さる6月20日、NHK BSプレミアムで放映された「極上美の饗宴 東山魁夷の旅:第2回 挑戦の京都」を見たあと、その中で紹介された絵を『京洛四季:東山魁夷小画集』(新潮文庫)で再度見ようと思い、その本を応接間の本棚へ取りに行った。そのとき、近くの棚にかつて読んだ武谷光男編『原子力発電』(岩波新書、1976)を見つけ、パラパラと眺めると、次の箇所が目に入った。
…自主開発への努力を怠り、輸入の軽水型発電炉のマスプロ路線を維持しつづける限り、日本はアメリカの濃縮ウラン世界戦略の中に組み込まれて抜け出せない。(p. 197)
現在の日本の原子力行政を最も毒しているのは、原子力基本法に盛り込まれた三原則の存在にかかわらず、「公開」の原則を無視した極端な秘密主義である。それが、原子力委員会や電力会社の信用を、とりかえしのつかないほどに損なってしまった。
さらに「民主」の原則も著しくふみにじってきた。政府や業界に都合のよい学者、技術者だけが委員会などに採用され、 かれらの見通しは常に間違ってきた。正しい見通しをもってこれまでのやり方を批判してきた人々は外されたままである。(p. 201〜202)
基本的に「公開」「民主」「自主」の三原則を忠実にまもる以外に、日本の原子力の将来はなく、住民に納得される道もありえないのである。(p. 204、本文末尾)
これらは、わが国への原子力発電導入から約20年後の時期に書かれた言葉である。それから約35年、原子力三原則無視を修正しないまま走り続けた結果が、福島第一原発の過酷事故につながったといえよう。せっかく原子力基本法に盛り込まれながら、まもられなかった三原則に心があれば、泣いているに違いない。この三原則の重要性は、原子力に限ったことではない。国政のあらゆる分野で自主・民主・公開が尊重されなければ、その政治はいずれ破綻するであろう。
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