2009年1月29日木曜日

力とは:斥力、引力、そして… (6)

 Mさんが紹介した武谷の言葉 [1] は次の通りである。

 湯川、坂田両氏は、最初のスカラー場を量子化し、この方法で陽子中性子のあいだの力を再度計算してみると、最初の論文で引力として出ていたものが、計算のまちがいであることがわかった。陽子と中性子の力はスカラー場では斥力しか出なかったのである。こうなると、陽子と中性子が引っぱり合ってできている重水素核が理論からは出てこないことになる。
 湯川氏が最初の論文で計算をまちがわなかったら、引力の重水素核の状態を出してくることができないので、最初の論文が発表できず、湯川理論は生まれなかったであろう。計算のまちがいが湯川理論を成立させたことになったのである。計算もときどきはまちがうことも悪いことではない。
 最初のスカラー場では、磁気能率やその他の核力の性質がでてこないだけではない。核力を引力に出してくることすらできないのである。これはなんとかしなければならいということになった。

 武谷の言葉の趣旨は、中間子論第2論文は、第1論文の誤りに気づいて書かれたということと思われる。計3回出て来る「スカラー場」は、ふたつ目のところで「斥力しか出なかった」とあるところから、「スカラー中間子による場」ではなく、「ベクトル中間子による場の第4成分」の意味と解釈すべきであろう。

 ところで、「最初の論文で引力として出ていたものが、計算のまちがいであることがわかった」という武谷の表現には疑問がある。第1論文の "The reason for taking the negaive sign in front of g will be mentioned later." という文からは、 g の前の符合は、Brown ら [2] が述べているように、「選択した」と取るのが正しいと思われる。そうすると、「計算のまちがい」でなく、「斥力になることに気づかないで、引力のポテンシャルを書いたつもりとしては、まちがった符合を選んだことがわかった」というべきである(のちの計算で分かったように、ベクトル中間子場の第4成分という意味では、選んだのは、たまたま、ちゃんとした計算と合う正しい符合であった)。

 さらにいえば、Pais [3] が述べているように、そもそも湯川が符合は選べると思ったのが、まちがいのもとであり、このまちがいは、相対論的ラグランジアンから出発する扱いを省略したことから来たものと思われる(これを「計算のまちがい」と呼んでもよいというならば、武谷の表現はそれでよいことになるが)。

 なお、私のこの記事の第4報において、デイビスの本にある「場の量子論の数学的計算をきちんとすれば、力が引力になるか斥力になるかは、交換される仮想量子のスピンによって決まることが分かる」という言葉を紹介したが、その「きちんとした計算」の紹介は私の手にあまるところである。興味のある方は、たとえば文献 [4, 5] を参照されたい。

(完)

  1. 武谷三男, 素粒子論グループの形成, 坂田昌一, 武谷三男『真理の場に立ちて』(毎日新聞社, 1951) [のちに『素粒子の探究—真理の場に立ちて—』として再出版 (勁草書房, 1965)] 所収.
  2. "This 'choice' was later found to be inconsistent with the original type of meson theory, leading subsequently to other types." L. M. Brown and H. Rechenberg, "The Origin of the Concept of Nuclear Forces," p. 108 (IOP, 1996).
  3. "Yukawa incorrectly believed to have the freedom of replacing g2 by −g2." A. Pais, "Inward Bound," p. 431 (Clarendon Press, 1986).
  4. J. J. Sakurai, Advanced Quantum Mechanics, Sections 1-3 and 4-6 (Addison-Wesley, Reading, Ma., 1967).
  5. A. Zee, Quantum Field Theory in a Nutshell, Section I-5 (Princeton University Press, Princeton, 2003).

2009年1月28日水曜日

力とは:斥力、引力、そして… (5)

 湯川は力の符合について、のちに次の通り語っている [1]。

 第1論文では中間子はベクトルなんです。4次元的な意味でのベクトルなんです。ベクトルのスカラー成分だけ取るというつもりでやってる。だから力の符合が普通のスカラーと逆になるわけです。negative energy と positive energy の逆転です。第2論文ではスカラー中間子を取りあつかっています。

 ここで、中間子がベクトルというのは、スピン1の量子という意味で、スカラー中間子とは、スピン0のものである。講演を収録した『自然』誌には、森田正人氏による解説 [2] がついており、上記の部分については、スカラー量、ベクトル量などのローレンツ変換について説明したのち、次のように記してある。

 4成分を持ったベクトル中間子の第4成分だけを取り出して考えてみると、その性質は1成分しかないスカラー中間子の振舞いとほぼ同じようにみえる。しかし、核子と中間子の相互作用の結合定数をおのおの gVgS とおくと、相互作用の相対論的不変性の要求から、ベクトル型には虚数単位 i が必要で、igV となるので、核力を計算するときこれらの自乗がきき、核力ポテンシャルは −g2VU(r) および +g2SU(r) となる。すなわち、エネルギーの符合は逆転し、一方が引力なら他方では斥力となる。

 このブログ記事の第1報からここまでに記したようなことを、湯川秀樹を研究する市民の会の1月例会で話したところ、質疑応答の中で、Mさんから中間子論第1論文と第2論文に関連した武谷三男の言葉が紹介された。

(つづく)

  1. 湯川秀樹, ベータ崩壊の古代史 (1974年, 京都大学基礎物理学研究所での講演), 自然 1981-11 増刊, p. 204 所収 (1981).
  2. 森田正人, 「ベータ崩壊の古代史」解説, ibid. p. 214 (1981).

