朝永振一郎の評価結果についての議論であり、筆者は持ちまえの論理的な考察を加え、興味深いエッセイとしてまとめています。後半部の概訳を試みました。
 亀淵氏の分類は次のように考察によっている。——坂田は方法の人で、彼が成功した研究、すなわち二中間子論と素粒子の坂田モデルは、現象論的であるので、タイプ I とする。朝永は数学に精通し、くみこみ理論を見出しノーベル賞の受賞につながった超多時間理論を作り出したように、色々な物理的要請に基づき理論を組み立てる達人であり、タイプ II とする。湯川の非局所場または素領域から出発した包括的な素粒子論を創出しようとする研究は、知ることから分かることへ、そして感じることへの過程をたどっているが、完成しなかった。しかしながら、「そのような基本的理論が私の究極の目標であり、中間子論は私の研究過程の副産物であった」と、湯川は晩年に述懐している。また平和にまで広がる文化面の諸問題にも意見を表明しているので、タイプ III に分類した。——

 筆者は南部氏による次のような類似の分類を思い出す。
 「かつて私は理論物理学者を手法のスタイルによって三つのタイプに分類し、それらを Hisenberg (H)、Einstain (E)、Dirac (D) 型と名づけた。これは、彼らのもっとも特徴ある業績、すなわち、量子力学、重力理論、Dirac 方程式をもとにしたものである。Hisenberg 型は発見的、ボトムアップ、帰納的。Einstain 型は公理的、トップダウン、演繹的。Dirac 型は抽象的、革命的、審美的である。…中略…湯川は中間子論を提起したときは、H に属するといっても差し支えないであろう。非局所理論を手がけたときには、E になり損ねている。私は朝永には、少しためらいがあるが、E を割り当てる。大抵の理論家は H または E に属するが、湯川と朝永を比較するとき、設計者と名工に例えるのが適当であろう。」
そして筆者は、次のように結論づけています。
亀淵のタイプ II と III は、それぞれ南部の H と E に対応するように思われる。しかし、この対応が同一と考えると、亀淵と南部による湯川と朝永の分類に矛盾をきたす。この矛盾は亀淵と南部の観点の相違によるものである。すなわち、亀淵は物理学者の方法論に重点を置いている(ことに湯川の分類に対して)が、南部は成功した研究に重点を置いている。他方、亀淵のタイプ II と III は、南部の設計者と名工のカテゴリーにそれぞれ対応しているように思われる。この場合には、二人の物理学者に対する亀淵と南部の分類の間には矛盾はないと見ることが出来る。この一致は、南部のこちらの分類が亀淵と同様に物理学者の方法論に基づいているからである。

2. 冬に笑う
 昨日の衆院選で多数当選した自民党は笑っているだろうが、私は政治の冬の到来を思い、その党の、暗い戦争の時代に対して何の反省もない、歴史に大逆行する恐ろしい改憲草案をあざ笑わざるを得ない。

 日本語で読んでいる方へのお知らせ:最近の私の政治や平和に関するブログ記事は、おおむね『福泉・鳳地域「憲法9条の会」』の方で書いています。
と述べています。

 このブログ記事を見て、筆者が以前から掲載された数多くの記事が、項目別に系統的整理されて保存されていることを知りました。最近の記事、「歴史観、見直せば孤立」藤原帰一氏、朝日紙「時事小言」欄で (2012.12.27)、「日本国憲法を起草のベアテ・シロタ・ゴードンさん死去」毎日新聞など (2013.1.1)、「漱石が『それから』に映した日本」 (2012.12.30)、情報短信「日本国憲法が最先端」と米憲法学者ら分析 (2012.6.6) などが参考になりました。

 憲法改正派の説得材料になっている根底は、新憲法が占領軍によって作られたということです。このことに関して、当時の憲法改訂は次のように行われていました。GHQ(連合国最高司令官総司令部)から大日本帝国憲法を改め民主憲法の策定を指示され、1945 年 10 月から政府は草案の検討に入りました。この途中段階で明治憲法とあまり変わらない政府憲法草案が新聞にスクープされ、国民の知るところとなりました。これを知ったマッカーサーは、憲法草案に盛り込む必須3項目、いわゆるマッカーサーノートで、天皇の地位、戦争の廃止、封建制度の廃止、を要請し、極東委員会(1945.12.28 設立、GHQ の上位組織)が機能し憲法策定にいたる前に、民生局が憲法案の作成を完成するよう要請しました。

 その後、極東委員会が憲法の基本原則を決定し(1946.7)、GHQ を通じて、吉田内閣にその旨伝えました。吉田総理は芦田均を委員長とする帝国憲法改正委員会で、修正案の作成を指示しました。この案は国会の審議、修正を経て、1946 年 10 月に衆議院で可決されました。このようなことから、憲法9条はマッカーサーノートの第2項が枠組みとなっていますが、わが国の当時の現状と将来の世界を考えて真剣な検討がなされ、GHQ との交渉を繰り返し制定されたように思われます。この作成過程の詳細については、国会図書館の日本憲法のウェブサイトに資料があるそうです*。
* Ted の注:そのサイトは、「日本国憲法の誕生」です。戦争放棄については「論点 2 戦争放棄」のページ参照。
 この世界平和を理想に掲げた憲法9条が実施されて、すでに 60 数年の歳月が経ちました。その間わが国は世界でトップレベルの経済大国となり、繁栄を享受してきました。これには、良きにつけ悪しきにつけ、米国との友好関係が支えとなりました。芸術も古典から現代まで、日本文化になじむ人々が世界中に広がり、日本を好ましく思う人の輪が広がりつつあります。憲法9条の改正が現実味を帯てくる現在、地政学的にも大きく変化する世界情勢の中で、憲法9条の真意について世界の認識と理解を深める努力をし、わが国が国連などで誇りをもって、世界の紛争などの解決に活躍できる道筋を真剣に考える時期にさしかかっていると思います。筆者の『福泉・鳳地域「憲法9条の会」』でのご活躍を祈ります。

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