2008年10月27日月曜日

理論物理学者の3つのモード (2)

 以下は、昨日掲載の10月24日づけのものに続いて、10月26日づけで「湯川秀樹を研究する市民の会」会員へ送ったグループメールのコピーである。


 皆さん、お早うございます。

 私が先のメールに書いた疑問・質問に、かなりの程度自分で答えることになりますが、南部さんの「理論物理学者の3つのモード」について、以下のことが分かりました。

 南部さんのモード論は、1985年の中間子論50年京都国際シンポジウムでの講演 "Directions of Particle Physics" に始まったようです。私はその講演を聞いて、鋭い分析だと感服したのですが、内容をすっかり忘れていました。そのときは、湯川モードとディラック・モードの2つが対比されていただけです。湯川モードも、bottom up という簡単な表現を与えられてはいなくて、次のように説明されています。

The Yukawa mode is the pragmatical one of trying to divine what underlies physical phenomena by attentively observing them, using available theoretical concepts and tools at hand. This also includes the building and testing of theories and models. It is the standard way of doing research in all branches of science.

 これならば、とくに疑問は湧きません。(私は divine という単語を「神の、神性の」という形容詞としてしか知りませんでしたが、上に引用した文では、「発見する、推測する」という意味の動詞として使われています。)

 ディラック・モードの説明は次の通りです。

The other mode, the Dirac mode, is to invent, so to speak, a new mathematical concept or framework first, and then try to find its relevance in the real world, with the expectation that (in a distorted paraphrasing of Dirac) a mathematically beautiful idea must have been adopted by God.

 そして、まれな場合にはこれらの2つのモードは1つになるとして、アインシュタインの重力理論(一般相対性理論)やディラック方程式を例に挙げています。つまり、1人の理論物理学者に1つのモードが固定的に対応するものでないばかりか、モードの混合もあり得るという考えです。これで、私の疑問はほぼ解けます。

 南部さんのこのモード論は、Michio Kaku and Jennifer Thompson, "Beyond Einstein" (Oxford University Press, 1997; first edition, 1987 by Bantam) p. 84 に紹介されています。そこでは、南部さんの講演と異なって、アインシュタインの重力理論はディラック・モードとなっています。さらに、1985年の南部さんの65歳の誕生日にあたって、同僚たちが功績を讃えて「南部モード」を作り出したが、それは、2つのモードの長所を合わせたものだ、と述べられています。私のもう1つの疑問にも、答えがすでにあったことになります。

 上記の本も私は読んでいながら、忘れていました。Einsein Yukawa Dirac Nambu を並べたグーグル検索で同書の上記ページが出て来て、そこにあった1985年という言葉から、もとは中間子論50年シンポでの講演と推測できた次第です。

 ところで、南部さんがいつから3モードへの転換をしたかという、新しい疑問が生じます。グーグル検索で、"Yukawa-Tomonaga Centennial Symposium: Progress in Modern Physics" (2006年12月11〜13日)での南部さんの講演記録 "The legacies of Yukawa and Tomonaga" も出て来ました。(http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~yt100sym/files/yt100sym_nambu_text.pdf

 しかし、そこではすでに、3モードが以前発表したことを引く形式で言及されていて、"Heisenberg, Einstein, and Dirac modes" と3分類され(1999年の講演をまとめた小冊子ですでに3モードだったのですから、当然です)、湯川の中間子論は H mode と述べられています。ハイゼンベルクは核力の理論に成功しなかったのですから、「湯川の中間子論は H mode」というのは変なようにも聞こえますが、先にも書きましたように、1人の理論物理学者に1つのモードが固定的に対応するという考えではないのですから、ハイゼンベルクの代表的な仕事を H mode と呼ぶとき、彼の核力の仕事は、それに成りきっていなかったということでしょう。


 上掲のメールに対して、会員のMさんから、同じく10月26日づけで返信があった。南部さんは、『日経サイエンス』2007年5月号、湯川秀樹生誕100年特集の「湯川と朝永から受け継がれたもの」とうい文の中で「3つの研究アプローチの事例」として、湯川型 (Y)、アインシュタイン型 (E)、ディラック型 (D) のアプローチを挙げ、各アプローチについて例を述べて解説していること、また、素粒子理論の70年の歴史の中で、ここ30年間については、素粒子の理論家のタイプはYからEへ、そしてDへと移りつつあり、中間子論から、くりこみ理論を経てゲージ理論へ、さらには超ひも理論へと続く流れを振り返ると、YとEによる到達点が標準モデルであり、そしていま、Dの時代に入ったとみることができると述べていることを紹介していた。以下は、それに対する、きょう、10月27日づけの私の返信である。


