2005年9月12日月曜日

カメの甲羅干し(写真)/ Vickyらが討論会に出場か

カメの甲羅干し


 写真は、カメたちが狭い石の上で、文字通り甲羅干しをしているらしい様子を見つけて撮ったもの(鈴の宮公園で、2005 年 9 月 8 日)。

Vickyらが討論会に出場か

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月8日(土)晴れ

 Vicky、SNN 君、YMG 君、IMR 君、KTD 君らが本校の選手としてチームの一つを作り、金沢大学主催とかの討論会にでるかも知れないという話だ [1]。YMG 君までの3人はわれわれの通信帳に何度となく登場しているが、他の 2 人については、まだ一度も書いていないから、少し書いておこう。IMR 君はアセンブリーのいろいろなクイズや校内討論会などに決まってホームルームから選ばれて出場する、がっちりした顔の持ち主である。KTD 君は国語などの朗読を当てられると、はっきりした発音の、太くない大きな声で、ゆっくりと、あまり高低をつけないで読むが、休み時間などには、どうかすると驚きを含んだような調子になる一種独特な抑揚の声で話している人物だ。朝早く 1 限の授業の教室へ入っていくと、必ずそこには KTD 君が一人、真面目に机上に本やノートを出して、何かを暗記するか考えるかしている姿が見出される。

 2 次関数の曲線に驚きを感じていた頃から、まだ 1 年も経たないが、とうとう積分記号を使うようになった。(BN 先生は、この記号の名前「インテグラル」を第 2 音節にアクセントをおいていわれる。英語式ならば、アクセントは第 1 音節になければならないのだが。)しかし、われわれの習っていることは、まだ、ニュートンが "curious shell or pretty pebble" といったもののカケラにもいたっていないことを知らなければならない。

 午後いっぱい、ソフトボールで「そばえ」た。

(Sam)

 国語の時間に一生懸命、速記の練習をした。書道の時間は無理だったが、その他の時間にも、出来るだけ手を動かしていた。午後も FJ 君、HS さんとともに、新聞部の UE 君に読んで貰って、速記をした。速記では菫台が優勝するに決まっているが、せめて二位にでもなりたいものである。タイプの方は未知数だ。小松実高が強敵だが、入賞の望みは無きにしもあらずである。
引用時の注
  1. 私は弁舌は苦手だったので、討論会選手の選定に漏れて当然だが、1 年 2 学期始めに行われて総合結果の成績が張りだされた校内一斉テストでは、Vicky、私、SNN 君、YMG 君、…というような順位だったのだから、このメンバーを見て残念に思わないことはなかっただろう。
  2. 「そばえる(戯える)」は「ふざける」の意。国語の古文に出て来たことばを早速利用したのだろう。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/16/2005 00:29
いいショットです。よく歩かれているのですね。

Ted 09/16/2005 07:57
 ショットは、お褒めいただくほどのものではありません。ウォーキングは、ほとんど毎日です。

2005年9月11日日曜日

現代仮名づかいとローマ字表記 (II):セーダハル・ホー



 写真は、10月初めの秋祭りに備えて、ちょうちんを早くもつり下げたJR鳳駅舎
(記事には無関係。2005年9月10日撮影)。

 ローマ字のつづり方に関しては、昭和 29(1954)年 12 月 9 日付け内閣告示第一号がある。それによれば、長音は母音の上にアクサン-シルコンフレックス(山型のアクセント記号)をつけて表すことになっている。アクサン-シルコンフレックスは、しばしばバー(横棒)で代用されており、また、英字新聞などでは、この記号はつねに省略されている。

 Tokyo、Kyoto、Osaka などは、長音記号が省略されている例であるが、それでも十分に分かる。しかし、これらは長音記号の省略されたローマ字表記というより、都市名の英語化されたものという方がよいかも知れない。ところで、この話の前編に記した「鳳本通」を、長音記号なしでローマ字表記すれば、"Otori-hondori" となり、これでは「お通り、本通り」と読まれそうだ。内閣告示には、長音が「大文字の場合は、母音字を並べてもよい」とある。これを利用すれば、"Ootori-hondori" となるが、英語で oo は、pool のように長い「ウ」や、book のように撥音を伴う「ウ」として発音されることが気になる。

 エ列長音のローマ字表記では、普通、上記の簡単なきまりに従わないで、現代仮名づかい同様に i が挿入されているようである。たとえば、小渕恵三・元首相の名が、英字新聞では Keizo Obuchi となっていた。また、明治チョコレートの「明治」は Meiji となっている。慶応大学の英語表記も Keio University である。Keizo と Keio の例では、オ列長音の方は、きまり通りに記されているのである。また、オ列長音が二つも含まれる大江健三郎氏は、英字新聞でも、きまり通り Kenzaburo Oe と書かれている(人名のローマ字書きは、新聞社がきめるよりも、本人の署名での使用があれば、それが尊重されているだろうが)。

