2012年10月31日水曜日

16歳の少年が私に相対論などを質問:13. 質量と重さ (Boy of Age 16 Asks Me about Relativity, etc. 13. Mass and Weight)


慣性質量と重力質量の等価性を示したエトヴェシュの最初の実験の図。慣性質量に依存する遠心力の比 F1 対 F2 が、重力質量に依存する重力の比 G1 対 G2と異なれば、棒が回転する。回転を検知するため、鏡が用いられている。以後の実験では、精度向上のため、異なる設定を使った。詳しくは 『ウィキペディア』の "Eötvös experiment" のページを参照のこと。Image by Petteri Aimonen (Own work) [Public domain], via Wikimedia Commons.

 【概要 (Abstract in Japanese)】このシリーズでは、16歳の少年アーロン(仮名)からの、相対性理論など物理学に関する質問と、筆者テッド(仮名)の回答を紹介している。今回の質問は、物体が光速に近い速さで動いているとき質量がふえるということだが、重さも増すの? というもの。なお、アーロンが私の答えへの礼状に「"Dr. Who" という SF をご存知ですか」と書いてきたので、私の知らなかったことを一つ、彼から教えて貰う結果となった。
 【本文(やさしい英文)へ (To main text in English)

2012年10月30日火曜日

ヒイラギモクセイ (Fortune's Sweet Olive)


 この写真は昨日、堺市・鈴の宮団地の北端に並ぶ何軒もの一戸建て住宅の裏に同じ種類の木で続く生け垣のところで撮った。昨年その場所で撮った写真は、ギンモクセイの名で掲載したが、先日、フェイスブックの友人が掲載した写真で、ヒイラギモクセイという似た種類のあることを知った。

 『ウィキペディア』のモクセイのページ中のギンモクセイの説明には「縁にはあらい細鋸歯があるが、鋸歯がなく全縁[引用者注:葉の縁が滑らかで、ぎざぎざのないこと]の場合もある」とある。他方、ヒイラギモクセイのページには「縁には刺状の鋸歯が 8〜10 対ある」とある。したがって、葉に鋸歯があることを見ただけでは、どちらであるかがはっきりしない。しかし、後者の説明に「生垣などによく利用されている」とあるので、ヒイラギモクセイに軍配を上げることにした。

 ところで、ことし上記の団地の生け垣では、花が少ししか見られない。生け垣の剪定をかなり遅く、夏の終わり頃にした様子であり、それが影響したのではないだろうか。

I took the above photo yesterday at one of similar hedges that are lined at the back of several single-family homes, which in turn stand along the northern side of Suzunomiya housing complex, Sakai. Last year, I also took a photo at the same place and posted it by the name of Osmanthus fragrans Lour. Recently, I learned about a similar species, fortune's sweet olive (Osmanthus x fortunei), from a photo posted by a friend of mine at the Facebook.

The description about Osmanthus fragrans Lour on the Wikipedia page (Japanese edition) of Osmanthus fragrans includes a sentence like this: Edges of leaves either have sharp serration with wide spaces or have no serration. On the other hand, the Wikipedia page (Japanese edition) of fortune's sweet olive sates that edges of leaves have from eight to ten pairs of spiny serration. So, we cannot identify the plant in the photo as one of these by the appearance of leaves. However, the description in the latter page that this plant is often used as a hedge makes me prefer to use the title "Fortune's sweet olive" here.

By the way, the number of blossoms I saw at the hedges described at the beginning of this post was considerably small this year. The reason for this seems to be the fact that pruning of the trees of the hedges were probably made relatively late, i.e., near the end of summer.

2012年10月29日月曜日

空二態 (Two Appearances of the Sky)


 1 枚目の写真は、一昨日、ウォーキングの途中で薄明光線、いわゆる天使のはしご、を撮ったもの。カメラを空に向けたとき、液晶モニター画面が暗くなって、どのあたりが中心になっているかよく分からないままシャッターを切った。撮れた元の写真では、右上の明るい部分がほぼ中心にあったので大幅にトリミングした。

 2 枚目の写真は、昨日の午後 5 時過ぎ、南の空の夕焼け雲を撮ったもの。きょう好天気になる前兆かと思っていたところ(実際そうなったのだが)、午後 7 時過ぎ頃、激しい雷雨がしばらく続いたのには驚いた。

The upper photo shows crepuscular rays (also known as the angel's ladder) I saw during walking practice the day before yesterday. When I had the camera toward the sky, the LCD monitor screen was dark. So, I released the shutter without knowing the exact camera view. In the original photo taken, the bright part at the upper right was almost at the center. Thus, I trimmed it to a large extent.

The lower picture shows sunset clouds seen in the southern sky a little after five o'clock yesterday afternoon. I had thought that those clouds suggested today's sunny weather (actually it was so) but was surprised at a strong thunderstorm that continued for a while some time after seven o'clock yesterday evening.

2012年10月28日日曜日

秋色のイチョウ (Ginkgo in Autumn Color)


 上の写真は、堺市の八田荘公園で、昨日(2012年 10 月27日)撮影した。ことし、当地でのキンモクセイの開花はかなり遅かったが、イチョウの葉が色づくのは早かったようだ。昨年は同様な写真を 11 月中頃に撮っている。

The photos above were taken in Hattasō Park, Sakai, yesterday (October 27, 2012). This year, flowering of sweet osmanthus here was quite late, but ginkgo leaves seem to have shown an autumn color pretty early. Last year, I took photos of a similar scene in mid November.

2012年10月27日土曜日

敗戦直後の小6国語教科書 (The Textbook of National Language for Sixth Grade of Elementary School Just After World War II)


[Abstract] I have kept excerpts made in 1947 from my notebook of national language lessons in the sixth grade of the elementary school. The excerpts show that the textbook included a story of Raffaello Santi's Madonna paintings and a biography of Maria Skłodowska-Curie. In addition to these, I remember two stories in the same textbook. One is "Chawan no yu (Hot water in a cup)" written for children by the physicist and author Torahiko Terada. The other is Sugita Genpaku's "Rangaku kotohajime (Beginning of Dutch studies)" (probably the retold story by Kan Kikuchi). (Main text is given in Japanese only.)