 私も『日経サイエンス』のその号を買っていましたが、南部さんの文のあったことを忘れていました。(このところ、忘れていた話ばかりです。)その文は、私が昨日紹介しました英語講演 "The legacies of Yukawa and Tomonaga" をもとにして、加筆されたものと思われます。筋書きは同じですが、「湯川と朝永から受け継がれたもの」の方が少し詳しくなっています。前者では、もともと「湯川型」だったものが「ハイゼンベルク型」になっていましたが、後者では、「湯川型」に戻っているのですね。

2008年10月26日日曜日

理論物理学者の3つのモード (1)

 以下は、10月24日づけで「湯川秀樹を研究する市民の会」会員へ送ったグループメールのコピーである。

____________________

 皆さん、今晩は。

 先日、ジュンク堂書店大阪本店で、「ノーベル賞受賞」との広告もなく棚にひっそりと並んでいた南部さんの小さな本を見つけて買いました。『素粒子物理学の100年』高等研選書 8(国際高等研究所、2000年)50ページ、税込み 500円。(http://www.copymart.co.jp/wcc/iiasap/sen_frame.html からオンライン版も購入できます。税込み 299円。)

 1999年11月に行われた国際高等研究所フェロー公開講演会の話をもとに、著者が加筆したもので、やさしい内容です。誤植が沢山ありますが、内容の理解に影響するほどではありません。後半26ページからの、素粒子論の指導原理の説明や、「物理学はいくつかの段階を経て発展する」(武谷の「3段階論」の紹介)と「理論家としての3つの研究方法」の節は興味深いものがあります。巻末の年表も私たちの研究に役立ちそうです。

 ここでは、湯川の名の出てくる「理論家としての3つの研究方法」の節を簡単に紹介します。著者は、自らの観察に基づいて、理論物理学者には人によって3つの異なった研究方法または態度が見られると述べ、それを3つのモードと呼んでいます。各モードの名前は、「アインシュタイン型」「湯川型」「ディラック型」です。これらについて合わせて、約3ページの説明がありますが、「湯川型」については、約1ページ半と、最も多くのスペースをさいています。

 「アインシュタイン型」は、まず自然の従う原理についての仮定を立て、それに基づいて理論を創る、いわば上から下へ(top down)の立場です。

 「湯川型」は、これとは逆で、「新しい現象の背後には、深い理由は別にして、何か新しい場や粒子がある」という作業仮定から出発する、下から上へ(bottom up)の立場です。

 「ディラック型」は「天下り型」ともいえるもので、「数学的に美しい理論は真である」とする立場です。

 南部さんは、「ヨーロッパの学者たちが既知の電子、陽子、中性子以外の粒子を仮定するよりも、新しい現象は新しい理論、恐らく量子力学に代わるもの、で説明すべきだという先入観をもっていたときに、湯川は完成された量子力学をそのまま受け入れ、その帰結をあくまで追求する立場を取った。すると、核力のような新しい力の場には新しい量子が付随していなければならないことになる」旨、述べています。

 「湯川型」の定義に照らせば、これは確かに bottom up の立場ですが、量子力学あるいは場の量子論を「自然の従う原理」とみなした(湯川自身がそれを新しく考え出して仮定したのではありませんが)と考えれば、top down の立場と見ることもできるように思われます。当時のヨーロッパの学者たちの方が、新しい現象という bottom から、それを支配する top の理論を構築しようとしたという意味で、bottom up の立場ともいえます。

 また、アインシュタインにも、「数学的に美しい理論は真である」とする考え方がいくらかあったように思われます。こう考えると、南部さんの3つのモードは、必ずしも、すっきり割り切れないような気がします。また、南部さん自身は、何型なのでしょうか。皆さんは、いかがお考えでしょうか。

2008年10月9日木曜日

2008年ノーベル物理学賞への湯川博士の影響

 2008年ノーベル物理学賞についてのテレビのニュースで、南部さんが、湯川秀樹博士の影響で素粒子の研究を始めた旨を語っているところがあった。益川さんは坂田昌一博士に惹かれて素粒子論に進んだそうだが、坂田博士は湯川博士の高弟というべき人だから、こちらにも湯川博士が間接的ながら影響している。

 また、きょう10月9日づけ朝日新聞朝刊の「ノーベル物理学賞の3氏に聞く」という記事中では、九後太一・京大教授が「益川先生たちは、当時,全然信用されていなかった場の理論の精密な論理を適用した。これは朝永流だ。さらに、クォークは6種類あるという大胆な予言をした。これは湯川先生の伝統を受け継ぐ」と、小林・益川理論について、専門家らしい意見を述べている。

 上記の記事中には、南部さんの言葉として「私が学生のころ、湯川秀樹博士が予言したパイ中間子が実際に発見され、博士の名は世界的に有名になった。それをきっかけに、私も物理学をやっていこうと思った」とある。しかし、南部さんは1920年生まれだから、パイ中間子が発見された1948年には28歳で、「学生のころ」ではない。1937年にミュー中間子が発見されて、湯川博士が世界的に有名になり始めたことに影響されたはずである。

