2018年11月22日木曜日

「みんなで歌う音楽会」、そして中学時代の思い出 ("Concert to Sing Together", and Memories of Junior High School Days)

[The main text of this post is in Japanese only.]


「みんなで歌う音楽会」のチラシ。
The leaflet of "Concert to Sing Together".

 このところ毎月 1 回、岸和田市立福祉総合センターで開催されている「みんなで歌う音楽会:歌門来福!」に参加している。主催は、ねこじゃらし音楽事務所、ピアノ弾き語りと歌のリードは喜多陵介氏である。参加者が毎回 10 名程度しかいないのは少し寂しいが、各自が多くのリクェストを出して、おおむね全部採用してもらえるのは嬉しい。さる 11 月 19 日(月)に今月のその催しがあり、行って来た。いつもは、私以外にもう一人、夫人同伴で来る男性がいるのだが、その日はその夫婦のうち夫人だけが参加していて、男性は私一人だった。

 私は「里の秋」その他をリクェストした。リクェスト用紙には、その曲についての思い出など、コメントを書く欄がある。「里の秋」には、次のようなコメントを書いたが、いかにも男性が書いたらしい文では、書き手が分かってしまうので、工夫を要した。
 中 1 の時、「夏だ、夏、夏!」で始まる作文を書いて、クラスでほめられました。同級のよく出来る子が中 2 では別の学校へ行き、その学校の新聞に「秋だ、秋、秋、秋、秋!」と始まる作文を載せていたのを見た時は複雑な気持ちでした。
このリクェストは最初に歌う 3 曲「駆けつけ 3 曲」の中でも最初に選ばれ、コメントも紹介された。「出来る子」と書いたのが、工夫をしたところである。「出来る女生徒」と書いたのでは、女生徒のことを気にかけていた男性と思われそうだからである。

 その出来る女生徒は H・Y さんといって、国語、数学などの試験の成績では、私といつもクラスで 1、2 位を争っていた。それで、彼女と私は「川上と青田のようだ」と級友の一人にいわれたことがある。その年(1948 年)、プロ野球で同じ読売ジャイアンツにいた川上哲治と青田昇が、ともに 25 本のホームランを打ち、ホームラン王を分け合ったのである。しかし、私は体育や音楽を苦手としたのに反し、H・Y さんには苦手科目が全くなかった。したがって、彼女の方が断然クラス一の成績優秀生だった。さらに彼女には、すでに大人びた風格があり、同級生はみな幾つも年下の子供のように見えたに違いない。また、彼女は両親を早く亡くしたのか、祖母と暮らしているということだったが、私は彼女のその後の消息を全く知らない。

 私の作文をほめたのは、中 1 の時に国語だけを担当してもらった T・Y 先生で、夫君を戦争で亡くされたということだった。先生は天徳院という寺院の裏あたりで畑を作っておられ、その畑で出来た大根を年末近くに友人と一緒にもらって来たことがあった。私たちが高校 1 年生の時に、先生は再婚して、T・M 先生となられた。

 私は T・M 先生と長らく年賀状を交換していた。いまふと、T・M 先生ならば H・Y さんの消息をご存知だったかもしれないと思ったが、先生は 2008 年に亡くなられた。記録を見ると、金沢の先生宅を私が最後に訪れたのは 2000 年の夏で、その時先生は 83 歳だったと記してある。私たちが習った時の先生は 31 歳だったという計算になる。

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2 件のコメント:

  1. できる子の発想はユーモアも感じられて“拍手!”ですね。そしてTedさんの複雑な気持ちも想像すれば本当に複雑ですね。できる子への思いもあったのかなとか・・・・。歌から思い出された懐かしいお話が興味深いです。

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    1.  私のいた小・中学、高校には、いつも「できる子」がいて、「思い」を持ついとまもありませんでした。この文に登場させた「できる子」からは特に、超然とした冷たさが感じられて、「思い」からは遠い存在でした。

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