 先に「戦後まだ間もない 1947 年、私が小学校 6 年生のときの、いろいろな教科目のノートから、自分の好んだ箇所を B6 サイズのメモ用紙(当時としてはかなり上質)26 ページばかりに書き写したものが保存してあった」という書き出しで、「戦後間もない頃の『商店調べ』」という記事を書いた。そのメモ用紙の記録の最初のページには、「国語のノートより」として、次のような固有名詞の簡単な説明リストが記されている。私自身が教室で発表する必要があって図書館まで赴いて調べた説明だったというような事情で、書き写して保存したのだろうか。

ファエルはイタリヤのウルビノで生れ(一四八三年)早くから絵のけいこをして有名な絵をたくさんのこした。三十七歳の若さで死ぬ。
ロレンスはイタリヤの北部にあり美術の中心地としてさかえた所。
レスデンはドイツのエルベ河のほとりにある都市。
リストはキリスト教をはじめた人、名はイエス、父はヨセフ、母はマリア、ユダヤ国に生れ西暦三十年頃凶敵のため十字架の上で殺された。

(ある画像)


ジウムは一八九八年キュリー夫人が発見した。元素の一つでその放射能は病気治療に用いる。
ューリー夫人はポーランド人で名はマリー、父は中学校の先生、ピエール・キューリーと結婚したので人々はキューリー夫人と言ふ。

(星の光り)


 カッコ書きしてあるのが、これらの固有名詞の出てくる教科書中の物語の表題と思われる。ラファエル(現在の表記では、ラファエロ)が描いたマドンナ(聖母)の絵に関する話が教科書にあったことは記憶しているが、それが「ある画像」という題名だったことや、正確ににはどういう題名の聖母の絵だったか、それについてどういうことが書かれていたかなどは全く覚えていない。フロレンス(フィレンツェ)とドレスデンの地名が出ていることから、「小椅子の聖母」(1513–14 頃、フィレンツェのピッティ宮殿パラティーナ美術館所蔵)と「システィーナの聖母(サン・シストの聖母)」(1513–14 頃、ドレスデンのアルテ・マイスター絵画館所蔵)という、最もよく知られている絵について書かれていたに違いない。そういえば、前者の写真が教科書にあったような記憶がある。

 次の「星の光り」はキューリー夫人(現在の表記では、キュリー夫人;上に引用の古い説明にも「キュリー夫人」が混在しているが)の伝記から取られた話であろう。これも内容は全く記憶していないが、題名から想像すれば、キュリー夫人による原子核からの放射線の発見が、その後の研究者たちによる、太陽などの恒星からの光の発生原因の解明にまでもつながったことにふれられていたのだろう。(文献 1 に戦後の国語教科書に取り上げられたキュリー夫人伝の教材名があるが、「星の光り」は見当たらない。)

 これらの他に、私が小学校 6 年生のときの教科書にあったことを記憶している文としては、「茶わんの湯」と「蘭学事始(らんがくことはじめ)」がある。前者は物理学者・随筆家の寺田寅彦が子ども向けに書いた科学随筆である。一杯の茶碗の湯の観察から、大規模な自然現象にもいたる、いろいろな「理科の話」が展開されているのが印象深かった。

 後者のオリジナルは杉田玄白の手記だが、教科書にあったのはこれに基づく菊池寛の同題名の作品の、第六話あたりだったのだろうか。オランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳する苦心談の部分で、「鼻とはフルヘッヘンドせしものなり」という言葉が記憶に残っている。そして、「先駆者としての苦闘は、やがて先駆者のみが知るよろこびでむくわれていた」という箇所から感銘を受けたと思う。

 当時の私は理科という科目を特に好んではいなかったが、これらの話が記憶に残っているということは、のちに物理学の道に進む素地が、この頃からあったのだろう。

文 献

  1. 幾田伸司, 戦後国語教科書に描かれた女性像:「キュリー夫人」を中心にして, 鳴門教育大学研究紀要 Vol. 22, p. 114 (2007).

2012年10月25日木曜日

来年に備えて (Preparing for Next Year)


 写真は、わが家の庭のハナミズキの木に生っている実を撮ったものだが、周囲には早くも来年の花のためのツボミがいくつも見える。(2012 年 10 月 21 日撮影。)

The photo, taken on October 21, 2012, shows fruits of the dogwood tree in our yard. Around the fruits, buds to bloom next year are already seen.

2012年10月23日火曜日

例年より遅い開花 (Flowering Later Than Usual)


 当地、大阪・堺のキンモクセイの開花は、例年よりも遅かった。この花は、サクラなどと違って、東北地方など涼しい地域で、ここより先に咲く。つまり、ある程度の気温の低下を待って、開花の植物機能スイッチが入るようだ。したがって、ことし開花が遅かったのは、夏が暑過ぎたせいかもしれない。写真はわが家の庭で、10 月 22 日撮影。

Flowering of sweet osmanthus here in Sakai, Osaka, was later than usual. Unlike cherry, this flower blooms earlier in cold areas such as Tohoku region than here. Namely, the switching function of this plant for flowering seems to work after a drop of temperature to some extent. So, the late flowering this year might be due to the fact that it was too hot this summer. The photo above was taken in our yard on October 22.

2012年10月22日月曜日

映画『チャイナ・シンドローム』の社会性 (Social Nature of the Film The China Syndrome)


『チャイナ・シンドローム』の DVD(ソニー・ピクチャーズエンタテインメント、2009;
イメージはアマゾンのウェブページから)。
DVD of the film The China Syndrome (Sony Pictures Entertainment, 2009;
the image has been taken from an amazon.co.jp Web page).