2009年1月27日火曜日

力とは:斥力、引力、そして… (4)

 以上に紹介した南部、ポリツァー両氏の対談には、「電磁気力」と「弱い力」が出てきた。紹介の途中で、湯川が中間子を仮定して考察した核力の話をカッコ内に挟んだ(第1報の最終パラグラフ)。現在、核力は陽子や中性子を構成するクォークの間でグルーオンを交換して生じる力(「強い力」)がもれ出した効果と理解されている。自然界にはもうひとつ「重力」があり、基本的な力はこれらの4種類である。重力は重力子(グラビトン)という粒子の交換によって生じると考えられているが、この粒子を実験的につかまえることは、まだできていない。

 ところで、同じように粒子(仮想量子)を交換しても、ある場合には斥力が発生し、またある場合には引力が発生する。この相違はどこからくるのだろうか。ふたつの粒子の間の力の場を距離の関数として表すポテンシャル関数の符号が仮想量子の種類によって異なるといわれれば、分かったような気はするが、その符合の相違が仮想量子の何に起因しているかが知りたくなる。A〜D図を描く参考にしたP・C・W・デイビスの本 [1] には、次のように説明してある [2]。

 場の量子論の数学的計算をきちんとすれば、力が引力になるか斥力になるかは、交換される仮想量子のスピンによって決まることが分かる。スピンが1の光子は同符号の荷電粒子同士を反発させる。スピン2の仮想量子の交換に基づく重力は引力となる。引力に対する最も簡単な選択はスピンを0とすることである。これが湯川の選択であった。

 スピンとは、素粒子または素粒子から構成される量子力学系のもつ基本的な量のひとつで、力を媒介する仮想量子となる素粒子は0、1、2などの整数値のスピンをもつ。デイビスは、湯川は中間子(湯川の論文中ではU量子)のスピンを0と仮定したことを述べているが、中間子論第1論文ではそのように仮定してはいなかった。第1論文ではポテンシャルの符合が間違っていて、原子核の中で中性子と陽子を結びつける引力の原理について提唱したはずの理論が、斥力について書いていたといわれる由縁である。

(つづく)

  1. P. C. W. Davies, The Forces of Naure, 2nd ed. (Cambridge University Press, Cambridge, 1986; 1st ed. published in 1979).
  2. ibid. p. 91 (和訳は筆者).

2009年1月26日月曜日

力とは:斥力、引力、そして… (3)

 南部さんが、始めのふたつの粒子が消えて、新しいのが現れる場合も、やはりふたつの粒子の間の相互作用だといったのを受けて、ポリツァーさんは「ときにはひとつが入ってきて、みっつがでてくることもある」と発言している。南部さんは、「その通り。それも『力』と呼ばれる。ひとつの粒子がみっつに崩壊する場合です」と答える。これはまさにポリツァーさんが始めに述べた「弱い力」のことである。

 C図は中性子(n)が陽子(p)と電子(e)と反ニュートリノ(νの上に反粒子であることを示すバーがついている)に崩壊するファインマンダイアグラムで、弱い力による現象のひとつを表している。このときに負電荷のWボソンという媒介粒子が放出・吸収されるが、これも先のA図(前報参照)中の光子と同じく仮想粒子であり、現実には出てこない。それで、この崩壊はポリツァーさんのいう「ひとつが入ってきて、みっつがでてくること」に相当する。

 力はふたつのものの間で働くと考えると、このような崩壊になぜ力がかかわっているのかと、学生時代のポリツァーさんのように理解に苦しむことになる。しかし、B図(前報参照)のところで、バーテックスから粒子が出て行くのは、反粒子が入ってくることと同じと考えた。ここでもその考えを適用すれば、C図の右側のバーテックスから出て行っている反ニュートリノは、そこへニュートリノ(ν)が入ってきていることと同等ということになる。そういう見方でC図を描き換えると、D図となる。これは、荷電粒子同士の斥力による散乱を表すファインマンダイアグラム A図と同じ形をしている。したがって、ポリツァーさんが最初にいっていたように、崩壊も「現代的な意味での力」ということになるのである。(A〜D図を描くにあたっては、文献 [1] を参考にした。)

 (つづく)

  1. P. C. W. Davies, The Forces of Naure, 2nd ed. (Cambridge University Press, Cambridge, 1986; 1st ed. published in 1979).

