Abstract: On Monday, I listened on TV to the martial song "Sen'yu (The colleague in the army)," which I remembered since my childhood. I have learned that it was made in the Meiji Period (1905) and that the Japanese army prohibited to sing it during World War II because of its war-weary lyrics. (The main text is given in Japanese only.)さる月曜の夜、BS 日テレの「BS 日本・こころの歌特集」という番組を見た。先週その番組で女性合唱グループが私の愛唱歌を多く歌っていたから見たのだが、今回は男性のグループが「ますらおの譜」という種類の歌を歌っていた。武士の時代を歌ったものも含めての、戦い関連の歌である。九条の会にかかわる私としては気がかりに思いながら聞いていた。
しかし、最後に、「厭戦歌ともとれるため、太平洋戦争中は軍が禁止していた」という意味の説明があって、「戦友」が歌われた。♪ここはお國を何百里 離れて遠き満州の ...♪[作詞・真下飛泉、作曲・三善和気、1905(明治 38)年]。 私が幼少の頃、母が歌って聞かせてくれたものか、メロディも、14 番からなる歌詞のかなりの部分も、記憶にあった。インターネットで調べると、「戦後、連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止していたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌は国民から愛され続けた」ともあった(ウィキペディアの「戦友」ページ)。厭戦歌ならば、九条の会も歓迎である。
ところで、この歌の「赤い夕日に照らされて」の部分の「赤い」が、先日の番組では「あかいー」と歌われていたのに違和感を抱いた。私の記憶では「あーかい」である。そこで、You Tube ビデオになっている「戦友」を見つけて、3 種類の録画を視聴した。その中の一つは「あかいー」で、二つは「あーかい」だった(後者の一つの歌い手は渥美清)。形容詞の語尾が長音になって強調されるのは不自然という意味から、私は「あーかい」がよいと思う。♪出た出た月が♪ に続く ♪丸い丸い♪ が、「まるいーまるいー」でなく「まーるいまーるい」であるのと同様に。
なお、京都府福知山市大江町関には、真下飛泉がこの町の出身ということで、宮川の清流に沿って、3 個の自然石で「戦友」歌碑が建てられているという(全国旅そうだん:真下飛泉「戦友」歌碑)。京都の知恩院の塔頭の一つ、良正院の門の脇には「ここはお国を何百里」と刻まれた石碑があるそうだ。これは真下飛泉ががこの近くで没した時、教え子が追悼のために碑を建立することを計画し、賛同者を募って建てたもだとのこと(京都新聞「街道を巡る:知恩院門前周辺—真下飛泉『戦友』歌碑—」、後日の注:リンク切れ)。
付記:ウェブサイト「野菜の語り部:チューさんの野菜ワールド」内の「唱歌・戦友」というページ(後日の注:リンク切れ)に、次のような詳しい説明がある。
「戦友」は明治 38 年、まだ日露戦争が続いているときに作られた歌です。本来は、一人の兵士が出征後負傷して凱旋し、村長となるまでを歌った、極めて長い「学校及び家庭用言文一致叙事唱歌・戦績」という 10 編から成る唱歌の中の第三篇でした。
作詞者・真下飛泉には戦争体験はなく、のちに義兄となる木村直吉から、奉天(ほうてん、現在の中国東北部の瀋陽市)会戦の実情を聴いて作詞したと伝えられています。戦友を失う兵士の哀愁を切々と歌い込む歌詞と、同じく哀切極まりない曲が人々の共感を呼び、たちまち全国に広まって永く歌い継がれました。戦前の日本でこの歌を知らない人はなかったといわれます。
唱歌「戦友」を軍歌という人もありますが、私は、唱歌「戦友」は軍歌ではなく、反戦歌でもなく、戦死者を弔う鎮魂歌だと思います。戦時中、軍部は出征兵士を送るときにこの歌を歌うことを禁止しましたが、この歌が絶えることはありませんでした。現在でも愛唱する人は多いと思います。
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