 さる10月16日、NHK BS プレミアムで放映された 1979 年のアメリカ映画『チャイナ・シンドローム』(ジェームズ・ブリッジス監督)を見た。福島第一原子力発電所の事故で、「チャイナ・シンドローム」という言葉を知る人は多くなったと思うが、炉心溶融という重大な原発事故を意味する。この事故がアメリカで発生すると、融けた原子炉燃料が地面を貫き、地球の中心を通り越して反対側の中国(地理上はアメリカの裏側は中国ではないが)まで突き抜けるというジョーク的な発想からこの名がある。

 ——人気キャスターのキンバリー・ウエルズ(ジェーン・フォンダ)は、原子力発電所の取材中、原子炉事故を目撃する。同行したカメラマン、リチャード・アダムス(マイケル・ダグラス)は、そのときの原子炉制御室の混乱ぶりの隠し撮りに成功し、二人は特ダネとして放送しようとする。しかし、彼らの計画は上から止められる。原子力規制委員会は、調査の結果、原発には問題なしと判断する。他方、原発の操作主任ジャック・ゴデル(ジャック・レモン)は、検査報告書がねつ造されていたことを見つける。ゴデルは、…——という筋の映画で、サスペンスものとされているが、この映画が公開された 1979 年 3 月 16 日からわずか 12 日後の 3 月 28 日に、ペンシルベニア州のスリーマイル島原子力発電所で、映画が予測したかのように、本当の原子力事故が起きた。原発の危険を訴えた社会派の映画と見ることがよりふさわしいのではないか。

 原発事故取材に対するテレビ局上層部からの放映阻止、原子力規制委員会の不十分な調査、炉操作主任の事故原因把握に対する発電所上層部からの隠匿工作、などなど、これらはまさに日本の原子力村の体質をえぐり出している。また、原子炉増設に対する住民の反対集会の中で、原子力発電が使用済み核燃料の処分対策の出来ていない不完全な技術であることが指摘される場面も描かれている。そして、この映画の公開から 32 年マイナス 5 日後に福島第一原子力発電所の事故が発生した。ゴデル役のジャック・レモンがカンヌ映画祭男優賞を受賞しているが、アカデミー各賞はノミネーションにとどまった。この映画に賞を出すことについて、アメリカの原子力業界に対する遠慮があったのではないだろうか。

 なお、原発に関わる問題を扱った映画には、1983 年のアメリカ映画『シルクウッド』(マイク・ニコルズ監督、メリル・ストリープ主演)もある。これは、アメリカの労働組合活動家カレン・シルクウッドが、原子力関連企業のカー・マギー社の核燃料製造プラントで行われていた安全規則違反と不正行為をめぐるスキャンダルの中、自動車事故で謎の死をとげた「シルクウッド事件」を取り上げたものである。こちらはアカデミー 5 賞を獲得している。

I watched the 1979 American film The China Syndrome (directed by James Bridges) aired on the NHK BS premium channel on October 16. Many Japanese people probably became familiar with the term "China Syndrome" because of the accident at Fukushima Daiichi nuclear power plant. The term means a serious nuclear accident of core meltdown. This name comes from the fanciful idea that, if such an accident would occur in the United States, reactor fuel that melted would penetrate through the center of the earth and go to China (though the true antipode of the United States is not China).

The plot of the film goes like this: During the interview at a nuclear power plant, the popular caster Kimberly Wells (Jane Fonda) witnesses the reactor accident. The photographer Richard Adams (Michael Douglas), who accompanied her, surreptitiously films the chaotic scene of the reactor control room. The two try to broadcast what they saw and filmed as a scoop. However, their plan is turned off from the top of the TV station. The Nuclear Regulatory Committee issues the result of the investigation that there is no problem about the reactor. On the other hand, Shift Supervisor Jack Godell (Jack Lemmon) uncovers the evidence that the inspection reports were falsified. Godel then … — The film is mentioned to be a thriller. However, the Three Mile Island nuclear accident actually happened in Pennsylvania on March 28, 1979, just 12 days after this film had been released, as if the film had predicted it. Isn't it more appropriate to regard this film as the one that asked the social problem of the danger of nuclear power plants?

Blocking of a nuclear accident report by the superior persons of the television station, inadequate investigation of the Nuclear Regulatory Commission, the electric company president's move to conceal the cause of the accident uncovered by the Shift Supervisor, etc; these are quite similar to the very characteristics of Japan's nuclear village. In addition, there are scenes of meetings against building another reactor, in one of which it is pointed out that nuclear reactor technology is imperfect because of the lack of measure for disposing spent nuclear fuel. Then, the accidents of Fukushima Daiichi nuclear power plant occurred after 32 years minus five days from the release of this film. Although Jack Lemmon won the Best Actor Award at the Cannes Film Festival for his performance as Godell, nominations only were made as for Academy awards. There might have been a refrain from issuing the award about this film by considering adverse effects on the nuclear industry in the United States.

By the way, there is another film that also dealt with an issue related to nuclear power plants, i.e., the 1983 American film Silkwood (directed by Mike Nichols, the leading actress, Meryl Streep). This film features life of Karen Silkwood, who was a labor union activist, raised concerns about corporate practices related to health and safety of workers in the nuclear facility Kerr-McGee Cimarron Fuel Fabrication Site plant and died in a car accident under mysterious circumstances. This film won five Academy Awards.

2012年10月21日日曜日

咲き納めのアサガオ (This Year's Last Flower of Morning Glory)



[…]窓際から青空を仰いでいて、ふと気づきました。もうアサガオが咲いていません。前日の朝、まだ赤紫の花を一輪だけ開いていました。どうやら、ことしの咲き納めだったようです。[…]

 上の文は、昨日付け『しんぶん赤旗』のコラム「潮流」に掲載されていたものである。けさ、たまたま、もう何日も咲かなかったわが家の遅咲きアサガオが一輪の花をつけた。盛期のようなリンとした姿ではなく、心なしか、冷気にいじけているような咲き方である。たぶん、これがわが家のことしの咲き納めのアサガオとなるだろう。ありがとう、アサガオさん。

[...] Looking up the blue sky from the window, I noticed that the morning glory was not blooming anymore. In the morning of the day before, a single flower of purplish red was there. That flower was probably the last one of this year. [...]

The above passage has been taken from the column "Chōryū" of The Akahata dated yesterday. This morning, the morning glory of a late-blooming species in our yard, which had not bloomed for many days, happened to have a flower. This flower is not in such excellent shape as the ones in the last month but seems to be trembling in the chill air. This might be the last flower of the morning glory in our yard this year. Thank you, our dear morning glory!