2009年1月25日日曜日

力とは:斥力、引力、そして… (2)

 南部さんはポリツァーさんに対して、「ところが、これをひっくり返すと、前の部分が消えて、新しいのが現れる。この場合もやはり、ふたつの間の相互作用と呼ぶんですね」と言葉を続けている。「これ」というのは、南部さんがホワイトボードに描いたであろうA図のことである。そして、「これをひっくり返す」というのは、A図を90度回転することであろう。右回りに回転すると、B図のようになる。

 ただし、右下と左上の直線についている矢印は、下向きになり、粒子が過去へ向って運動しているかのようである。この場合、ファインマンダイアグラムでは、反粒子が矢印とは逆向きに運動していることを表すと解釈する。電子の場合、その反粒子とは陽電子(e+)のことである。したがって、下側のバーテックスに集まっているふたつの直線は、電子と陽電子が近づいてきていることを意味する。

 そして、バーテックスから上に延びている波線は、電子と陽電子が衝突したとき、それらがなくなって、代わりにひとつの光子が発生することを意味している。南部さんの言葉の「前の部分が消えて」に相当する。このときに発生した光子は、消えてなくなった一対の電子と陽電子の静止質量の和に相当するエネルギーをもっていて、A図の仮想光子とは異なり、実在の光子として観測にかかるものである。ここまでの現象は、電子対消滅と名づけられている。

 B図には示されていないが、電子と陽電子は衝突して消滅する前に仮想光子を交換し続け、それらの光子が、いまの場合近づいてきている粒子同士の電荷が互いに異符号であるとの情報を伝え、粒子間に引力を発生させているのである。

 Bのファインマンダイアグラムをさらに上へたどると、発生した実在の光子は、ある程度飛行したのち、ふたつ目のバーテックスが示す時空点で消滅し、代わりに一対の電子と陽電子が発生することが表されている。この現象は電子対生成と呼ばれる。南部さんの言葉の「新しいのが現れる」に相当する。光子の発生の前にあった電子と陽電子はなくなってしまい、新しい電子と陽電子が誕生したのであるから、かかわっている粒子は合わせてよっつあることになりそうだが、南部さんは「この場合もやはり、ふたつの間の相互作用と呼ぶ」と説明している。原理的には、Aのファインマンダイアグラムをひっくりかえしたに過ぎない現象だからである。

 対談のこれまでの「力」という言葉の代わりに、南部さんはここで「相互作用」という表現を使っている。素粒子間の現象としては、両者は同じ意味に使われるのだが、「ふたつの間の力と呼ぶんですね」といって貰えば、もっと面白味が出たと思われる。

(つづく)

2009年1月24日土曜日

力とは:斥力、引力、そして… (1)

 南部陽一郎とH・D・ポリツァーの両氏による1979年の対談を和訳して出版した本 [1] が、前者の2008年ノーベル物理学賞受賞を記念して、新装復刊されたことは先にも記した [2]。ポリツァー(Hugh David Politzer, 1949–)は、アメリカの理論物理学者で、デイビッド・グロス、フランク・ウィルチェックとともに、強い相互作用の理論における漸近的自由性の発見によって、2004年のノーベル物理学賞を受賞した。このとき,王立スエーデン科学アカデミーは、南部さんの仕事はこの研究の基礎になったものだが、時代にあまりにも先行していた、と釈明めいた説明をしていたのだった [3]。

 上記の本において、ポリツァーさんが「学生の頃、弱い力って何なのか、ぜんぜんわからなくて困ったことがあります。誰だったか、弱い力の唯一の例としてあげられるのは崩壊だというんです。つまり、何かが壊れていくことだと。力はふたつのものの間に起こることですから、崩壊がなぜ力なのか理解できなかった。現代的な意味での力だったんですね」と語っている。若いうちにノーベル賞受賞につながる仕事をした彼でも、学生の頃には、「ぜんぜんわからなくて困ったこと」があったとは興味深い。

 南部さんはこれに対し、「ファインマンダイアグラムを考えればいい」と答え、ホワイトボードに向ったとの説明書きがある。南部さんの描いた図が収録されていないのは残念だが、多分下掲のイメージ中のA図のようなものであろう。南部さんは続いて「つまり、力というのは、ふたつの粒子が散乱することです。 ふたつの間にはたらく力ということで、この場合のように、反発しあうわけです」と説明している。

 ファインマンダイアグラムというのは、朝永振一郎、ジュリアン・シュウィンガーとともに、量子電磁力学分野での基礎的研究でノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者リチャード・ファインマンが、その力学において素粒子同士の相互作用計算を見やすくするために考案したものである。具体的には上掲のイメージのような表示である。図において、下から上へと時間が経過している。