 エ列長音のローマ字表記に i が挿入されている理由はどこにあるのだろうか。思うに、英単語の go、no、so などでは、o が日本語のオ列長音のように発音される。しかし、e だけで日本語のエ列長音のように発音される英単語はなさそうである。そこで、英語文脈において、o をオ列長音のローマ字表記に使うことには不自然さはないが、e をエ列長音に使うのは不自然である。したがって、後者の場合、きまりに従わない、ということではないだろうか。

 名前のローマ字表記に関連して、ある新聞の古いコラム欄を思い出す。それは、1951 年 9 月 8 日のサンフランシスコ平和条約調印後まもない日のもので、そこには、吉田茂首相は調印の署名をヘボン式ローマ字で、"Shigeru Yoshida" と記したが、これではアメリカ人は「シャイゲール・ヨシャイダ」と読むだろう、と書いてあった。私はいまでも、英文の論文に Yoshida という著者名があると、心の中で「ヨシャイダ」と読んでほくそ笑むのである。

 ちなみに、朝永振一郎博士は、日本式ローマ字で自分の名前を書いていたので、英語の本に登場する場合にも "Sin'itiro Tomonaga" となっており、「シャインイチロー」と読まれる恐れはない。ついでにいえば、Sin の次のアポストロフ(')は、「シニチロー」と読まれることを防ぐためのものである。私の元同僚の…ンイチ君たちは、このようなアポストロフの用法を知らなかったのか、自分の名前のローマ字表記に誰もアポストロフを挿入していなかった。

 ローマ字書き名前に関しては、次のような新聞記事もあった。ソフトバンク・ホークスの王貞治監督が現役選手だった頃、彼の活躍ぶりを新聞で知っていた一アメリカ人が、その記事の著者である日本人記者に「セーダハル・ホーは、いまもホームランを打っているか」と聞いたという。王さんの名前には、ローマ字書きのきまり通りでない "Sadaharu Oh" という書き方が使われている。そのアメリカ人は "OH" を "HO" と読み違えていたのである。この話も私の頭にこびりついていて、いまなおテレビで王監督を見たりすると、「セーダハル・ホー」が脳裏に浮かぶ。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


ポー 09/11/2005 21:46
 上大岡(かみおおおか)という駅が横浜市営地下鉄にあるんですが、ローマ字表記は、ひらがなと同様、o が3つある「kamioooka」だったので、外国人がみたらきっとすごく奇異に見えるんだろうな、といつも思っていました。今はkamiookaとひとつ少なくなってます。

Ted 09/12/2005 08:17
 We find a lot of such spellings in "Surely you're Joking, Mr. Feynman!" They were used to strengthen words. On the first page, for example, there is this: "... and when the bulbs were in series, all half-lit, they would gloooooooooow, very pretty--it was great!" So, Americans might have thought "Kamioooka" to represent "Here is KAMIOKA!!!" not "KAMIOO'OKA."

四方館 09/11/2005 21:54
 私は、「shihohkan」と表記していますから、さしずめ、「シャイホーカン」と読まれるわけですか。(笑)

Ted 09/12/2005 08:19
 左様です。シャイホーカンさん。

2005年9月10日土曜日

現代仮名づかいとローマ字表記 (I):気になる仮名づかい



 写真は、わが家の近くの鳳本通商店街アーケード入口上部を撮ったものである。「おおとり」という白い大きな横書き文字の下の「ほんどうり」という赤い文字は、現代仮名づかいのきまりでは誤りで、「ほんどおり」と書かなければならない。

 『広辞苑』の付録部分にある「仮名づかいについて」には、昭和21(1946)年11月内閣告示を整理して紹介してあるが、「通る」は『オ列の長音は、オ列の仮名に「う」をつけて書く』という本則の例外の一つで、「とおる」と書くことが述べられている。他の例外は「多い」「大きい」「氷」「遠い」などである。「仮名づかいについて」の説明中には記されていないが、昆虫のコオロギも例外の部類である。鳳は大鳥とも書くので、これを「おおとり」と書くのは、「大きい」の例外と同一だろう。

 しかし、なぜこのような例外が存在するのだろうか。歴史的仮名づかいを知る人ならば、これらの例外は、長音記号相当部分が歴史的仮名づかいで「ほ」となっているものであることに気づくだろう(例えば、「多い」は歴史的仮名づかいでは「おほい」と書く)。現代仮名づかいは「大体、現代語音にもとづいて書きあらわす」としながらも、なお歴史的仮名づかいの尾を強く引いているのである。

 オ列長音の長音記号相当部分を「う」と書くのも、語音通りとはいえない。「荒城の月」の最初の句「春高楼の花の宴」を歌うとき、「はるこーうーろーうーの…」とは発音しないで、「はるこーおーろーおーの…」と歌っているではないか。むしろ、「おおい」などの例外の方が、語音通りなのである。この点、ローマ字表記のきまりには例外がなく、「現代語音にもとづいて」という考えが徹底している。(つづく)

追記

 私の持っている『広辞苑』は版が古く(第3版、1983)、1986年に「現代仮名遣い」(ウェブサイトで読める [1])という内閣告示が出ていることを、上記の文を書いた段階で知らなかった。この新しい告示には、古い告示でオ列長音の例外としたものが少し拡張され、『歴史的仮名遣いで、オ列の仮名に「ほ」又は「を」が続くものであって、オ列の長音として発音されるか、オ・オ、コ・オのように発音されるかにかかわらず、オ列の仮名に「お」を添えて書くもの』という説明つきで例が挙げられており、「こおろぎ」も含まれている。また、新しい内閣告示の前書きには、「この仮名遣いにも歴史的仮名遣いを受け継いでいるところがあり」という表現があった。私は上記の文を書くに当たって、これらを読まないで、ほぼ正しく推定していたことになる。

文 献

  1. 現代仮名遣い, 昭和61年 (1986年) 7月1日内閣告示第1号.