2012年10月19日金曜日

秋の歌声喫茶 IN ウェスティ (Autumnal Utagoe Coffeehouse in Westy)


 昨日午後、近くの堺市立西文化会館(ウェスティ)セミナールームで開催された「秋の歌声喫茶 IN ウェスティ」に参加した。出演は、司会と歌・一ノ瀬陽子、歌とアコーディオン・宮本由美、ピアノとアコーディオンと歌・喜多陵介。ウェスティでのこのグループによる歌声喫茶に私が参加するのは 3 回目である(過去 2 回のブログ記事はこちらこちら)。これまでのチラシに使われていた出演者グループの写真は古いものだったが、今回新しくなった(上掲のイメージ参照)。

 開会前に私は四つのリクェスト曲を、会場で貸し出される 2 冊の歌集から選んで提出した。「原爆を許すまじ」、「カチューシャ」、「里の秋」、「四季の歌」である。時節柄「里の秋」は採用になったのだったか、似たような曲を沢山歌ったので、記憶がはっきりしない。しかし、「原爆を許すまじ」が前回に続いて採用にならなかったことは残念に思った。

 今回は歌集の他に、永六輔・作詞、いずみたく・作曲の「ともだち」(かつて坂本九が歌い、いま、石巻で被災したクミコが歌っている)と岩井俊二・作詞、菅野よう子・作曲の「花は咲く」(NHK の東日本大震災被災地復興応援テーマソング)のプリントが配られていて、参加者一同はこれらの歌も、被災地復興の速やかな達成の願いを込めて歌った。

 次回の「歌声喫茶 IN ウェスティ」は、明年 1 月 29 日に予定されていて、前売り券はきょう発売の予定だったが、昨日の参加者には特別に先行販売されたので、買っておいた。

Yesterday afternoon, I joined the event Autumnal Utagoe Coffeehouse in Westy held at the seminar room of Nishi Culture Hall (Westy), Sakai. Performers were Yoko Ichinose (moderation and singing), Yumi Miyamoto (singing and playing an accordion) and Ryosuke Kita (singing and playing a piano and an accordion). My attending at the events by this group at Westy is the third time (blog posts about the previous occasions are given here and here). Photos used in the flyers of the previous events were old ones. However, they used new photos this time (see the image above).

Before the start of the event, I submitted the following four request songs chosen from the two titles of rental song books: Shiki no uta (Song of four seasons), Katyusha, Sato no aki (Fall of the village), Gembaku o yurusumaji (No more Atomic bombs). I do not remember clearly whether the timely song Sato no aki was adopted, because we sang a lot of similar songs. However, I was disappointed by that Gembaku o yurusumaji failed to be adopted by following the last time.

In addition to the rental song books, a sheet of paper on which two songs, Tomodachi (Friends) and Hana wa saku (Flowers bloom), were printed was distributed to the participants. These are songs related to reconstruction after the Great East Japan Earthquake. We sang these songs together by wishing rapid completion of the reconstruction.

The next performance of Utagoe Coffeehouse in Westy is scheduled to be held on January 29, 2013. The advance ticket sale was made for the participants of yesterday's event, and I bought one.

2012年10月18日木曜日

2012年9月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of September 2012)

[This post is in Japanese only.]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2012 年 9 月分への感想を 2012 年 10 月 16 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。




1.『母の遺産―新聞小説』

 筆者は水村のデビュー作『続明暗』以下、『私小説 from left to right』、『本格小説』、さらにその後出版された諸作品を愛読し、折にふれてブログに書評を掲載してきました(注)。本文に引用されている新聞記事 [3] と書評 [5] は、筆者の書評を補足するものであり、これらを併せ読むことをおすすめします。この書評は、水村作品全体を読み通した一読者としての、筆者の見解や感想が散りばめられており、作品を通して水村をよく知った筆者ならではの広い視点でまとめられた興味深いものです。また水村が、色々の実験として作品を創作してきたことが書かれ、新しい試みに大いに期待していると結ばれています。以下に筆者の書評の要点をまとめます。

 水村美苗著『母の遺産―新聞小説』を、最近毎日の読書時間の減っている私ではあるが、短時日で興味深く読了した。冒頭の章で母の遺産について電話で話し合う姉妹・奈津紀と美津紀は、水村の以前の作品『私小説 from left to right』に登場した姉妹のその後を思わせる。美津紀は一人称で描かれていてもよいほど、作者の経験と思いが込められた主人公である。読後に知った新聞記事 [3] によれば、水村自身この作品について、「[主人公は]12 歳でアメリカに渡らずに、千歳船橋[東京]の家に住み続けた、もう一人の自分(笑)。私のパラレルワールドですね」と語っている。主人公の母と祖母についても詳しく描かれていて、彼女たちは、水村美苗の母・水村節子による自伝的小説『高台にある家』の母とその娘に酷似しているようである。ある書評 [5] は、新聞小説のことを「著者が周到に埋め込んでいる重要な登場者」とまで書いている。
 この作品には、介護、終末医療、夫婦の気持の行き違いなど、多くの人びとが現在直面しているか将来抱えるかするであろう深刻な問題が扱われている。他方では、主人公夫婦のなれそめのロマンチックな場面や、美津紀を含めて誰が自殺してもおかしくない長逗留客たちが偶然集まった湖畔のホテルでの日々のミステリー的な挿話もあり、読者の興味を硬軟両面から引きつけ続けて止まない。
 文豪・漱石の未完の作品の続編、私小説、本格小説と、いろいろな実験を重ねて、つねに著名な賞を得るほどに成功して来た作者によるこの「新聞小説」も、憎らしいほど優れた出来栄えである。なお、上記の新聞記事には水村が、「次は、どうすれば翻訳によって失われるものが少ないかを理論的に考えた "翻訳可能小説" を書いてみたい。でも最終的には、構造も何もないものを、と[思っている]。やっぱり、そこに日本の小説のいい部分がありますから」と、新しい実験についてほのめかしている。次の作品は『翻訳可能小説』か、はたまた『無構造小説』か。いずれにしても、また大いに期待される。


2.「尖閣」列島問題

 概要が日本語で本文が英文なので、英文に詳しく書かれている、研究交流を長年続けて来た北京在住の C 夫人との文通の一部を紹介し、全体のコメントを記します。北京の 60 年来の大雨見舞いのメールへの返事の追伸に、「尖閣諸島は中国の領土であり何人も侵入することは許されない」とあり、これに対し筆者が返したコメントに念を押すかたちで、C 夫人は中国の新聞記事を添え、「釣魚諸島は明帝国時代に中国により発見、命名、使用され、中国の領土に編成された。日清戦争の終わりに、日本は不法手段で占拠した。しかしながら、第二次世界大戦のカイロやポツダム宣言に従い、これらの島は法的に中国に返還された。日本の尖閣諸島に対する行為は、反ファシスト戦争の勝利を否定するものであり、戦後の国際秩序への重大な挑戦である」と、9月12日付けで書き寄せています。この見解は、楊中国外相が 9 月 27 日に行った国連総会演説の内容と同じ認識に基づくものであり、国民が一枚岩のように結束していることが分ります。

