A 先生は、私が属した第 8 班では、男勝りの H 子を班長に、私を副班長に指名した。他のすべての班で、班長は男子、副班長は女子だったにもかかわらず、である。H 子は、さすがに気が引けたか、先生に、他の班のように正副入れ替えて欲しいと頼んだが、先生は、「8 班はこれでいいんだ」といった。
私は大連から引揚げて来たばかりで、その土地・金沢の子どもたちの話し方や遊びにまだ慣れていなかったこともあり、女児のように、しとやかな子だったのだ。A 先生は、そんな私に、負けん気を起こさせようと配慮したのだろう。それは、たしかに効き目があった。夏にはしょっちゅう泳いで顔の日焼けが冬にも残っていた文系児の H 子と、野球の対校試合を応援に行く以外はたいてい家で本など読んでいた理系児の私は、そのとき以来ずっと、お互いにひそかな競争相手となったのだった。
H 子は負けず嫌いだった。彼女が私にある日いった「明日の国語の試験では、私は T さんに負けない。勝つか同点よ」という言葉にそれが現れている。その試験では、A 先生が彼女に問題を作らせるという試みをし、その代償として、彼女は 100 点を貰うことになっていたのである。私のその時の試験結果は、覚えていない。しかし、H 子はクラス全体のレベルも配慮して問題を作るような頭脳の持ち主だったから、彼女の出題は、たぶん、理系児でも国語も好きだった私には、楽しみながら答えが書けて、十分に 100 点をとれるようなものだったと思う。
40 歳になるかならないで、H 子はプリンストン大学で日本語を教える教授になっていた。そのころ私は、実家が宝塚に移った彼女と、久しぶりに大阪で会う機会をもった。いろいろ話す間に、物理学の研究をしていた私は、ふと、研究は何をしているか、と彼女に尋ねた。彼女は、教育だけで、研究はしていない、と答えた。私のその質問が、彼女の負けん気に対して引き金になったのか、彼女は翌年、教授職を捨て、ハーバード大の大学院生になった。そのことに A 先生は驚いていたが、それは、かつての先生の計らいの効果が H 子の側にも及んだのであっただろう。
A 先生は、その後、知恵遅れ児童の教育に専念し、校長もつとめた。H 子はいまもアメリカの大学で教育・研究をしている。
注:この話は、未月さんのブログ [1] への私のコメントに大幅に手を加えたものである。A 先生についての話は、[2] に、また、H 子についての話は、[3] と [4] にも書いてある。
- 未月 "マイペースな長男" (2004).
…それにしたって、この担任の先生はとても素敵だ。子どもたちを見つめる目線がとてもおおらかだ。…
- "The Reform of Education" (2000).
- "「寄付の文化」の欠如" (1990).
- "The Girl of Masculine Spirit (男勝りの少女)" (2004).
コメント(最初の掲載サイトから転載、若干編集し直してある)
Y 12/10/2004 19:35
素晴らしいお話ですね。感心いたしました。Ted さんとH子さんの実人生の流れあい、と言いましょうか。それを綴られる Ted さんのこまやかな誠実な穏やかな文章の素晴らしさも、私はもちろん見逃していませんし。
私の姉は小学校低学年から、「どうやってこの子を育てたんですか?」と担任教師などから母にきかれるほどの「神童」的な優秀さで、私は姉のかげに隠れて、誰からも期待されずに育ちました。私より 10 年以上早く家を捨てて北海道大学に行き、大学院まで出た姉は、法学部一番で北大を卒業しました。いまは、某総研勤めで、加えて今度、3 児の母ですが、その姉が結婚までずっと、育った家庭で負った傷に耐えられず、自殺未遂、過食症でぼろぼろにもなったこと、それは隠された秘密なんです。
そして弟は若干 27 歳で年配の研究者が受賞すべき賞である学会賞を、体育で最大の学会で取るぐらいの努力家であることは、ブログで書いたとおりです。
私以外のきょうだいの話をしても、十分反映されるような、Ted さんと私の生い立ちや学生時代、その後…といった境遇は、本当に違うものばかりですね。でも、私は Ted さんのブログを読んで、傷ついたりうらやましく思ったりしないのです。ただ Ted さんのブログを読ませていただいて、素直によいブログだなぁと、感じるばかりなのです。それでできるかぎり、訪問させていただいて、コメントもさせていただいているんです。
Ted 12/10/2004 19:48
Yさんがご姉弟ともども、今後幸せな人生を歩まれることを祈っています。
P 12/10/2004 21:01
年月を超えてのライバルとはたいへん素晴らしいものですね。H 子さんはなんと素晴らしい先生と友をもったことでしょうか。
Ted 12/11/2004 08:24:01
「お互いに競争相手」と書いたのは、私の方の思い上がりかも知れません。私が日本で研究を続けたことに比べて、アメリカの一流大学で教官になるのは、ずっとたいへんだったでしょうから。
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