[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]


ポー 09/10/2005 11:33
 こどもがよくまちがって王様を「おおさま」と書いたりしますね。通りは「とおり」と発音するのに表記を「とうり」と間違えるのは不思議な感じです。鼻血が「はなじ」でよいという例外も気になっています。「ち」が濁音化しているので「ぢ」なのですが。そう考えると日本語って難しいですね。

Ted 09/10/2005 13:28
 鼻血の現代仮名づかいは「はなぢ」だと思います。『広辞苑』の見出し語としては、「はなじ」のところにありますが、見出し語の下に「(ぢ)」とあり、これが現代仮名づかいを示しています。『歴史的仮名づかいの「ぢ」は「じ」と書く』に対する「例外」と混同しておられませんか。

ポー 09/10/2005 15:40
 わたしも「はなぢ」が正しいと思っていたし、そのように習ったと思っていたのですが、こどもが小学校でひらがな練習をしたものでは「はなじ」となっていて、これが許容されているんだと驚きました。Googleで「はなじ」で検索したら「もしかして はなぢ」と出ました (笑)。まだ許容されている表記というわけではないということですね?

Ted 09/10/2005 20:26
 私の持っている『広辞苑』は版が古く(第3版、1983年)、1986年に「現代仮名遣い」という内閣告示が出ていたことを今知りました。しかし、それにも鼻血は二語の連合によって生じた「ぢ」の例として挙げられていますから、相変わらず「はなぢ」が正しいと思います。

2005年9月9日金曜日

コロッセオ外観(写真)/『赤と黒』を読めばレナール夫人に


コロッセオ外観

 写真は、ローマ・コロッセオの外観(2003年5月15日撮影)。建設当時は、屋根にヴェラリウムという布の覆いがかけられ、現代のドーム競技場に似た形になっていたらしい [a]。中世には地震で崩れ、豪族の要塞にされたり、石材が持ち去られたり、羊毛工場や硝石工場にされたりと、勝手にひねくり回される受難の時代を迎えたのであった [b]。現存部分については、すべてがオリジナルではなく、よく注意して見ると、中世にここを城塞として利用した際のレンガ積みなど、後世の改修部分がかなりあるという [a]。

[a] 『ルネッサンスの古都をめぐるイタリア』(トラベルジャーナル, 2002)
[b] 『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001).

『赤と黒』を読めばレナール夫人に

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月7日(金)晴れ

 こうも忙しくありながら、『赤と黒』を読めばレナール夫人に、『懺悔録』を読めばヴァラン夫人に思われてくるいきものに対する野蛮な空想と瑣末な欲望。悩ましくない限りにおいて、その想念を自らに許す。

(Sam)

 いつの間にか、割り切れない溝が出来てしまった。最初は彼の方から、そして今ではどちらとも、どうしても必要な会話以外は交わさないことになった。英語の時間に隣同士に座っても黙っている。商業の時間には、わざわざ彼がぼくの隣へ来たものだが、今では、ずっと後方の座席にいる。お互いの信頼を失った空虚なあるものが二人の間に介在している。先週以来のことだ。

2005年9月8日木曜日

上村(かむら)地蔵尊


 わが家の近くの笠池公園の北側の短い坂道を登りつめたところに、近年改築された立派な地蔵堂がある(写真上)。そこに収められている地蔵尊(写真下)の由来が、地蔵堂の前の説明板に詳しく書かれている。それが面白いので、ここに紹介する。(原文は、一つのセンテンスが長すぎたりして、名文とはいえないので、全体にわたり書き換えた。そもそも題名が「上村地蔵尊縁起由来」となっているが、縁起と由来は同義語であろう。「一対の石像」という表現もあるが、石像は対になってはいない。「一体の石像」の間違いと思われる。)

   上村地蔵尊縁起

 668(天智天皇7)年頃、上村(かむら)に照という女性がいた。照女は法貴丸の乳母となって、彼を大切に育てた。法貴丸は成人して行基となり、乳母の功績を讚え、地蔵尊の石像を作って彼女に与えた。照女は尼となり、法名を妙善とするとともに、堂を建てて石像を安置し、生涯信心を怠ることがなかった。

 照女の死後も、石像は村人の信仰を集め、大切に守られてきた。しかし、戦国時代末期(1580年頃)に、村を襲った悪人が石像を井戸に投げ込んだ。人びとはこれを知ることなく、約60年が過ぎた。ある日、一人の村人が井戸の中から自分を呼ぶ声を聞き、不思議に思って井戸をのぞくと、一体の石像があった。はしごをかけて降りていくと、不思議や、石像の方から村人の背にもたれかかり、軽がると地上に持ち上げることができたという。1644(正保3)年のことであった。