 A図では、波線の下側に、矢印をともなったふたつの直線が、上へ行くにしたがって間が狭まるように描かれている。これは、ふたつの荷電粒子、たとえば電子(e)が、互いに近づいてくることを示す。それらのおのおのの線の上端では、波線の端と、向きを変えて横たわっているひとつの矢印つき直線の端が一点に集まっている。これらの点をバーテックスと呼び、それが示す時間の前後では、相互作用についての物理規則が当てはまらなければならない(たとえば、電荷の保存。ただし、エネルギー保存則は、ハイゼンベルクの不確定性関係で許される時間内では破れてよい)。ふたつのバーテックスを結ぶ波線は光子を意味し、近づいてきたふたつの電子同士が、光子を授受することを意味している。

 A図には、ひとつの光子が図の左側からきた電子から放出され、右側からきた電子に吸収されるように描いてあるが、授受される光子は、ひとつとは限らず、ふたつ、みっつ、…の場合も、同時に起こり得て、放出するのが左側からきた電子の場合もある。このようにして交換される光子は、実際には観測にかからないものであり、仮想光子と呼ばれる。仮想光子を交換したあと、ふたつの電子は、もときた方向へ飛び去って行く。このことが、ふたつのバーテックスからそれぞれ上方へ向っている矢印つき直線で表されている。

 こうして、A図全体は、電子のようなふたつの荷電粒子の間の斥力が、それらの間で仮想光子が交換される効果として計算できることを表している。つまり、光子の交換が力を生じていることになる。——実際には、媒介粒子の交換は一度しか起こらないのでなく、互いに影響しあえる範囲に存在する間ぢゅう、ずっと起きているのだが、ファインマンダイアグラムはそれらの無数の交換過程をひとつにまとめて、相互作用の前後と途中経過の形態のみを分類的に示していると理解されたい。——

 電磁相互作用以外の素粒子同士の相互作用でも、光子以外の、媒介となる粒子の交換が力のもとになっている(この考えは、湯川が核力を媒介する粒子として中間子を仮定して以来、素粒子物理学の基本的な考え方のひとつとなった)。しかし、この言い方では「力とは何か」の答えにはならない。南部さんが「力」を主語にして、ファインマンダイアグラムの形そのままに、「力というのは、ふたつの粒子が散乱すること」と表現したのは、言い得て妙である。「力」と「散乱」の語を使うならば、「ふたつの粒子の間に力が働く結果、散乱が起こる」といいたいところであるが、南部さんは「力」と「散乱」を等号で結んだのである。現代の物理学者たちがファインマンダイアグラムによって力という概念を把握していることを、よく表していると思う。(B図については、次回に説明する。)

(つづく)

  1. 南部陽一郎, H・D・ポリツァー, 素粒子の宴 (工作舎, 1979).
  2. 教育の画一化, Ted's Coffeehouse (2008年12月28日).
  3. Asymptotic Freedom and Quantum ChromoDynamics: the Key to the Understanding of the Strong Nuclear Forces, Advanced information on the Nobel Prize in Physics (5 October 2004).

2009年1月14日水曜日

真木和美君を偲ぶ (3)

 真木和美君から私への 2007 年のクリスマスカードにある彼の言葉をここに紹介する。このカードは、彼からの最後の便りとなった。アマリリスの絵の入った二つ折りの、小さめのサイズのカードの内側に、"Season's Greetings" の印刷文だけを避けて、一杯にペン書きされている。


多幡様

 夏の前半には一ヶ月程入院していて、イスタンブール、ピサでの会議はミスしましたが、9 月になって Sinaia (Romania)、Khiva (Uzbekistan) 等の会議には出ることができました。特に Uzbekistan では pre-conference tour で Tashkent、 Samarkand、Bukhara をバスで通って、 Khiva に到達しました。

 Samarkand、Bukhara では monuments に深い感銘をうけ、また、Bukhara では昔の京都のように、civil life と religious life に調和のとれた共存をしているのに共感をおぼえました。そんなことで Islam のこと、Coran(フランス語版)等、かたひまに読んでいます。

 2008 年には、Porto de Galinhas (Brazil)、Poznan (Poland)、Cargese (Corsica) 等の会議があるので、そろそろ準備をしているところです。また、ブラジルではアマゾンの原生林、あるいは El Salvador の Bahia cooking 等、経験してみたいと思っています。

 それでは良い年を。
  真木和美
18/12/07


 真木君は亡くなる直前まで、毎年このように各国を飛び回り、超伝導物理学界で指導的な役割を果たし続けていたのである。そしてまた、コーランにまでもおよぶ、いろいろな国の文化について、旺盛な興味を抱いていたことが伺われる。珍しく、一か月ほど入院していたことが書かれていたが、その後すぐに国外の会議に出かけているということだったので、すっかりよくなったのだろうと思い、入院のことを忘れてしまっていた。彼の世界巡り便りが聞けなくなったこと、そしてなによりも、元気ならば、まだまだ学界に貢献できた彼が突然他界したことは、残念きわまりない。