 16 日から始まった反日デモの前に、一市民から得られた情報として貴重なものでした。あのように暴徒化したデモも、すぐには収束させることが出来なかったことにも合点が行きました。これに対して、日本政府は、「尖閣諸島はわが国固有のものであり、領土権の問題は存在しない」([1] が参考になる)と一貫して通し、第三国に尖閣諸島問題を積極的に説明してきませんでしたが、中国の攻勢に対抗するために、尖閣の正当性を積極発信するよう方針を転換しました。これだけの読みでは、最近行われた日中の外務次官級協議は平行線のままだったのが現状です。反日デモが起こる前に、中国の一知識人と意見を交し、調査を加え両国間の係争問題を解決する方法について考察した、筆者のこの英文意見書の発信は、時宜を得た立派な行為だと思いました。

[1] 中西輝政, 尖閣問題丹羽大使の妄言を糾す, 文芸春秋 (2012年8月号).

2012年10月17日水曜日

上京 3 (Going to Tokyo -3-)


創建当時へ復元された東京駅丸の内駅舎。
Tokyo Station, Marunouchi frontage, restored to the appearance
at the original construction.


東京駅丸の内南口内部(正面上部とドーム)。
The interior (the upper front part and the dome) of Marunouchi South Exit
of Tokyo Station.


東京駅丸の内南口コンコース上部に映し出されている新旧駅舎のイラストレーション。
下が今回の改修以前。
Illustrations, projected on the upper concourse of Marunouchi South Exit,
of new and old Marunouchi frontages of Tokyo Station.
The bottom strip shows the appearance before renovation.


 東京駅丸の内駅舎は、5 年 4 カ月にわたる復元工事が完了して、さる 10 月 1 日、1914 年の創建当時の姿がよみがえった。東京を去る日、その駅舎の姿を、全体がよく見える丸の内ビルディング 2 階から撮影したいと思った。しかし、時間が早過ぎて、上階はまだ開店していなかった。やむなく、地上で撮影したのが 1枚目の写真である。新旧駅舎のイラストレーションは、もう一つ古い姿のセピア色の映像も加えて、同じ場所に代わる代わる映されているのだが、セピア色のものは撮り忘れた。今回の改修以前のイメージの方が、後方に邪魔な高層ビルがなくて、すっきりと美しく見えるのは皮肉なことである。(完)

After the work of five years and four months, the Marunouchi frontage of Tokyo Stationon was restored, on October 1, to the original appearance in 1914. On the day of leaving Tokyo, I wanted to take a photo of the entire view of the frontage from the second floor of Marunouchi Building. However, I went there so early that the floor was being closed yet, and I took a photo on the ground just in front of the station, as sown in the first picture. As for illustrations of the old and new station buildings, there was one more in sepia, and those were projected one after the other. I forgot to take a picture of the sepia one. It is ironic that the image of the station building before renovation looks more attractive because of the fact that there were no high buildings behind it. (End)

2012年10月15日月曜日

上京 2 (Going to Tokyo -2-)

[Abstract] The reunion of Dalian Reizen Elementary School was held in the Garden Tower building (the high building at the right in the first photo below) of the Hotel New Otani. Number of participants was a little more than 180. Two sheets of papers on which Tadachika Matsumoto's illustrations related to Dalian had been printed were given to the participants (part of the illustrations about our school is reproduced in the second photo below). All of us sang together some songs related to Northeast China as well as the song of our school "Reizen March." (Main text is given in Japanese only.)


 大連嶺前小学校同窓会第 17 回総会が開催されたのは、ホテルニューオータニの鳳凰の間である。同ホテルの建物は、ザ・メイン、ガーデンタワー、ガーデンコートと三つに別れていて、鳳凰の間はガーデンタワー(上の写真の中央の建物)の 5 階にある。受付を済ませたあと、その階の廊下から出られる屋上日本庭園を歩いてみたが、間もなく小雨が降り出し、写真は撮らなかった。

 総会は、1936 年卒から 52 年卒[注]までの 180 余名の参加者が 26 の円形テーブルについて、正午から始まる。私たち 48 年卒は、私を入れて 12 名(うち女子 5 名)が参加した。もう 1 名 M・H 君の名がプログラムの出席者名簿欄にあるものの、出席回答後に亡くなったそうだ。血液透析療法を続けながらも、毎回元気に参加していたのに、残念なことである。

注:同窓会では昭和の年が使用されているが、ここでは西暦に換算した。引き揚げ開始を前にした 46 年秋に廃校となったので、実際に卒業した同窓生は 46 年卒までで、その後の「卒」は「卒業予定」を意味する。


 参加者には会のプログラムのほか、49 年卒・松本忠親氏作成の「好朋友:大連版」(カット集)と「大連市電唱歌:老虎灘街道篇」(絵入り)の 2 枚の刷り物(いずれも A3 サイズ)も配布された。上掲のイメージは、「大連市電唱歌」中の母校に関わる絵をコピーしたものである。

 会の後半にはアトラクションがあり、その一番目は、どこかの大学の OB からなる合唱団の出演。プログラムに「情熱的なバンドネオンの響きにのせて、焼け跡で胸ときめいたあの歌と青春の日々をアゲイン」とある中の「アゲイン」が合唱団名か。

 アトラクションの二番目では、36 年卒 E・N さんのピアノに合わせて、プログラムの最終ページに刷られている「懐かしの満州唱歌・他」を全員で歌った。その部分の司会を務めた女性(副会長で 45 年卒の Y・S さんか)は、一つの歌の一番毎に歌のリーダーを求めてマイクを持ち歩いた。「(満州育ちの)わたしたち」、「こな雪」、「ペチカ」、「たかあしをどり」と歌い進んで、「待ちぼうけ」に移るとき、私の右隣にいた M・K 君が勢いよく手を挙げた。それで、その歌の二番のマイクは私へ回って来た。メロディーをよく知っている歌でよかった。そのプログラムの最後の歌は「今日の日はさようなら」。私の知らなかった歌だが、皆について歌えば歌える。