 妙善以来久しく崇敬してきた尊像に再び接した村人たちは、奇異の思いを深くし、また、信心をいっそう篤くし、村をあげて堂を建立して、地蔵尊を崇拝した。この石像こそ、行基菩薩の作として近郷近在の信仰を集めた「上村の地蔵尊」である。家内安全、無病息災、とくに安産と母乳の出を願うと霊験あらたかといい伝えられている。

 その後、堂は地蔵尊講の手によって手厚く守られてきたが、老朽化したため、1999(平成11)年12月から再建を進め、翌2000年3月吉日、落慶法要を相営んだ。

 2000(平成12)年3月吉日
 (「上運営委員会」作成の原文に手を加えた。)


 石像が声を出したり、自ら村人の背にもたれかかったりしたというのは、怪談めいているが、像のありがたみを増すための後代の脚色であろう。なお、私の持っている年号西暦対照表によれば、天智天皇7年は西暦667年、正保3年は1646年であり、説明板の文はこれらの点でも狂っているようだが、ずれている年号と西暦のどちらの年を採用すべきかが分からないので、原文のままにした。『広辞苑』には行基の生年が668年とある(没年は749)ところから見れば、「668(天智天皇7)年頃」は「668(天智天皇8)年頃」とすべきかも知れない。

 ここまで書いて、行基のことを少し詳しく知りたいと思い、"Google" で検索したところ、すでに、大阪近辺の異名地蔵尊30体の一つとして、上村地蔵尊を「乳地蔵尊」の名で紹介しているウェブページ [1] のあることを知った(ウェブサイト [2] の一部をなしている)。そこには、現在の説明板にあるのとほとんど同じ由来が記されているが、井戸から石像を引き上げた村人の「弥兵」という名が見られ、地蔵堂の所在地の大まかな地図も添えられている。また、その場所は照女の住んでいた屋敷址とも伝えられている、との説明もある。

 行基について記したウェブページ [3] によれば、彼は和泉国大鳥郡蜂田郷に百済系渡来人の血をうけて生まれた旨記されている。上村(現在の町名は「町」をつけない「上(かみ)」)からほぼ北約2kには大鳥大社が、また、ほぼ東約2kmには蜂田神社があることから、大鳥郡蜂田郷という村は、まさにこの付近にあったことが分かる。

 行基についての上記ウェブページの説明中では、彼が「弟子たちを自ら率いて、交通の難所に橋を作り、道を修繕し、溝を掘り、堤を築いていった。…中略…また、平城京造営のために諸国からかり出された使役の民の、路傍に餓死する者の多いのを見て、彼らを救うために布施屋を9ヵ所も作った。彼のこうした社会事業は、国家仏教の形をとっていた当時においては、僧尼令に違反するものであったので、五度にわたって中止を命ぜられ、弾圧もされるが、彼は国是の禁を犯しても民衆救済のため屈することなく続けていった」という記述が印象的である。行基の仕事は後に公認され、さらに、東大寺の建立に協力したことによって、彼は聖武天皇に敬重され、745(天平17)年に、わが国で最初の大僧正の位を授けられたのである。

後日の追記

 行基の生涯を記した本 [4] が哲学者・岩崎允胤によって最近著されたことを知った。

文 献

  1. 15. 乳地蔵尊 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  2. 三村正臣, 野仏巡礼 (2002) (後日の注:リンク切れとなった).
  3. 北河内古代人物誌・僧行基 (2005) (後日の注:リンク切れとなった).
  4. 岩崎允胤, 天平の桑門―僧行基の生涯 (本の泉社, 2005).

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/08/2005 11:14
 一見したところなんの変哲もない小さな地蔵に、不似合いなほどの瀟洒な立派なお堂と見受けましたが、行基ゆかりとなれば合点のいくところです。役行者伝説や行基伝説は、灌漑や治水で各地に伝説を残した空海—弘法大師の祖形ともいえる、日本の民衆宗教のもっとも古層の人たちですネ。

Ted 09/08/2005 13:23
 伝説には尾ひれがついているかも知れませんが、それにしても、昔は強靱な人たちがいたものと感心します。

2005年9月7日水曜日

コンスタンティヌスの凱旋門(写真)/ 30分間同じ問題を考えている


コンスタンティヌスの凱旋門

 写真は、ローマのコロッセオ(右にごく一部が見える)の傍らで存在感を示しているコンスタンティヌスの凱旋門(2003年5月15日撮影)。コンスタンティヌスがテヴェレ河畔でマクセンティウス帝を打ち破ったのを記念して、315年に建設された。飾りのほとんどが、それまでのいくつかの凱旋門から引きはがされたもので構成されている。トラヤヌス帝、マルクス・アウレリウス帝時代の飾りなどが使用されていながらも、全体として威厳と調和のとれた凱旋門の最高傑作となっている。[説明は『ワールドガイド街物語イタリア』(JTB, 2001) を参考にした。]

30分間同じ問題を考えている

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月6日(木)晴れ

 30分間同じ問題を考えているが、矛盾の原因が分からない。

(Sam)