2009年1月13日火曜日

真木和美君を偲ぶ (2)

 1960 年の春、私は大学院修士課程を修了して就職し、その秋に結婚した。結婚を知らせるための印刷した葉書に対して、真木君から、細かい文字で葉書いっぱいに横書きした返信を貰った(1960 年 11 月 17 日づけ)。真木君が原子核理論専攻の修士課程 2 回生のときである。ここに彼の返信を引用する。


 ご結婚おめでとう。お知らせ、心からうれしく思います。
 一年の仕事になんとなくしめくくりをつけてみたくなる、この秋の日、今の君の胸の中の喜びと期待はどんなでしょう。
 生活にも、研究にも、新しい意気込みでとりくんでいる様子、眼に見えるようです。
 もう学校では、いちょうの葉も散り、並木道の両側に黄色くつみ重なっています。今年は安保闘争以来、なにか落ち着かず、秋の学会が終わるまでは、勉強したような気がしません。いま、相対論的 2 体問題—–Bethe–Salpeter Eq. の解の性質—–についてしらべています。
 お元気で。今後ともよろしく。


 真木君が Bethe–Salpeter 方程式の解を研究していたことは記憶していたが、そのことを書いてあったのは、年賀状だったように思っていた。のちに真木君が結婚したことを知らせてきたとき、私はそれを祝う手紙の中で、ある間違った想像を書き、たいへん失礼をした。その辺りの便りを探しているが、まだ見つからない。

 ところで、Bethe–Salpeter 方程式は、Bethe–Salpeter–Nambu 方程式とも呼ばれる [1]。量子力学的 2 粒子系の束縛状態を、相対論的に共変な形式で記述する方程式で、そのような系の例としては、ポジトロニウム、電子・陽電子対の束縛状態、凝縮系における電子・正孔対の束縛状態(エキシトン)がある [2]。真木君は博士課程を湯川研究室で終了したのち、シカゴ大の南部さんの研究室で超伝導理論の研究を始めた。これらのことは、修士課程時代の原子核・素粒子物理学の観点からの Bethe–Salpeter 方程式の研究 [3, 4] が、その後の超伝導の物性研究においても役立ったのではないかと想像させる。

 実際、Google Scholar で検索してみると、真木君の超伝導の論文中に Bethe–Salpeter 方程式を使ったものが少なくとも 1 編 [5] あり、興味深く思われる。2008年ノーベル物理学賞を受賞した南部さんは、逆に、物性物理学を学んだあとで素粒子物理学に転向していて、両者ともに、転向後の分野で大いに成功したのである。

 後日の追記:Bethe–Salpeter 方程式で知られる Edwin Salpeter は、2008 年 11 月 26 日に亡くなった([6] 参照)。

  1. 岩波理化学事典, 第5版, p. 1251 (岩波書店, 1998).
  2. Bethe-Salpeter equation, Wikipedia, the free encyclopedia, (12 December 2008, at 12:34).
  3. M. Ida and K. Maki, On vertical representation of Bethe–Salpeter amplitudes, Progr. Theoret. Phys. (Kyoto), Vol. 26, p. 470 (1961).
  4. K. Maki, On the strength of the coupling constant and the stability of the vacuum, ibid. Vol. 28, p. 942 (1962).
  5. H. Sato and K. Maki, Bound states in a superconductor containing a magnetic impurity, ibid. Vol.44, p. 865 (1970).
  6. S. A. Teukolsky1 and I. Wasserman, Obituary: Edwin Salpeter (1924–2008), Nature Vol. 457, p. 275 (15 January 2009).

2009年1月11日日曜日

真木和美君を偲ぶ

 先に、私の大学生時代からの親友で、世界的に名を知られた超伝導物理学者だった真木君の夫人から、彼の訃報を受け、追悼文を掲載した [1]。今回は、私たちが大学4回生になる春休み [2] に貰って、最も気に入り保存してあった彼の手紙を、夫人の許しを得てここに掲載し、彼を偲ぶ一つのよすがとする。この手紙を貰ったとき、冒頭と末尾が、当時の私の、友人への手紙の書き方によく似ていたので、思わず私が彼に宛てた手紙の下書きを出して比べてみたが、彼の言葉は私のものの「おうむ返し」ではなかった。互いに影響を与え合っていたのだろう。

 希望と輝きを持った季節が、長いためらいの後にも、一歩一歩確実にやって来る。ぼくたちは、いよいよ大学生活四年の最後の年を迎えるわけである。この休暇にも、君はきっと多大の成果をおさめたことだろう。

 ぼくは、いつものように、休みの前には途方もないような計画をたてるのだが、それをまた、いつものように脱線ばかりしている。

 冬休みには母と弟の紘三と一緒に、九州の伯父の家に行った。ぜひとも行きたかったというよりも、家でじっとしているのが、なにかしら退屈だったので。

 それで、正月の間、方々を見物したり、また隣にある教会へ遊びに行ったりした。そこの神父さんは、そのとき不在で、そこを管理している人が英語の先生で、たくさんのレコードと立派な電蓄を持っていたので、レコードを聞きに行ったりしたのである。

