2004年12月30日木曜日

「われわれはどういう存在であるか」

 新着の『学士会会報』に掲載の、海部宣男・国立天文台長の一文 [1] を読む。宇宙をうたった歌の紹介に始まり、伝統的七夕祭の推奨、すばる望遠鏡が見た宇宙、宇宙論の現在、等を経て、地球外に生命のある可能性にまで話を進める。

 最も古い宇宙の歌の一つと思われるものとして、3000 年前のインドのヴェーダの古典、『リグ・ヴェーダ』にある天地開闢の歌が紹介されている。
 その時、無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、祖を覆う天もなかりき。何者か活動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。

 「伝統的七夕祭」とは、国立天文台が提唱する、旧暦で勘定した七夕を祝うことである。旧暦では、月齢と日にちが合っており、七夕の日に見られる月は、ほぼ上弦の月であり、夜半に月が沈むと、あとは満天の星と天の川の世界となる。そこで、江戸時代の七夕の俳句「星の恋いざとて月や入りたまふ」(長斎)というシチュエーションができる、と説く。

 「では宇宙とは何か」と、海部は自問して、中国で 2000 年前に中国で書かれた『淮南子(えなんじ)』から、「往古来今これを宙といい、四方上下これを宇という」を引く。すなわち、宇宙とは、時間のすべてと空間のすべてである、といっているのであり、これはわれわれの思っている宇宙そのものである、と。

 今世紀の半ばくらいには、ひじょうに大きな望遠鏡で、太陽系外惑星の分光分析から、地球外生命を見いだす可能性もある、と述べ、そこから、われわれはどういう存在であるか、ということを学んでいく時代になることは間違いない、と結ぶ。宇宙の研究はロマンに充ちている。

  1. 海部宣男「人と宇宙」学士会会報 No. 850, p. 93 (2005)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/31/2004 08:22
 「何者か活動せし、いずこに、誰の庇護の下に」というのは、どこにも誰も、誰の庇護の下でも活動してなかったということですよね? それで水だけがあったと。私たちはあまり生の水を飲みませんけど、水だけは特別な物質だと思いますね。最も基本的な物質。物理学的にどうでしょう?
 彼の話では宇宙論に七夕祭が自然に持ち込まれているのでしょうか? もちろん宇宙論の美化ではありませんよね。
 「四方上下これを宇という」、宇宙とは時間と空間のすべてである、というのは、私にも納得できます。
 やはり宇宙の研究はロマンに満ちていますか。私はロマンはずっと先に無期延期して、ただ現実的な精密な宇宙論が追究できたらいいなと思うんですが、自分にもちろんその能力は皆無だし、何が「現実的」かって、それはロマンそのものだと肯定してもいいかもしれませんね。Ted さんの科学観はいかがですか?

Ted 12/31/2004 13:19
 七夕祭の話は、一般の人びとにも星に親しん貰い、そのことによって心に潤いを持って貰えたら、という天文学者・宇宙物理学者の願いでしょう。
 宇宙の研究そのものは、現実的で精密なものですが、それに情熱を傾ける姿勢は、ロマンによって育まれるところが大いにあると思います。

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