 次のプログラムは、これも全員による嶺前行進歌斉唱。その歌詞は冒頭部分が上掲のイラストにあるように、「春巒(らん)山の彩霞(あやがすみ)/平和の里に棚引けば」で始まる。二番の歌詞に「浴の人」という言葉がある。老虎灘付近の海で泳いでいる人を表しているが、「浴」を「ゆあみ」と読める卒業生が少ないのか、あるいは、「ゆあみ」といえば温泉に入るようで変だと、ふと思うのか、そこだけ全体の声が小さくなった。

 閉会のことばのあと、卒業年次毎に舞台上で記念写真を撮ってから散会した。48 年卒の有志 7 名は箱根への一泊旅行に向ったが、私は不参加。

2012年10月13日土曜日

上京 1 (Going to Tokyo -1-)



 さる 10 月 10 日、翌日東京で開催される大連嶺前小学校同窓会総会に参加するために上京した。途中、昨年死去した幼友だち Y・A さんの長姉 K・T さん宅を横浜に訪ねた。「Y・A さんとの交流記:文通編」(B5 サイズ 28 ページにプリントしたもの)を差し上げ、思い出話にふけるうちに、2 時間半ほどがたちまち過ぎた。

 同窓会当日は、受付開始時間よりもかなり早く会場のホテルニューオータニ(千代田区紀尾井町)付近へ行き、清水谷公園を散策した。園内には、都心にいることを忘れさせるような木々の間の坂道、この辺りで暗殺された武士・政治家、大久保利通(1830〜1878 年)の哀悼碑、江戸時代に使われていた玉川上水の石枡(水道の幹線から分水する目的で設けられた設備)、茶会に使われる小さな建物「偕香苑」(それぞれ上掲の写真参照)などがある。これらの間をめぐりながら、くつろいだ朝のひとときを過ごした。

On October 10, I went to Tokyo to attend the reunion of Dalian Reizen Elementary School to be held the next day. On my way there, I dropped at K.T's house in Yokohama (K.T is the oldest sister of a childhood friend of mine, Y.A). I gave her "Letters from Y.A" (28 printed pages of B5-size sheets), and talked with her about reminiscences for two hours and a half, which went by pretty quickly.

On October 11, I went quite early near the venue of the reunion, Hotel New Ōtani (Kioi-cho, Chiyoda) and took a walk in Shimizudani Park. The photos above were taken there. Top, a slope between lines of trees such that makes us forget to be in the downtown; second, the monument for the samurai and statesman Toshimichi Okubo (1830-1878), who had been assassinated around here; third, stone boxes, for the purposes of distributing water, of Tamagawa Aqueduct used in Edo Period; and bottom, the hut Kaikōen for tea ceremony. Walking around these, I spent a relaxing moment of the morning.

2012年10月8日月曜日

戦後間もない頃の「商店調べ」 ("Investigation of Shops" Soon after the World War II)


[Abstract] I have kept the record, "Investigation of shops," we made in 1947. At that time, I was in the sixth grade of elementary school in Kanazawa. All the members of our class went out from the school in four groups and counted the numbers of different kinds of shops along four streets. Those days, there were many small shops for each of fishes, vegetables and hardware in an area within the distance less than ten-minute's walk from the school. However, most of those shops were recently replaced by a small number of relatively large stores, causing inconvenience to elderly and handicapped people, not only in this part of Kanazawa but also in many areas of Japan. This is similar to "supermarket shortage" in many American urban neighborhoods. However, in Japan, the disappearance of traditional small shops is probably one of key factors to produce kaimono nanmin (shopping refugees). (Main text is given in Japanese only.)

 戦後まだ間もない 1947 年、私が小学校 6 年生のときの、いろいろな教科目のノートから、自分の好んだ箇所を B6 サイズのメモ用紙(当時としてはかなり上質)26 ページばかりに書き写したものが保存してあった。中学生になる前の春休みにでも作ったのだろうか。先に紹介した詩もその中の約 1 ページ分である。最近、ニュートンが「記録魔」だったということを読んだ(文献 1)が、私も、ニュートンにはとても及ばない程度には、「記録魔」的なところがあったようである。今回はその保存されていた記録のうち、社会科のノートから書き写してあった「商店調べ」を紹介する。金沢市の小立野にあった旧・石引町小学校(現在は、場所を変えて、他の一校と統合され、小立野小学校となっている)の付近の四つの街筋における商店の種類別の数を、クラス全員(8 班に別れていたので 2 班ずつが組んだのだろう)で手分けして調べ、その結果を総合したもののようである。

 上掲のイメージは、「商店調べ」の 1 ページ目で、右端には、先に紹介した詩の 2 編目の末尾がある。そこでは「ほほえんで」が「ほおえんで」、「とおり」が「とほり」と、仮名づかいの混乱が見られる。新仮名づかいに移行したばかりの頃だったので、「微笑んで」では「頬」が「ほほ」から「ほお」に変わったことと混同し、「通り」では旧仮名づかいがうっかり出たのだろう。

社会科 商店調べ

  • 小立野新町は百二軒調べたうちで:金物屋 6、古物屋 5、雑貨屋 4 が一番多く、材木屋、魚屋、洋服屋、自転車屋が各 3。
  • 上石引町九十一軒調べたうち:飲食点 7、雑貨屋 5、病院 5 が多く、次いで床屋、菓子屋の 4、魚屋、八百屋、金物屋、薬局、時計屋、洋服屋、自転車屋、下駄屋、花屋が 3。
  • 大学前(注 1)の通り四十七軒のうち:宿屋アパート(注 2)5 が多い。氷屋、運送屋各 2。
  • 中石引町(注 3)は九十八軒のうち:魚屋 6、自転車、八百屋、薬局各 4、飲食店、菓子屋、雑貨屋、下駄屋、靴屋、紙屋、本屋等が各 3。

 全体に見て飲食店が一番多く 14、二番は魚屋、金物屋、雑貨店の12、次は八百屋、自転車屋の 10、薬局の 9 が多い。また、新鮮を尊ぶ魚屋、八百屋は昼近くから午後にかけて日の当たらない道路の西側に多い事がわかった。

