M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 2 月分への感想を 2013 年 3 月 11 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。
1. 能『井筒』
筆者はご母堂と一緒に、その御兄上ご夫妻が演じられた能『井筒』を鑑賞し感動されたとのことですが、竹西寛子さんの随筆を読み、能の中でも格別よい作品を鑑賞させて貰ったと感動を新たにし、この随筆をまとめられました。能を演じられる御伯父、伯母様がいらっしゃたことを知りました。公演の写真を撮り、「筒井筒…」の短歌の英訳を添えてアルバムに保存されたことに、筆者の丹念に記録を残す貴重面さが読み取られ、興味深く拝見しました。
また、私は高校の国語古文の授業で在原業平の「筒井筒」を習ったことを懐かしく思いだしました。高校 3 年生の古文(志望大学の入学試験の国語は、現代文と古文または漢文となっていましたが、漢文は歯が立たず、古文なら文章は読めるからとの苦しい理由で古文を選択しました)の授業で、『伊勢物語』、『源氏物語』、『土佐日記』などからの抜粋を習いました。先生は、国学院大の折口信夫先生の門下生で、古典文学に造詣深く若くて情熱ある方でした。この授業で『伊勢物語』の「筒井筒」も取り上げられました。この物語に関係する短歌、「筒井筒…」や「風吹けば沖の白波…」や「梓弓真弓槻弓…」などを思いだします。60 年も昔のことで短歌のような口ずさみやすくて印象的なところだけが記憶に残っいるようです。
最近、高校時代に見たチャプリンの映画『モダンタイムス』や『独裁者』などの TV 放映を見ました。映画の概容は忘れてはいませんが、記憶に残っている場面はスポット的で、こういう場面もあったなと思いださせられるところがなんと多かったことかと、記憶の性向に関して再認識をした次第です。上記の 3 文学の授業についても、このような再見あらまほしとの思いです。世阿弥の能『井筒』の存在にも触れられていたのかも知れません。
2. 祖父転勤時の送別サイン帳、祖父の教え子来る("Ted’s Archives" 記事)
2 月 1 日付けの「ソシンロウバイ」の記事の末尾に、筆者は「"Ted’s Archives" を合わせて愛読いただければ幸いです」と高校時代の交換日記の残りの連載開始について知らせていました。早速拝見しますと、1 月 30 日付け「祖父の教え子きたる」、2 月 11 日付け「祖父転勤時の送別サイン帳」で、今度はご母堂のご尊父に関する興味深い記事に出会いました。
「祖父転勤時の送別サイン帳」には、次のように記されています。
「祖父の教え子来る」は次のような文です。
「祖父の教え子来る」は、筆者の文章力によって会話が愉快に生き生きと写されています。文章も漱石の文体にも似ているようです。「祖父転勤時の送別サイン帳」に書かれたはなむけの言葉は、さすが広島高等師範学校の先生方らしく、簡単ながら、それぞれ個性のあるもので、贈られた人の心を打つ一言だったのでしょう。書かれた文字も見事で美的であるようです。当時満州への転勤は壮途だったのですね。
上に紹介した各記事を読んで、筆者は、ご尊父が早逝されましたが、御祖父を中心としたよい家族や親戚に恵まれ、知的環境の中で伸び伸びと過ごされたことと拝察します。
1. 能『井筒』
竹西寛子さんの随筆集を読んでいたところ、「世阿弥」と題する文があり、そこには世阿弥作の『井筒』をたいそう褒めてあった。私がこれまでにライブで見た能は、多分これ一つである。伯母(母の兄嫁)が能の師範を取得した記念の舞台に母と招かれ、京都・観世会館で 1970 年 11 月 1 日に見て、なかなか感動したと覚えている。能の中でも格別よい作品を鑑賞させて貰ったのだということが、いま竹西さんの随筆で分った。以上のように述べたあと、この英訳は、文献 2 に出ている口語訳とは少し意味が違うところがあるとして、「伯父が予め書き送ってくれた『井筒』の概要に基づいているかと思うが、昨年まで所在の分っていたその概要書が、残念ながら、いま見当たらない」と結んでいます。
上掲の写真は、…中略…伯母がシテを舞い、趣味で鼓をしていた伯父が、舞台向って左の方で鼓を打っている。シテは、前段では里の女(実は紀有常の娘の霊、一枚目の写真)で、後段では有常の娘の夫・在原業平の形見の衣装姿(二枚目の写真)である。
これらの写真を貼ったアルバムのページには、前段に出て来る短歌「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いしけりしな 妹見ざるまに」をローマ字綴りで記し、私の英訳と思えるものも記してある。
筆者はご母堂と一緒に、その御兄上ご夫妻が演じられた能『井筒』を鑑賞し感動されたとのことですが、竹西寛子さんの随筆を読み、能の中でも格別よい作品を鑑賞させて貰ったと感動を新たにし、この随筆をまとめられました。能を演じられる御伯父、伯母様がいらっしゃたことを知りました。公演の写真を撮り、「筒井筒…」の短歌の英訳を添えてアルバムに保存されたことに、筆者の丹念に記録を残す貴重面さが読み取られ、興味深く拝見しました。
また、私は高校の国語古文の授業で在原業平の「筒井筒」を習ったことを懐かしく思いだしました。高校 3 年生の古文(志望大学の入学試験の国語は、現代文と古文または漢文となっていましたが、漢文は歯が立たず、古文なら文章は読めるからとの苦しい理由で古文を選択しました)の授業で、『伊勢物語』、『源氏物語』、『土佐日記』などからの抜粋を習いました。先生は、国学院大の折口信夫先生の門下生で、古典文学に造詣深く若くて情熱ある方でした。この授業で『伊勢物語』の「筒井筒」も取り上げられました。この物語に関係する短歌、「筒井筒…」や「風吹けば沖の白波…」や「梓弓真弓槻弓…」などを思いだします。60 年も昔のことで短歌のような口ずさみやすくて印象的なところだけが記憶に残っいるようです。
