2018年11月12日月曜日

太宰治著『ろまん燈籠』を読んだ理由 (The Reason Why I Read Osamu Dazai's Roman Doro)

[The main text of this post is in Japanese only.]


太宰治著『ろまん燈籠』とそれを紹介した『図書』誌の記事。
Osamu Dazai's Roman Doro and the Article in Tosho That Introduced It.

 最近、太宰治著『ろまん燈籠』(新潮文庫、1983) を買って読んだ。そのきっかけになったのは、 『ニセモノの輝き——太宰治「ろまん燈籠」』と題した作家・柳広司氏の紹介記事(『図書』2018 年 10 月号、p. 44)を読んだことである。その記事は同氏による「二度読んだ本を三度読む」というシリーズの第 13 回だった。紹介記事を読んだだけでは、必ずしも読みたいという気持ちにつながらないが、今回の紹介作品の内容が、私の一つの思い出につながったため、読むにいたったのである。

 文庫本『ろまん燈籠』には、作品「ろまん燈籠」を含む 16 編の短編が収められている。『ろまん燈籠』を買った目的は、もちろん、「ろまん燈籠」を読むためである。この作品を紹介した柳氏の文には、まず、ロマンスが好きな兄妹五人が共同で一つの「お話」を順番に書き継いでいくというだけの小説、だと説明されていた。「お話」を順番に書き継ぐ——これが私の思い出を呼び起こしたのである。

 大学 3、4 年生の頃、私は冬休みの帰省時の新年早々に郷里の友人たち 5 名(うち 2 人は地元の大学へ通う女性、男性のうち 2 人はすでに社会人だった)を自宅に招き、夕食時間を挟んで正月らしい遊びをして過ごしたことがあった。(食事をもてなした母は大変だったことだろうと、いまになって思う。5 名全員を招くことができたのは 1 度だけだったか、2 度もあったか、あるいは修士課程 1 年の頃までも続いたかは記憶していない。)その時にした遊びの中に「リレー小説」というのがあって、まさに、「お話」を順番に書き継いだのである。

 「リレー小説」のルールは、 直前の一人が書いた部分だけを読んで、続きを書き、次へ回すというものである。これの単純化版が子供の遊び「誰が、誰と、いつ、どこで、何をした」になる(この子供の遊びでは、一つ前の部分さえも読まない)。「リレー小説」では、二つ前までを書いた人たちがどのように話を展開していたかが、しばしば分からなくなっているため、トンチンカンな結末になることが多く、それが笑いの種にもなる。この点では、「ろまん燈籠」の「お話」の書き継ぎとは大いに異なるのだが、私たちが作った「リレー小説」中に、一つだけ、いまでも記憶に残っている、優れたコントのような結末のものがあった。

 記憶にあるリレー作品中では、私を入れて 6 人中の 5 人までによる文は覚えていないが、おおよそ次のような内容だった。
 英夫と順子は K 市に住んでいて、良い友人同士だった。大学卒業後、英夫は他の市に勤務することになった。そこは K 市から遠いところだったので、英夫はそこへ引っ越さなければならない。順子は寂しくなることだろう。
実際に使われた名前までは覚えていなかったので、英夫と順子という名はいま適当に入れたものである。子供の遊びの「誰が、誰と...」では、参加している子供たちの名前を入れて笑い合うことが多いが、すでに成人していた私たちの「リレー小説」では、そういう俗っぽい笑いを求めなかったことは確かである。しかし、「大学卒業後、他の市に勤務」とは、参加者たちのうちのまだ学生だった者たちの近い未来を微妙に表しているようである。

 結末部分を書くことになったのは、先に「すでに社会人」と書いた中の一人、高校時代に私と交換日記を書きあっていた M 君で、頭の良い青年だった。彼は次のように結んだ。
 引越しを済ませた日、英夫は順子からのハガキを受け取った。それには「私もこのたび引っ越すことになりました。新しい住所は、 T 市 S 町 1-2 です」とあった。英夫は引越し仕事の疲れをいやすため、少し散歩をして来ようと家を出た。出がけに新しい家の門をちょっと振り返ってみた。そこには「S 町 1-2」の表札がかかっていた。
M 君はすでに故人となり、この思い出を話し合うこともできない。彼に続いて、この時の仲間の男性一人、女性一人も亡くなった。

 ところで、「ろまん燈籠」で書き継がれた作品は、西洋のおとぎ話風のものである。この小説で興味深いのは、出来上がった「お話」よりもむしろ、兄妹たちが筆をとるにあたっての思考や行動、そして、それぞれの性格を表した書きぶりであろう。

 なお、柳氏の文の題名に「ニセモノの輝き」という言葉があるのは、次のところからである。柳氏は太宰が小説を書き始めた前提にあるのは「ホンモノなんてない。あるのはニセモノの輝きだけだ」という考えだと推定している。そして、「ホンモノなんかない!」とストレートに絶叫している『人間失格』のような作品を読むことは若い人たちに任せて、「ろまん燈籠」のような「ニセモノの輝き」を目指した諸作品を愛読する大人が出てきても良い頃だ、と文末で述べているのである。

 私は『ろまん燈籠』を愛読するとまでは至らなかったが、その中の他の短編についても、ひとまとめにした簡単な感想を気が向けば書くであろう。


 【注】リレー小説の思い出については、約 15 年前に英文で記したことがある("Relay Composition")。ここに和文でおおよそ書いてから、その英文を見ると、それを記した時よりも記憶がおぼろげになり、いささか不正確に書いていることが分かった。そこで、私たちの作ったリレー小説の途中までの概要と結末部分は、英文のものを参考にして書き直した次第である。

 (2018 年 11 月 13 日一部追加・修正)

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