 第一回の執行委員会が開かれ、球技大会の内容を決めるだけで終ってしまった。まず、組み合わせに難航し、それから競技種目の選択についても問題があった。球技大会の問題が差し迫った問題であったにしても、第一回の委員会としては、このほかのもっと根本的なものを決めておかなければならないような気がした。

 次の日曜日には速記とタイプの検定試験にのぞまなければならないのに、練習はほとんどしていない。顧問の先生に特別にお願いして、ポータブルを家へ持ち帰って練習することにした。一分間ずつ測っただけだが、最高は275ストロークだった。そのかわり誤字がかなり多く、このことは、今度の試験ではこれまでと採点の方法が異なるのだから、フェータルな欠点となる。
 速記の方は誰か読んでくれるものがいるといいんだけれども、いないから、自分でこつこつやったり、ラジオを利用したりして、努力しているが、あまり見込みはなさそうである。

2005年9月6日火曜日

ロートブラット博士死去 (Joseph Rotblat, 1908–2005)


【Read in English.】

 【概要 (Abstract in Japanese)】さる8月31日、物理学者ジョゼフ・ロートブラット博士が死去した。博士は核兵器廃絶を訴える国際科学者団体・パグウォッシュ会議の創設者の一人で、1995年のノーベル平和賞 [1] を受賞した。博士の死去に関連して、私は4通のメールを受け取った。

 第1のメールはピースプレッジ・ジャパン(PPJ)[2] の呼びかけ人鈴木達治郎氏が PPJ 運動の誓約者宛に送ったもので、ロートブラット博士はマンハッタン計画に参加したが、ドイツが原爆を開発することは不可能と知り、自ら計画から離れたことを述べている。

 第2は私のアメリカの友人の一人で国際放射線物理学会(IRPS)元会長のジョン・ハッブルが、IRPS ニュースの次号にロートブラット博士の追悼記事を書くことをイギリスのデイヴィッド・ブラッドレーに頼んだメールのコピーである。

 第3はヨーロッパ物理学会のオンラインニュースにロートブラット博士の追悼記事 [3] が掲載された連絡である。私はこれによって、原子核物理学を専攻した博士が、1950年以降は医用物理学分野で活躍していたことを始めて知った。

 第4は、エジプトのモハメッド・ゴマー教授からの、ジョンと彼のメールの受取人全員に宛てた返信である。ゴマー教授がロートブラット博士のもとで、私も部分的に学んだエヴァンスの『原子核』[4] という教科書を勉強したことが書いてあるのが興味深い。

 ロートブラット博士が目指した核兵器の廃絶が、少しでも早く実現することを私は願うものである。

本文(英文)へ

津久野南団地の庭園(フォトショップ・プログラムで修飾)。
Image above: A photo of the garden in Tsukuno-minami housing complex,
modified with the Photoshop program (the menu of "photocopy" was used).

文 献

  1. The Nobel Peace Prize 1995, Nobelprize.org (1995).
  2. Peace Pledge (後日の注:リンク切れ).
  3. Joseph Rotblat dies, PhysicsWeb News (September 2, 2005).
  4. R. D. Evans, The Atomic Nucleus, Reprint edition (Krieger Publishing, 1982; originally published by McGrow-Hill in 1955).

2005年9月5日月曜日

エーゴ ("Engrish")


【キキさんの「英語と米語」にトラックバック】(後日の注:トラックバックの元記事はその後消滅)

H 大に入ってから、すんごくなかが良い友達がいる。彼女の生い立ちも私とよく似ている。違うのは国籍だけ。彼女はアメリカ人(日本人)。私は日本人(イギリス人)。…


 キキさんの上記のブログには、イギリスで教育を受けた彼女が、日系アメリカ人の友人に、携帯で "いま横断歩道を歩いているよ" と、米語でいわれたのが分からなかった、という話などが書かれている(横断歩道は米語では crosswalk、英語では pedestrian crossing と、異なる言い方をする)。私はそれを読んで、次のようなコメントを書いた。

 「面白い話です! "Cambridge International Dictionary of English" には、日本人が使う英語で、生まれながらの英国人には意図したようには理解されないものを "Japanese false friends" と名づけて、その表を掲載するのに1ページを割いています。たとえば、サークル=興味を同じくする大学生の非公式なグループ*、エスケープ=学校や職場を抜け出すこと、グラマー=魅力的に大柄で健康で、大きな胸を持っている女性、などです。"Korean false friends" や "Dutch false friends" の表もありますが、"American false friends" は見つかりません。」

* 等式の右辺はいずれも、生まれながらの英国人には理解できない、日本人が意味する内容


 これに対してキキさんは、「あなたは多分 Engrish.com に興味を持つでしょう。このウエブサイトは、とってもコッケイです」という返信を書いてくれた。(コメント、返信とも、原文は英文。)早速、そのサイトを覗いたところ、それは、日本や他の非英語国の町の看板やTシャツの柄などに見られる奇妙な英語を、写真で集めているものだった。私はうかつにも、そのサイトの "What is Engrish?" というページの説明を読むまで、サイト名の Engrish を English と思い込んでいた。 私の英語も結構 Engrish(いわば、日本人式英語)なのだ!