最近、高校時代に見たチャプリンの映画『モダンタイムス』や『独裁者』などの TV 放映を見ました。映画の概容は忘れてはいませんが、記憶に残っている場面はスポット的で、こういう場面もあったなと思いださせられるところがなんと多かったことかと、記憶の性向に関して再認識をした次第です。上記の 3 文学の授業についても、このような再見あらまほしとの思いです。世阿弥の能『井筒』の存在にも触れられていたのかも知れません。
2. 祖父転勤時の送別サイン帳、祖父の教え子来る("Ted’s Archives" 記事)
2 月 1 日付けの「ソシンロウバイ」の記事の末尾に、筆者は「"Ted’s Archives" を合わせて愛読いただければ幸いです」と高校時代の交換日記の残りの連載開始について知らせていました。早速拝見しますと、1 月 30 日付け「祖父の教え子きたる」、2 月 11 日付け「祖父転勤時の送別サイン帳」で、今度はご母堂のご尊父に関する興味深い記事に出会いました。
「祖父転勤時の送別サイン帳」には、次のように記されています。
高校(1 年生)時代の交換日記から、Ted: 1951 年 7 月 9 日(月)薄曇り(つづき)
鞄を置いただけで、まだ腰を落ち着けないうちに、行李から書類や手紙を出して整理していた祖父が、何とかいって、一冊のノートを見せ始めた。祖父が広島高等師範学校から満州へ転勤したときの送別サイン帳だ。サイン帳はいつ誰が見ても、何らかの力強いメッセージを受け取れるもののようだ。
数学の先生のサインには、π= 3.14159265358979...とあるし、英語の先生は英語で書いてあった。三角形の下に半円形をくっつけた図を描いたのもあった。それは、祖父の説明によると、人には丸いところも尖ったところも必要だということを表したものだそうだ。どれもが、光るような黒さの墨で書いてある。
クレオンを二本並べて引いたような太さと鉛筆より細い線とを巧みに混ぜて、力の溢れている感じを出した「誠」一字のがあるかと思えば、長ったらしい歌の文句もある。祖父は高価な書籍よりも、このよれよれのノートを大切にかかえて引き揚げて来たのだ。余白は祖父の引き揚げ直後の日記に使われている。このノートの働きぶりは、Sam の日記帳からわれわれの通信帳の一冊になった「自由日記」にまさる。…以下略…
「祖父の教え子来る」は次のような文です。
高校(1 年生)時代の交換日記から
Ted: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り(つづき)
「シェンシェイ!!」大きな声の来客に驚いた。後ろから見るとダルマのような頭をして、半袖シャツを着た半老人だ。祖父より十七歳若い、かつての生徒だ。
客「シェンシェイ、年が行けば、またもとの子どもに返るちゅうが、全くのこっちゃな…。」
祖父「コンロをやっておいでやね。」
客「和倉の珪藻土の…。煙突が約二十本立っとる。工員は二百ないし三百ほどおる。私のような大きさの工場は七、八つあります。…珪藻土という土がこの頃役立つようになりましたゎ。それで、私はそこで働いております。」(客の名刺には、取締役社長とある。)
祖父「私は満州におる間に、"世界を見て来てくれ" といわれて、洋行に行って来まして…。今じゃもう…。」
…中略…
祖父「私はちょうど七十七まで勤めておりましたが、そのとき怪我をしましてね。」
客「そんだけまで勤めとった人は、教育界であんただけやわな。…千代子さんは夫の介抱、そしてまたあんたの介抱、まるで一生涯の間、看護婦みたいなもんやて、あのぉ誰やらいうとりました。」
祖父「どーも人間は不浄なもんで、何ですわい。…」
客「いまじゃ、ほんなら、なんですか、お年もとってやし、ちょっとも外へお出ましでない?」
祖父「人間はなんというても…。」
客「いまじゃ、なんですか、骨の折れたところは治ってしまいましたか?」
…中略…
祖父「あなた、なんですか、お酒でもお飲みですか。」
客「酒は、飲んません。」
祖父「そりゃ結構で。」
客「ほっじゃまた、重ねてお邪魔いたします。」
祖父、ぼくに、「元気な人じゃったね。六十七やてか、八やてか。…きょうは、雨降っとるか?」
祖父は日記をつけ始めた。「一、何々」と箇条書きである。「一、笹川氏、珍しい物を持たずに来たる」、「二、彼は六十七歳なり」とでも書くのだろうか。一度読みたいものだ。…中略…どんな出来事や感動のある日でも、平凡な日でも、記述は無罫のノート四分の一のスペースにうまく収まっている。万年筆の動かし方は落ち着いたものだ。
昨日、第三次吉田内閣の第二次改造内閣(注 2)が出来た。夕食のとき、祖父はいった。
「吉田さんは私が満州におったとき、奉天で総領事をしとった。私はよく知っとる。」
…以下略…
「祖父の教え子来る」は、筆者の文章力によって会話が愉快に生き生きと写されています。文章も漱石の文体にも似ているようです。「祖父転勤時の送別サイン帳」に書かれたはなむけの言葉は、さすが広島高等師範学校の先生方らしく、簡単ながら、それぞれ個性のあるもので、贈られた人の心を打つ一言だったのでしょう。書かれた文字も見事で美的であるようです。当時満州への転勤は壮途だったのですね。
上に紹介した各記事を読んで、筆者は、ご尊父が早逝されましたが、御祖父を中心としたよい家族や親戚に恵まれ、知的環境の中で伸び伸びと過ごされたことと拝察します。
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