引用時の注

  1. 「大学」は、旧・金沢医科大学とその付属病院を意味していた。現在は金沢大学医学部とその付属病院になっている。

  2. 両者をひとまとめにしたのか、間に句点はない。いまの感覚では、アパートを商店に入れるのはいささか妙にも思われる。

  3. この町と二番目にある上石引町が旧・電車通りに面していて、後者がその末端部だっただろうか。後に、町名が下、中、上石引町、そして、その先につながる小立野新町までも合わせて「石引」に統一されたと思う。兼六園の南端を出たところから、南東へ向って真っすぐに約 1.5 km 伸びている街筋である。いまは、さらにその先までバスが走っている。三番目の「大学前の通り」は、上石引町の旧・電車終点「大学前」から、電車通りに直角に北東へ約 150 m 伸びている道を指す。

  4. この調査対象の町は、いずれもその遠い方の端まで、学校から徒歩で 5〜10 分以内で行ける範囲にある。昔は狭い範囲にずいぶん多くの小商店があったのである。このときの私たちのクラスの担任の先生は、現在も旧・小立野新町に住んでおられ、先年訪ねた折に、買い物が不便になったと聞いた。金沢のこの辺りは、古くから住宅地が広がっているところだが、ここでもいま、他の都市と同様に、高齢者や障害者が「買い物難民」化する状態になっているのである。(『ウィキペディア』日本語版の「買い物難民」のページにリンクされている英語版のページは "Supermarket shortage" であるが、日本の場合は従来型商店の消滅の影響も大きく、かなり異なるように思われる。)


文 献

  1. 米沢富美子, 人物で語る物理入門(上)(岩波, 2005) p. 44.

2012年10月6日土曜日

芭蕉の「古池や」の蛙の数 (The Number of Frogs in Bashō's Haiku Poem "Furuike Ya")


[Abstract] The haiku poet Toshinori Tsubouchi writes an essay entitled "Bashō after 400 years" in Tosho No. 764, p. 13 (2012) (In Japanese). In this essay, he suggests that Bashō's famous haiku "Furuike ya" might better be interpreted to have depicted a plural number of frogs instead of a single one in the standard understanding based on Bashō's ideal world of wabi and sabi. Here, his reasoning behind this interpretation is introduced, and some English translations of that haiku poem are quoted. A reminiscence in my senior high school days about a transliteration of the haiku poem is also described. (Main text is given in Japanese only.)

 皆さんは芭蕉の句「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」(1686 年頃の作)の蛙は何匹だと想像するだろうか。

 一つ前のブログ記事で紹介した『図書』誌10月号の筒井泉氏のエッセイに続いて、俳人・坪内稔典氏の文「四百年後の芭蕉」[1] がある。氏は、「芭蕉の句のカエルは一匹、句が言わんとするのはわび・さびの世界」という定説が「そろそろ破られてもいいのではないか」として、文頭に次の意訳を掲げている。

 あっ、古池! ほう、蛙がさかんに飛び込む水音がするなあ(ここにも春が来ている!)

 高浜虚子は 1955 年に『朝日新聞』紙上で、古池の句が春の「天地躍動の様」[2]、「陽春の句」「活動の世界を描いた」[3] ものと述べたという。しかし、わび・さびの世界を理想とした作者・芭蕉に即して俳句を読む読み方が一般化しているせいで、虚子の読み方が広がらないのだろう、と坪内氏は推定する。

 坪内氏は次いで以下のことを述べている。俳文学者・復本一郎は、その著書 [4] 中に幾人かの蛙複数説を紹介している。その中には、ラフカディオ・ハーンの frogs とした英訳や、江戸時代の俳人・里紅の「古池へどぶりどぶりと蛙の飛び込むさま」という説明がある。他方、復本自身は、残存する芭蕉の自画賛(自分の句に自分の絵を添えたもの)二点に一匹の蛙が描かれていることを理由として、蛙は一匹と説いている。

 復本説に対して、坪内氏は作者に寄り添いすぎた見方と批判し、「作者に寄り添わないことが俳句の文学性」と主張する。また、古池の句ができた直後頃に、芭蕉の仲間たちが「蛙合(かわずあわせ)」という俳句の二十番勝負をしており(一番勝負は古池の句と仙化の「いたいけに蝦つくばふ浮葉哉(かな)」で、引き分け)、そこに現れる蛙の様子自体が蛙合、すなわち蛙パーティーであり、古池の句にも蛙パーティーを楽しむ気分があるのではないか、と述べる。そして、「そのように読む時、芭蕉が新しく蘇るだろう」と締めくくっている。

 ハーンの英訳がどういうものか知りたいと思ってウェブ検索をしたところ、いくつかの有名な俳句の英訳を集めたサイトがあった [5]。古池の句に対するものを、以下に引用しておく。いろいろな訳し方があるのが興味深い。定説の影響によるのか、frog を複数形にしている訳はハーンのもの以外にはない。

Masaoka Shiki: The old mere! A frog jumping in. The sound of water.
Nitobe Inazō: An old pond. A frog jumps in. A splash of water.
Daisetz Teitaro Suzuki: The old pond, ah! A frog jumps in: The water's sound.
Lafcadio Hearn: Old pond. Frogs jumped in. Sound of water.
Basil Hall Chamberlain: The old pond, Aye! and the sound of a frog leaping into the water.
Donald Keene: The ancient pond. A frog leaps in. The sound of the water.
Reginald Horace Blyth: The old pond. A frog jumps in. Plop!


 余談になるが、私が高校1 年生のとき、ある友人が "Fully care car was to become me zoo note." と書いた紙切れを私に見せて、何のことか分かるかと聞いた。私が古池の句のあやしげな音訳と分かったのだったかどうかは忘れた。少しあとで、同じクイズを別の高校へ行っていた親友の M 君に私から出題しようと思って、紙片に "Fully care car was to become" までを書いたが、あとがすっとは出て来ない。それもそのはず、そのとき私の頭の中では、古池の句の最後の五モーラが「池の音」に化けていたのである。そこで、辞書で見つけた単語を交えて、 "eek way note" というのをくっつけた。

 そしてそれを、ある友だちから聞かれた問題だがといって M 君に出題すると、「Eek とは何のことだい?」と聞かれた。自分の改作のところを尋ねられてひやりとしたが、辞書で覚えたばかりの「(俗語で)顔」という意味を、平然さをよそおって答えたかと思う。そこで、彼が古池の句の音訳と当てたのか、彼が降参して私が答えをいったのかは、これも忘れたが、次に、M 君は最後の「水の音」のところが変だと指摘した。私はそのときようやく自分の思い違いに気づき、もとの出題の変な改作と合わせて、大いに恥じ入ったのだった。

文 献

  1. 坪内稔典, 四百年後の芭蕉, 『図書』No. 764, p. 13 (2012).
  2. 高浜虚子, 『虚子俳話』(新潮社, 1963) の中; 初出『朝日新聞』(1955年6月5日).
  3. 高浜虚子, 『朝日新聞』(1955年6月19日).
  4. 復本一郎, 『芭蕉古池伝説』(大修館, 1988).
  5. 俳句を英語にすると, ちょんまげ英語塾.

