[Abstract] I have kept the record, "Investigation of shops," we made in 1947. At that time, I was in the sixth grade of elementary school in Kanazawa. All the members of our class went out from the school in four groups and counted the numbers of different kinds of shops along four streets. Those days, there were many small shops for each of fishes, vegetables and hardware in an area within the distance less than ten-minute's walk from the school. However, most of those shops were recently replaced by a small number of relatively large stores, causing inconvenience to elderly and handicapped people, not only in this part of Kanazawa but also in many areas of Japan. This is similar to "supermarket shortage" in many American urban neighborhoods. However, in Japan, the disappearance of traditional small shops is probably one of key factors to produce kaimono nanmin (shopping refugees). (Main text is given in Japanese only.)
戦後まだ間もない 1947 年、私が小学校 6 年生のときの、いろいろな教科目のノートから、自分の好んだ箇所を B6 サイズのメモ用紙(当時としてはかなり上質)26 ページばかりに書き写したものが保存してあった。中学生になる前の春休みにでも作ったのだろうか。先に紹介した詩もその中の約 1 ページ分である。最近、ニュートンが「記録魔」だったということを読んだ(文献 1)が、私も、ニュートンにはとても及ばない程度には、「記録魔」的なところがあったようである。今回はその保存されていた記録のうち、社会科のノートから書き写してあった「商店調べ」を紹介する。金沢市の小立野にあった旧・石引町小学校(現在は、場所を変えて、他の一校と統合され、小立野小学校となっている)の付近の四つの街筋における商店の種類別の数を、クラス全員(8 班に別れていたので 2 班ずつが組んだのだろう)で手分けして調べ、その結果を総合したもののようである。
上掲のイメージは、「商店調べ」の 1 ページ目で、右端には、先に紹介した詩の 2 編目の末尾がある。そこでは「ほほえんで」が「ほおえんで」、「とおり」が「とほり」と、仮名づかいの混乱が見られる。新仮名づかいに移行したばかりの頃だったので、「微笑んで」では「頬」が「ほほ」から「ほお」に変わったことと混同し、「通り」では旧仮名づかいがうっかり出たのだろう。
社会科 商店調べ
- 小立野新町は百二軒調べたうちで:金物屋 6、古物屋 5、雑貨屋 4 が一番多く、材木屋、魚屋、洋服屋、自転車屋が各 3。
- 上石引町九十一軒調べたうち:飲食点 7、雑貨屋 5、病院 5 が多く、次いで床屋、菓子屋の 4、魚屋、八百屋、金物屋、薬局、時計屋、洋服屋、自転車屋、下駄屋、花屋が 3。
- 大学前(注 1)の通り四十七軒のうち:宿屋アパート(注 2)5 が多い。氷屋、運送屋各 2。
- 中石引町(注 3)は九十八軒のうち:魚屋 6、自転車、八百屋、薬局各 4、飲食店、菓子屋、雑貨屋、下駄屋、靴屋、紙屋、本屋等が各 3。
全体に見て飲食店が一番多く 14、二番は魚屋、金物屋、雑貨店の12、次は八百屋、自転車屋の 10、薬局の 9 が多い。また、新鮮を尊ぶ魚屋、八百屋は昼近くから午後にかけて日の当たらない道路の西側に多い事がわかった。
引用時の注
「大学」は、旧・金沢医科大学とその付属病院を意味していた。現在は金沢大学医学部とその付属病院になっている。
両者をひとまとめにしたのか、間に句点はない。いまの感覚では、アパートを商店に入れるのはいささか妙にも思われる。
この町と二番目にある上石引町が旧・電車通りに面していて、後者がその末端部だっただろうか。後に、町名が下、中、上石引町、そして、その先につながる小立野新町までも合わせて「石引」に統一されたと思う。兼六園の南端を出たところから、南東へ向って真っすぐに約 1.5 km 伸びている街筋である。いまは、さらにその先までバスが走っている。三番目の「大学前の通り」は、上石引町の旧・電車終点「大学前」から、電車通りに直角に北東へ約 150 m 伸びている道を指す。
この調査対象の町は、いずれもその遠い方の端まで、学校から徒歩で 5〜10 分以内で行ける範囲にある。昔は狭い範囲にずいぶん多くの小商店があったのである。このときの私たちのクラスの担任の先生は、現在も旧・小立野新町に住んでおられ、先年訪ねた折に、買い物が不便になったと聞いた。金沢のこの辺りは、古くから住宅地が広がっているところだが、ここでもいま、他の都市と同様に、高齢者や障害者が「買い物難民」化する状態になっているのである。(『ウィキペディア』日本語版の「買い物難民」のページにリンクされている英語版のページは "Supermarket shortage" であるが、日本の場合は従来型商店の消滅の影響も大きく、かなり異なるように思われる。)
文 献
- 米沢富美子, 人物で語る物理入門(上)(岩波, 2005) p. 44.
0 件のコメント:
コメントを投稿