 この休みには、合唱団の中国地方への演奏旅行もあったのだが、なんだか家にじっとしていたかったので、どこへも行かなかった。——それに合唱団は、もう休団ということになってるし——。君が第四講座に入ったのは、まさに晴天の霹れきだった。ぼくもそれを聞いて本当に迷ったが、しかしやはり、そんなことはぼくにとってなにもなかったこととし、このまま行こうと思っている。

 それでもある程度の精神的な動揺が起こったので、家にじっとして本でも読んでみたかった。パンセを以前はところどころしか見てなかったので、それを始めから読みなおしてみることにした。こんなときには、本当に君のように、三、四人の友人と一緒に読めばいいのだが。

 また、ドイツ語をしばらく読んでいなかったので、Wilhelm Meisters Wanderjahre を手にしたが、あまりにも大部なのと、とても興味があるが、読む速度が実に遅いので、5章まで読んで、置いてあるので、また読んでみようと思っている。

 それで勉強の方の成果となると、実に恥ずかしいことで、最初 Theory of Sounds を読んだが、いかにも内容が冗長なように思えたので、途中でやめてしまい——もう少し読めばおもしろくなりそうな気もするのだが——Schiff の Quantum Mechanics に手をつけたが、これも第5章のところでとまっている。

 また、昨夜から電磁気の方に興味がわいてきたので、田村先生の物理学Cを読んでいる。どうも一つのことに精神の集中ができないようだ。

 そういえば、ヴァイオリンの練習もこのごろ行きどまり状態だ。これを通りこせば、なんとかなるのだが。こんなすべての期待を新学期にかけている。

 新しい講義を楽しみにしている。これからもいろいろと啓発してくれ給え。

 '57 4 2
  真木和美
多幡達夫様


 ヨーロッパの田園風景でも眺めるような印象の、彼の和やかな雰囲気と純朴な心の伝わってくる手紙である。彼はこのような心情を生涯持ち続けたと思う。

 私が卒業研究で分属する希望研究室を、長らく第五講座(湯川研究室)といっていながら、実際に決める間際に、原子核実験の第四講座(木村研究室)に変えたことによって、真木君に「ある程度の精神的な動揺」を与えたとは、気の毒なことをした。しかし、彼が動揺を難なく乗り越えたことは、彼の後の活躍ぶりが証明して余りあるところである。

 『パンセ』について、「君のように、三、四人の友人と一緒に読めばいいのだが」とあるのは、私が2回生の夏休みに郷里で、中学時代からの友人たちと四人で『パンセ』の読書会をしたことを真木君に伝えてあったことによる。

 真木君はこの秋に脳膜炎をわずらい、4回生をもう一度繰り返すことになった。したがって、私と学年や所属講座を異にした [3] ため、やや疎遠にはなったものの、年賀状は交換していた。彼が博士課程を終了してアメリカへ留学していた間は、滞在先が分からなくて、音信が途切れた。彼の帰国後の1968年頃から、賀状やクリスマスカードの交換が復活した。いずれ、それらのカードの文によっても、彼を偲びたい。

  1. Kazumi Maki (1936−2008), Ted's Coffeehouse (2008 年 12 月 29 日;目下リンク切れ); IDEA & ISAAC: Femto-Essays に同文を掲載.
  2. 追悼文に最初、真木君が3回生の秋に脳膜炎をわずらったと書いたが、4回生の秋の間違いと分かり、訂正した。
  3. 私が修士課程2回生のとき(1959年)のガリ版刷りの「物理学教室 教室会議構成員名簿」では、真木君は第二講座(原子核理論の小林研究室)の修士課程1回生となっているが、のちに、博士課程は湯川研究室だったと聞いた。

2009年1月10日土曜日

湯川らの拒絶された論文 (3)

  先の報告 [1, 2] 中にそれぞれ記した私の二つの返信のうち、最初のものに記した「湯川らの二つの掲載されなかった論文」については、書籍 [3] にも収録されている、ということが、湯川会会員のMさんから知らされた。Mさんのメールによれば、同書籍の末尾にある解説は、河辺六男(素粒子論物理学者、2000年歿)の担当で、下記引用のような記述があり、続いて、湯川がソルヴェー会議の中止後に訪れた米国で会った Oppenheimer の印象が書かれている「欧米紀行—一九三九—」と、送り返された論文に対する Heisenberg の感想が記された朝永の「滞独日記」の文章が引用・紹介されているということである。