2012年10月4日木曜日

漱石著『吾輩は猫である』中の「首縊りの力学」("The Mechanics of Hanging" in Soseki's I Am a Cat)


[Abstract] In Natsume Sōseki's satirical novel I Am a Cat (1905–1906), the character Kangetsu Mizushima, modeled on the physicist Torahiko Terada, talks about "The mechanics of hanging." The source of this mechanical and physiological study is known to have been taken from an academic paper published by the Irish scientist Samuel Haughton (1821–1897). Izumi Tsutsui, a physicist at High Energy Accelerator Research Organization (KEK), thinks that neither Sōseki nor Terada, who introduced Haughton's paper to Sōseki, might have known about Haughton and writes an essay on him in the magazine Tosho No. 764, p. 6 (2012). The essay describes the man and work of Haughton as well as the background and the social impact of his paper on hanging. Izumi also writes about Sōseki's fondness of other persons related to Ireland, namely, the researcher of Shakespeare, William James Craig, and Patrick Lafcadio Hearn. (Main text is given in Japanese only.)

 漱石の諷刺小説『吾輩は猫である』に出てくる「首縊(くく)りの力学」を覚えている人は多いだろう。この挿話は、比較的早く全十話中の第三話に出てくる。水島寒月が理学協会で演説する予定の話であり、迷亭が寒月に「吾輩」の住む珍野苦沙弥の家で稽古のために語らせた形で、演説内容が紹介されている。この話の材料となった論文が、サミュエル・ホートン (Samuel Haughton, 1821–1897) [1] の「力学的、生理学的な観点から見た絞首刑について」[2] であることは、寺田寅彦や中谷宇吉郎が随筆に書いているそうだが、『図書』の近着号に筒井泉氏(高エネルギー加速器研究機構・物理学)がホートンについて詳しく紹介している [3]。

 筒井氏は「漱石はもとより、おそらく寅彦も著者ホートンが何者かを知らなかったのではなかろうか」と前置きしている。そして、まず、漱石がこの論文を読んだ時期を、1905(明治 38)年 1 月末から 2 月の間と推定している。聖職位を持つアイルランドの科学者・ホートンの経歴については、文献 1 にもあるので、ここでは筒井氏の記述を詳しくは紹介しないが、ダーウィンの進化論を自然神学の立場から批判した学者の一人であった。そのような学者の中でも、ホートンの特異なところは、生物の理解に物理学的視点を導入し、機能を最適化するように生物の形態が定まるとする「最小作用の原理」を提唱したことであったという。そのような考えの下に彼が行なった動物形態学研究の集大成として、ホートンは『動物力学の原理』を著しており、「首縊りの力学」は、その副産物であった、と筒井氏は解き明かしている。

 筒井氏はホートンの「首縊りの力学」の論文についても、次のように解説している。この論文は大きく三つの部分からなり、第一はオデュッセイアの絞首刑の力学的検討、第二は近代英国における絞首刑実施方法の問題点の考察、第三は米国における方法に対する考察である。漱石が『猫』に組み込んだのは第二の部分の途中までだが、後の二つの部分がホートンの論文の主眼であるとのことだ。続いて、処刑者を長時間苦しませないために、ホートンが標準落下法 (the "Standard Drop" method) を定め、これが英米で広く用いられたことが述べられている。

 ホートンはアイルランド人特有の情緒性のある、いわば文学的奇矯さを持つ学者だったようであり、寅彦や漱石はそのような面に惹かれたのだ、と筒井氏は指摘する。このことから、漱石の共鳴する対象にはアイルランドつながりが多いことに話が及び、漱石とシエイクスピア学者クレイグとの交流や、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)との関係が語られる。深い蘊蓄に基づいた楽しいエッセイである。

文 献
  1. Samuel Haughton, Wikipedia, the free encyclopedia (August 4, 2012, at 06:17).(ここでは、ホートンは scientific writer となっているが、筒井氏の書いている「科学者」の方が正しいであろう。)
  2. Samuel Haughton, "On hanging considered from a mechanical and physiological point of view." The London, Edinburgh and Dublin Philosophical Magazine and Journal of Science, Vol. 32, No. 213 (July 1866).
  3. 筒井泉, 漱石の『猫』とホートン, 図書 No. 764, p. 6 (2012).

2012年10月2日火曜日

中秋の名月に代えて (In Place of Harvest Moon)


 旧暦 8 月 15 日は十五夜。この日の月は「中秋の名月」として、月見をするのがならわしである。今年の中秋の名月は 9 月 30 日で、昨年に続いて満月当日となった(文献 1)。当地では当日午後、台風 17 号の暴風圏の西端が通過し、風雨とも夕方には止んだものの、あいにくの曇り空で、名月を拝めなかった。上掲の写真は、そうなることを予想して予め撮影しておいた十三夜の月。

文 献

  1. 中秋の名月, ステラナビゲータ (2012年9月30日).


The celebration of the full moon, called tsukimi (moon-viewing) for chūshū-no-meigetsu (the bright full moon in mid-autumn), takes place on the 15th day of the eighth month of the traditional Japanese lunisolar calendar (the corresponding English phrase the harvest moon is defined as the full moon that appears nearest to the autumnal equinox; see Ref. 1e). It was the day of this celebration on September 30 this year. In the afternoon of that day, the western end of typhoon Jelawat's storm zone passed here. Though it stopped to be windy and rainy in the evening, it was still cloudy, preventing us from viewing the moon. The photo above is the one I took on September 28 in anticipation of the effect of the typhoon.

Reference

  1. Everything you need to know: Harvest Moon 2012, EarthSky (September 29, 2012).