 上の写真の看板も Engrish.com へ投稿するのに適したようなものだが、わざわざ投稿するのも面倒なので、ここに紹介しておく。わが家の最寄りの JR 駅近くのビルの1階の角の、正面より45度ほど斜めになった面にある看板であり、 "Your answer is withine the costomer." という文が書かれている。1階は医院であり、看板の女性が看護士らしいところから、その医院のサービスぶりを表現したものと思われる。

 綴りを間違えている単語が二つもあることを別にしても、文自体が妙である。「あなたがた、お客様へのお答えは、お客様自身の中にあります。」つまり、どんなご要望にもお応えします、といいたいのではないかと思う。そうならば、"Our answer is within you, customers." とでもすべきであろう。"Your answer is within the customer." では、経営者の心構えを教える人が、経営者 you に対していい聞かせているような文であり、客向けの看板に記す文ではない。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ポー 09/05/2005 12:15
日本人は英米で使われる単語の違いについて知っている人が多いので、英米のクッション役になれるかもしれませんよね^^

Ted 09/05/2005 13:20
 そうであればよいのですが。私は戦後間もなくの小学生時代に大連で習った英語の先生が英国式でしたが、それ以後は米国式で習いましたので、ごちゃまぜです。綴りも、私の専門でよく使う ionization は米国式。英国が中心のヨーロッパの英文専門誌へ投稿するときには、ionisationとしなければなりません。

2005年9月4日日曜日

Sam が渡り初めを見た橋が…

 先に、SNS「エコー!」(後日の注:このブログの最初の投稿サイト)が提供し始めた「検索ワード解析」を、私のブログの8月18日からの1週間分に対して使ってみた結果を報告した [1]。引き続き、8月25~31日について調べたところ、次の通りだった(期間内の総アクセス数:4,903。21番目以下は略)。


検索ワード アクセス数 アクセス率 (%)
1 御影大橋 56 4.29
2 夏目漱石 こころ 34 2.61
3 夏目漱石こころ 33 2.53
4 靖国問題とは 28 2.15
5 漱石 こころ ブログ 21 1.61
6 こころ 夏目漱石 感想 18 1.38
7 こころ 夏目漱石 17 1.30
8 こころ 感想 夏目漱石 14 1.07
9 夏目漱石 こころ 感想 14 1.07
10 エルンスト・フェルディナント・エーメ 10 0.77
11 シラサギ写真 10 0.77
12 満月のドレスデン 10 0.77
13 アヒル 写真 8 0.61
14 夏目漱石 こころ あらすじ 7 0.54
15 トンコ節 7 0.54
16 ナツスイセン 6 0.46
17 通販生活 憲法を変えて 6 0.46
18 車輪の下について 6 0.46
19 浜寺公園 6 0.46
20 ヨハン・クリスティアン・クラウゼン・ダール 6 0.46

 この結果には、夏休みの終りに当たって、生徒たちが宿題の感想文を書くために、自ら考えようとしないで、インターネットで検索をしまくっている事情が反映していると思われる。幸い、私の『こころ』に関する文 [2] は、そのような目的のためには、あまり参考になるようには書かれていないと思うが…。

 前回も5位にあった「御影大橋」が今回はトップに来ている。私の「Youth (青春時代)」カテゴリには、確かにそういう名の橋が一度出ているが、観光対象になるほどのものではない。日本のどこかに同じ名前の橋があるのだろう、ぐらいに思っていた。しかし、"Google 日本語" で検索してみて、親友 Sam が53年前の8月23日に渡り初めを見たその橋が、このたび、改めてニュースになっていたことを知った。この橋は都市計画道路・鳴和三日市線にあって、金沢市犀川に架かるものだが、従来の橋は老朽化が進み、慢性的な交通渋滞を招いていたので、今回、架け替えて4車線化し、渋滞の緩和を図ったとのことである [3]。

 新しい橋は、延長約108メートル、幅員22~24.5メートル。山側の歩道部分(橋の名前通り御影石が使用されている)は緩やかにカーブを描き、歩行者が景観を楽しめるよう配慮されているそうだ。さる8月27日に開通したのは、車道部分と山側の歩道部分で、今後、海側の歩道も整備し、2005年度中の完成・供用を予定している、とも報じられている。[3, 4]

 いままで御影大橋が金沢のどのあたりにあるのか、はっきりとは知らなかった。この機会に地図を出して見ると、私が2年前に写真を撮って、それを参考に水彩画にした犀川大橋 [5] から川下へ二つ目の橋で、Sam が住んでいた町(「長町」に併合されたようだ)からすぐ近くである。次に金沢へ行く機会に時間があれば見て来たいと思う。

 なお、旧御影大橋は、手取川を渡る自転車道用の橋に丸ごと「リサイクル」されたようである。土木学会関連のウエブページ [6] に引用されている北国新聞の記事に、「橋の再利用は県内初めてで、終戦直後、復興のシンボルとして完成した同橋の記憶をとどめ、現代は再現するのが難しい工法が駆使された文化財として保存するのが狙い。公共事業費が削減される中、建築資材を有効に使ったモデル工事にも位置付ける」とある。