…これが10月4日に送られた Physical Review 誌への連名の寄書II-5(引用者注:湯川秀樹著作集 10 の中での論文番号)となったのであろう。だがここで湯川は、寄書の字数制限もあったであろうが、新たに得た結果を述べるにいささか急であったように、特にベクトル場の導入と行論[引用者注:「こうろん」と読み、「論の立て方」の意]に、説明が十分でなかったように思われる。それが、12月2日付 Physical Review 誌編集次長 J. W. Buchta の返書にいう、「提案する理論が、核物理学の事実の説明に、実際以上に過大い有効であるように述べている」感を抱かせたのであろうか、だが一方、 Oppenheimer や Serber を始めとする1937年の米国核物理学界が、中間子論に必ずしも好意的でなかったことも事実である…


 私が第1信で紹介した Mehra and Rechenberg の記述は、河辺の英文論文を根拠にしていたので、同氏こそが二つの掲載されなかった論文について最もよく調べていたことになる。

 オッペンハイマーによる拒絶について質問をしたSさんのメールには、毎日新聞の記事 [4] が引用されていて、その中には次の記述があった。


 湯川博士は35年、原子核内で働く力を媒介する新粒子「中間子」の存在を予言したが、著名な米物理学者のオッペンハイマー博士らから「根拠がない」と批判された。
 湯川博士は、仁科博士あての37年7月の手紙で「理論全体が本質的に誤っているかの如(ごと)く言っているのは甚だ心外です」と、こうした状況に不満をこぼしている。
 仁科博士は翌日すぐに返信し、「ambiguity(あいまいさ)のある理論を改良して、あいまいさの無いものにしたと云(い)う点を強調すべき」と励ました。実験で、中間子らしき粒子を見つけたことも知らせている。


 Sさんから、上記の記事にある湯川の手紙が『仁科芳雄往復書簡集』にあった、とのメールが届いた。それは、オッペンハイマーの論文に対する不満を述べたもので、次の文の一部だということである。 「この点 Oppenheimer が Phys. Rev. (June 15 Letter) でいっていることはある程度まで真理ですが、だからといって理論全体が本質的に誤っているかの如(ごと)く言っているのは甚だ心外です。」

 したがって、この手紙は、湯川らの1937年の寄書を掲載することについて、オッペンハイマーが拒絶したことを示すものではない。

 次いでMさんから、この問題で二度目の送信があった。それは、渡辺慧(わたなべ さとし、理論物理学者・情報科学者、1910−1993)の文 [5] の中の一節を紹介したもので、文中「角谷静夫さん」とは、戦中を除きほとんどを米国で研究した数学者 (1911−2004) である。


 …ところで、中間子論の論文が Physical Review で没書になったのは有名で、これは新しいことを言い出す人の通らなければならない試練の一つでありましょうが、その没書にした査読の張本人がオッペンハイマー(J. R. Oppenheimer)だったということは、当時プリンストンにいた角谷静夫さんの(その後エール大教授)の証言されるところです。…


 これは、Sさんの質問に対する答えの決定打のようである。ただ、私は上記の渡辺の文には問題があると感じた。Phys. Rev. は査読者を明かさない方針を取っている(雑誌によっては査読の段階で著者に明かすものもある)ので、たとえ角谷の証言があったにしても、Phys. Rev. の関係者でない渡辺が、オッペンハイマーが査読者だったと文に記して公表したのは、倫理にもとるのではないだろうか。また、「中間子論の論文が」という書き方もあいまいで、科学者らしくない。これでは、中間子論を最初に提唱した論文と受け取られてしまうが、「Physical Review で没書になったのは有名」というのは、今回学んだところによれば、1937年の寄書のはずである。(完)

  1. 湯川らの拒絶された論文 (1), Ted's Coffeehouse 2 (2009年1月8日).
  2. 湯川らの拒絶された論文 (2), Ted's Coffeehouse 2 (2009年1月9日).
  3. 湯川秀樹著作集 10 欧文学術論文 (岩波書店, 1990).
  4. <湯川博士>日本物理学の父・仁科博士と往復書簡40通, 毎日新聞 (2005年11月7日).
  5. 渡辺慧, "みごとな人生やな", 『自然』'81-11増刊 追悼特集「湯川秀樹博士—人と学問」p. 46 (1981).

2009年1月9日金曜日

湯川らの拒絶された論文 (2)

 前報 [1] に記した返信に続いて、私はSさんの質問に関係する話をもう一つ、湯川会会員宛のメールで知らせた。その内容は次の通りである。



 Nature 誌の社説(Editorial)で湯川の論文ほかノーベル賞級の論文を拒絶したことを後悔している文を読んだ記憶があったので、探してみたところ、その全文がウエブサイト [2] に掲載されていた(全文にアクセス出来たのは、私が Nature 誌の購読者だからかも知れない)。題名、概要、そして関連の文をここに引用する。


Editorial: Coping with peer rejection
Nature 425, 645 (16 October 2003)

概要: Accounts of rejected Nobel-winning discoveries highlight the conservatism in science. Despite their historical misjudgements, journal editors can help, but above all, visionaries will need sheer persistence.

