2011年5月17日火曜日

郷里・金沢へ 3 (Visit to My Hometown Kanazawa 3)


Abstract: In the afternoon of the third day in Kanazawa, I met a friend of mine, who had been a teacher of our senior high school after it had been changed to Kanazawa Commercial High School. In the morning of the fourth day, I visited the street where I lived in my childhood. The top photo shows the garden whose name reatians the old name of that street, Matagoro-cho; the middle, the garden of Jomyoji Temple near that street; and the bottom, the house that stands at the place where I lived. (The main text is given only in Japanese.)

 3日目に S 君宅からホテルへ帰ると、M・U 君との約束の時間の午後2時より少し遅くなり、彼はすでに来て待っていた。ロビーで1時間ほど話しただろうか。われわれの出身高校関係の資料(創立85周年に発行された絵はがき、同90周年記念に作られた校歌などのカセットテープと楽譜入り歌集、など)の他に、森八の銘菓まで貰った。彼は金沢商業高校に変ったわれわれの母校で、私の幼友だちの故 A さんと2年間一緒に教鞭をとったことがある。

 先に M・U 君と電話で話した時、彼は A さんを「正義感の強い人で、近寄り難かった」と評した。今回も、彼女について、「植物でいえばカシの木、鉱物でいえば鋼鉄のような人。トップ(校長のことか)になれる人だったが、損をしていた」といった。権力に抗するのが彼女の生き方であり、彼女自身は決して損をしているとは思っていなかったはずである。彼が話してくれた最近の学校の様子も、彼女のような奇特な生き方をする教員の必要性・重要性を物語るものに思えた。

 金沢へ来た初日から電話を繰り返しながら、ようやく Y 君を捕まえられたのはこの日の朝だった。彼はまだ北陸放送に勤めており、目下決算期で忙しく、残念ながら会う時間がないという。そこで、4日目午前に誰とも会う予定を作れなかった私は、「城下まち金沢周遊バス」1日フリー乗車券を利用して、幼時(3、4歳頃)に住んでいた町をまず訪れた。町は材木町に併合されたが、昔の町名が「又五郎町やすらぎ緑地」の名に残され、その緑地の石に刻まれている(1枚目の写真。インターネットの地図で見ると、「やすらぎ緑地」の名は最近「ふれあい緑地」に変ったようである)。

 この緑地から浅野川の方へ少し行くと、静明寺(じょうみょうじ)という寺がある(2枚目の写真はその境内。小説家・徳田秋声の墓がある)。私の幼時の住まいは、静明寺前の通りへ出るまでの小路の、角から2軒目にあった。角の建物は銭湯だったが、いまは駐車場になっていて、かつての私の住所に建つ家の側面が見える(3枚目の写真)。手前に見える、道路から奥まった部分は、外壁や窓が変っているものの、昔の家の形をとどめているように思われる。(続く)

(To be continued)

0 件のコメント:

コメントを投稿