 ちなみに、"Ted's Coffeehouse" 掲載の、亡き友 Sam の旧御影大橋渡り初め見物記 [7] は、目下 "Google 日本語" 検索で5番目に出る。

「竣工成った御影大橋の渡り初めを見に行く。泥のような雲が空にかかっていて、時どきそぼ降って来た。それでも沢山の人だった。ぼくが見たのは、十数個の風船が空に舞い上がって行ったのと、…」

という彼の名文が、偶然にも橋の架け替えで、多くの人びとの目に触れることになったのである。

文 献

  1. 検索ワード解析, Ted's Coffeehouse (2005年8月24日).
  2. 『こころ』再読, Ted's Coffeehouse (2005年8月11日).
  3. 都市計画道路鳴和三日市線「御影大橋」が開通, 石川県・県政フォトギャラリー (2005年8月27日) (開通式写真入り) (後日の注:リンク切れ).
  4. 御影大橋:開通式行う, Yahoo!ニュース - 毎日新聞 (2005年8月29日)(後日の注:リンク切れ).
  5. 雨期の犀川大橋, Ted's Coffeehouse (2004年10月17日) (後日の注:その後削除).
  6. 一般記事:橋のリサイクル, JSCE ウェブサイト (2003年1月8日) (引用の新聞記事は2003年1月2日付け).
  7. 御影大橋の渡り初め, Ted's Coffeehouse (2005年6月3日).

写真は、わが家の庭で、いま咲き誇るアサガオ。

ノボタン(写真)/ だだいまの指名を…


ノボタン

 写真は、わが家の植木鉢に咲いたノボタンの花。陽がかげっていたときに撮った2枚目の写真では、花が妙に青っぽくなってしまったので、陽が射したときに取り直したのが1枚目の写真。こちらが実際の色に近い。どちらも Photoshop プログラムで赤色を少し強調したが、2枚目の写真では、修正し切れなかった(2005年9月1日撮影)。

 『大辞泉』の「のぼたん」の項を見ると、次の句があった。

   のぼたんの一と日の命けさあえか  風生

 句の通り、この花は1日で、はらはらと散ってしまう。

だだいまの指名を…

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月5日(水)雨

 後期第一回の生徒議会が開かれる。議長は JRC の HS 君に決まった。マンゲツ君が彼を指名したとき、彼は健康上の理由から、「だだいまの指名を支持いたしません」と発言したが、結局、議長をしなければならないことになった。HS 君の議長席での最初の挨拶は、「皆さんは私の健康など、どうでもよいのですか。私は自分が倒れても知りません」というものだったが、誰かが「倒れたら起こしてぐらいやる」とやじって、爆笑で片づけられてしまった。
 一、二年生が多いせいか、議事運営が非常に幼稚なように感じられた。動議の提出にしても、採決の方法にしても、時どき、ぎこちなさがあった。
 本年度六つのアカデミー賞に輝く最高の映画が四十円で観られるのだってさ。Ted はちょっとおとましいことをしたね [1]。早く観たというプラスは君に与えられたけれども。


 引用時の注

  1. 「おとましい」は金沢弁で「惜しい」「もったいない」の意。

2005年9月3日土曜日

無心(写真)/ すぐに舌を出す MY 選手


無心

 写真は、落ち葉を溝蓋の穴から落として無心に遊んでいるおさな子(2005年8月29日撮影)。母親は少し離れたところで犬の散歩をさせていたようだが、無断で撮影した。お許しあれ。

すぐに舌を出す MY 選手

 高校時代の交換日記から

(Sam)

1952年11月4日(続)

 二水新聞が昨日の開票結果についての速報をガリバンで刷って出したので、様子がよく分かった。会長は GD 君である。125票を獲得し、二位の NG 君を39票も引き離している。
 うちのホームの代表は65票を獲得して悠々執行委員に当選している。トンチ君が応援演説を行った候補も一、三年生からかなりの支持を受け、二年生の投じた3票を合わせて53票で執行委員に当選。とにかく凄いメンバーが揃っているから、活発な執行委員会になりそうである。


(Ted)

1952年11月5日(水)雨

 ホームルーム時には、MY 先生が浜口選手の送ってきたオリンピック遠征中のお嬢さん [1] の写真10数枚を回覧して下さった。3人の女子選手と一緒にどこかの橋の上で写したものは、他の選手が後ろを向いていて、MY 選手だけがこちらを向いて舌を出しているという場面だった。米国の選手か誰かに撮って貰った天然色写真も1枚あった。それもまた、原とかいうコーチャーに肩に手をかけられて舌を出した瞬間をキャッチされたものだ。それを送ってきた MY 選手宛の英文手紙には「あなたは自分の舌を口の中におさめて笑うことを覚えなさい。そうした後に、あなたはこの写真を誰にでも見せることが出来るでしょう」と書かれていたそうだ。