関連の文: But there are unarguable faux pas in our history. These include the rejection of Cerenkov radiation, Hideki Yukawa's meson, work on photosynthesis by Johann Deisenhofer, Robert Huber and Hartmut Michel, and the initial rejection (but eventual acceptance) of Stephen Hawking's black-hole radiation.

 引用した文中に、"Hideki Yukawa's meson" とあるが、これは中間子第一論文相当のものを指すでのはなく、私の先のメールに記した1937年の投稿のことであろう。

(つづく)

  1. 湯川らの拒絶された論文 (1), Ted's Coffeehouse 2 (2009年1月8日).
  2. http://www.nature.com/nature/journal/v425/n6959/full/425645a.html

2009年1月8日木曜日

湯川らの拒絶された論文 (1)

 先日、大阪市立科学館学芸員で湯川会顧問のSさんから、会員宛のメールで「湯川論文が米国物理学会誌(Phys. Rev.)への掲載を拒否された。その時の審査員がオッペンハイマーだった」ということをよく耳にするが、いま、湯川・南部に関する展示の原稿を書いているので、これの証拠が欲しい、どなたかご存知ないか、という質問が来た。これに対して、私は以下のようなことを返信で知らせた。



 以前にもSさんは、オッペンハイマーによる拒絶についてメールに書いたことがあり、それを湯川会のメールによる討論などを掲載しているサイトに載せたところ、コメント欄に埼玉大の佐宗哲郎さんという方から「J. P. Schiffer が当時の Phys. Rev. の投稿論文に関して調査をし、湯川からの投稿はなかったと断言した」旨の書き込みがあった [1]。

 ただし、これは中間子第一論文相当のものの投稿の話であり、湯川と共同研究者たちによる後の論文が Phys. Rev. に掲載拒否されたことはある。これについては、たとえば文献 [2] に次のように記されている。(ただし、査読者が誰かは分からない。この頃、オッペンハイマーは確かに宇宙線中に見つかったミューオンと湯川理論の関係を否定してはいるが [3]。)


It should be mentioned that a later attempt by Yukawa to publish a letter, dated 4 October 1937, in the Physical Review failed again. The letter was entitled 'On the Theory of the New Particle in Cosmic Ray' and signed by Yukawa, Sakata, and Taketani; the report from Physical Review, dated 2 December and signed by the assistant editor J. W. Buchta, declared that the theory was not acceptable (see Kawabe, 1991b, pp.186-190).

 なお、上記の文で "failed again" といっているのは、「Phys. Rev. に再度」という意味ではなく、先にこれと同様の論文を Nature に拒否されたことが同じページに述べられており、それとの関係での again であろう。Kawabe, 1991b という論文は [4] であり、その表題にいう "two unpublished manuscripts of Yukawa"(Nature と Phys. Rev. への投稿原稿)は、活字化されたものを [5] でダウンロードできる。

  1. コメント/論文検索・原論文掲載書, 湯川 Wiki.
  2. J. Mehra and H. Rechenberg, "The Historical Development of Quantum Theory Vol. 6, Part 2," p. 836, fn. 956 (2001).
  3. J. R. Oppenheimer and R. Serber, Phys. Rev. (2), Vol. 51, p. 1113.
  4. R. Kawabe, Two unpublished manuscripts of Yukawa on the meson theory, in "Elementary Particle Theory in Japan, 1930-1960" (L. Brown, R. Kawabe, M. Konuma, and Z. Maki, eds., 1991), pp. 47-49.
  5. http://ptp.ipap.jp/journal/pdf/85-appendix.pdf.

2009年1月7日水曜日

学問の時代的要求

 一昨夜、2008年ノーベル賞受賞者、小林誠、益川敏英、南部陽一郎、下村脩の4氏を紹介するNHK総合テレビの番組を見た。私の中学生時代にノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、当時、雲の上の存在という感があった。いまの子どもたちが、テレビを通じて受賞者たちの人間性に触れ、親しみを感じられるのは幸せである。

 湯川が、いまなお素粒子論研究の一つの方法になっている道を切り開き、大胆な理論を発表したのは、ほとんど独学の結果であり、その労苦は計り知れないものがある。それに比べれば、小林・益川両氏は、名大で坂田昌一に学び、湯川の影響を受けた京大の素粒子論グループで働き、南部氏もプリンストン高等研究所へ留学して、世界の俊秀たちと討論できたのは、恵まれていた。

 そして、益川氏がいっていた通り、研究上の関心がその時代の学問の要求に一致しているかどうかも、ノーベル賞受賞という成果には大きく影響する。一致しているかどうかといっても、必ずしも偶然性にばかり依存するものではなく、学問に対する目の鋭い人は、時代的要求を探り当てて、自らの関心をそれに向けるのである。湯川の半生の自伝 [1] からは、そのことが如実に感じ取れる。

  1. 湯川秀樹, 旅人—ある物理学者の回想 (角川, 1960).