 引用時の注

  1. 飛び込みの選手だった。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 09/04/2005 03:01
MY 先生のお嬢さんがこの時何歳だったのか。とてもキュートで可愛らしいと思うのですが、欧米では若い娘が舌を出すのはエチケットに欠けるのでしょうね。日本のスポーツ選手の場合だけかもしれないけれど、特に女子選手の場合、実年齢より若いというか幼さを感じているのは私だけかな。

Ted 09/04/2005 07:49
 MY 選手は大学生ぐらいの年齢だったかと思います。そうです。エチケットに反するのでしょう。マリナーズのイチロー選手も幼く見えないように、ヒゲを伸ばしたりしているようです。

2005年9月2日金曜日

「有権者の目をくらまそうとしている」("He Wants to Dazzle Voters")

【Read in English.】

 英国のフィナンシャル・タイムズ紙は、最近、わが国において9月11日に行われる選挙についての社説 [1] を掲載した。その社説は、次のような事実を述べて、ある党の党首が有権者の目をくらまそうとしている、と鋭く批判している。

 「彼は有権者の注意を無情にも、自分自身と、党と郵政の改革に対する自らの試みに向けさせ続けている。日本がいくつもの差し迫った国際問題に直面しているにもかかわらず、選挙運動においては、外交政策がまったく欠けている。それらの国際問題とは、石油価格の上昇、悪化している対中国関係、米軍基地に関する米国との交渉などである。」

 これは正当な見解である。私たち日本の有権者は、このような形の選挙運動にだまされてはならない。

文 献

  1. Japan's small world, Financial Times (August 29, 2005).

写真は8月29日、ウォーキングの途中で道端の草むらに見つけたアサガオの花。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

ゆっぴー☆ 09/02/2005 11:15
 Ted さん、いつもどうもありがとうございます。本当にこの記事に書いてある通りで、小泉さんの術中に大勢の人々がはまっちゃってしまいましたね。予想外の展開ですね。ウーン…。ネットの言論界を探っても選挙結果の予想は難しいですね。ネットウヨが勢力拡大しているように思えましたよ。

Ted 09/02/2005 13:16
 小さな世界しか語らない人の術中に大勢がはまるとは、嘆かわしいことです。

ヨハン 09/02/2005 18:01
 まさにその通りだと思います。やるべき事の優先順位や実現後の効果を考えれば今叫んでいる郵政改革にどれほどの意味があるのかまったく理解できません。こじつけ理論としか思えないのは私だけでしょうか。残念ながら多くの有権者はかのテレビ CM に洗脳されつつあるようです。マスコミの影響力は凄いと感じました。中国との外交や原油価格など間近に迫る近未来の方がとても心配です。あのお方は、いざとなれば増税で切り抜ければ良しと考えているのでしょうか。

Ted 09/02/2005 19:55
 庶民は、自分たちの暮らしを圧迫する政治をいつまでも選ぶことのないように、賢くならなければなりません。

2005年9月1日木曜日

ツクツクボウシのいた場所(写真)/ 久留島武彦氏来演


ツクツクボウシのいた場所

 写真は、さる8月29日ツクツクボウシが鳴いていた木(右端のクスノキ)を撮ったもの。どこにとまっているかと見上げているうちに、鳴き止んでしまった。前方の人影はゲートボールを楽しむ人たち。

久留島武彦氏来演

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年11月4日(火)晴れ

 久留島武彦氏 [1] が来校して講演。声量と話術は素晴らしいが、セの発音が不正確だと思った。「高峰博しぇの功しぇきは、遠くから望むほど偉大である。知らず廬山、ただ身この山中にあり。諸君は博しぇのごう(郷)土にいて、あまりに博しぇの魂に近く触れているため…」というような具合だ。住血吸虫を住吸血虫と何度もいわれたのには誰も笑わなかったが、センチメートルをセンチメントといい損なわれたのに対しては、われわれは笑った。アドレナリンのことからホルモン分泌のことにおよんで、青年期の軽い心理風刺をされたときには、たびたび拍手が起こった。

(Sam)

 第七限に、郷土の偉人そして世界の偉人である高峰譲吉博士の伝記とその学問について講演があるというので、四十分授業が行われた。授業時間が非常に短く感じられた。
 講師の紹介が校長からなされたが、名前は聞き漏らした。とにかく、校長が今から四十年前、この講師から演説を聞き、深い感銘を受け、今でも示唆を受けるところしばしばであるということである。
 講師の弁舌は巧みで、いつもは騒がしいうちの会社のアセンブリーも落ち着いていた。高峰博士をマウントエベレストに例え、レスタミンの説明に甲状腺ホルモン、青年期の説明も補足するなど、次つぎと興味深かった。講演を感銘深いものにするには、余情を残すことだそうだ。


 引用時の注

  1. 久留島武彦(1874–1960)は児童文学作家。筆名は尾上(おのえ)新兵衛。日本のアンデルセンと呼ばれた。詳しくは 「久留島武彦」(ウィキペディア フリー百科事典)を参照。このとき、78歳だったことになるが、たいへんお元気だった。Sam の通っていた二水高校でも、同じこの日に氏の講演があったのだ。Sam の感想は私のもののようにひねくれておらず、素直である。2人の感想を合わせれば、氏の講演がより立体的に把握できるともいえるが。