 私が最近新聞記者から取材された経験によれば、新聞記者とは、自分の思い込みで記事中に被取材者が読めば冷や汗をかくような間違いをいくつも書く人種である。南部さんの話の上記の部分も記者が勝手に手を加えた間違いであろう。




 南部さんの受賞に関連して、昨夕のNHK総合テレビ「テラス関西」で、わが湯川会顧問の斎藤さんが発明した、科学館の「自発的な対称性の破れが見える装置」について説明しているところが放映された。南部さん自身が以前、科学館を訪れた折に感心しておられた様子や、子どもたちが「よく分かった」といっている場面もあった。これはよい取材である。

 なお、2008年ノーベル化学賞でも、クラゲの緑色蛍光タンパク質を発見した日本人、下村脩さんがアメリカのマーティン・チャルフィー (Martin Chalfie) 、ロジャー・チェン (Roger Y. Tsien) 両教授と共同受賞することになったのは、ことのほか喜ばしい。ただし、これを機会に、政府が基礎研究に多くの投資をすべきことを理解することこそが重要であろう。

2008年9月26日金曜日

湯川会シンポジウム・プロシーディングス


 2007年3月4日に大阪中之島の大阪市立科学館で開催された「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」のプロシーディングス(報告集)が先般でき上がった。第 I 部 湯川の時代、第 II 部 湯川と物理学、第 III 部 ノーベル賞論文の解説、第 IV 部 私たちのまとめ、第 V 部 ノーベル賞論文、という構成で、A4版74ページ。科学館の売店で入手できる(実費 500円)。さる9月23日づけ読売新聞朝刊の13面に、巨大科学に関する記者の思いの導入として、このプロシーディングスが触れられた。

2008年9月10日水曜日

協力者・ライバル

 一昨日の午後1時頃、その時間にときどき見ている、みのもんた司会「おもいッきりイイ!!テレビ」の「きょうは何の日」のコーナーへ何気なくチャネルをまわしたところ、「快挙!同級生2人がノーベル賞」と題して、湯川、朝永両博士の生涯を紹介していた。湯川博士の命日だった(1981年9月8日歿)。

 番組は、両博士が助け合って歩んだことを強調する筋になっていた。それは確かな事実である。他方、湯川会のNさんがいろいろな本から集めた「湯川語録」には、湯川博士の次のような言葉もある。

 朝永君にだけは絶対に渡すことには我慢がならない。(京都で開催のパグウォッシュ会議開会式に朝永博士が代理出席することになりそうだったとき)

 朝永君は若いころから今日まで僕の周りをちょろちょろして意地の悪い邪魔をしてこられた。朝永君の文章の入っているような本はお断りだ。(中間子論誕生の思い出について、関係学者による本を編纂しようとして相談されたとき)

 これらの言葉は、中村誠太郎著『湯川秀樹と朝永振一郎』(読売新聞社、1992)から取られたものである。発言の状況から見て、冗談まじりの言葉でもなさそうである。晩年、歯に衣を着せない発言をするようになったといわれる湯川博士は、その頃になってライバル意識(あるいは湯川博士にないような「かっこよさ」のあった朝永博士への嫉妬心)も遠慮なく表面に出したのであろか。

 偉業を成し遂げた人のいささか妙な言葉に対しては寛大でありたく、これらの言葉を書物に書きとどめた中村誠太郎博士の姿勢はいかがなものかと思う。(といいながら、それをブログに引用している私の姿勢もいかがなものか。)しかし、神様のように敬われることの多い湯川博士が、いかにも人間的な面を持っていたことの証拠として、記録にとどめる価値のある言葉といえるかも知れない。

 番組には、湯川博士の長男、湯川春洋氏も登場し、「考えがうまくまとまらないで、機嫌の悪いときに、母は酒を勧めていました」というような思い出を、湯川博士に似た話し振りで語っていた。

2008年7月28日月曜日

せめぎ合い

 水素分子イオンというものがある。いま流行の怪しげな「健康」飲料の一種ではない。1個の陽子と1個の電子が結びついた水素原子に、もう一つの陽子がくっつき、電子が陽子2個に共有された状態のもので、プラス1の電荷をもっている。湯川博士は原子核の中で陽子と中性子がどのようにして結びついているかについて、中間子の交換で核力が生じているという理論を提唱したが、それより先に、ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクが、この水素分子イオンをモデルにして、陽子と中性子は、中性子が含む(と想像した)電子を交換して結びついているという説を唱えた。また、『ファインマン物理学 (5)』(量子力学編) [1] には、2状態系という近似で理解できる系の一例として水素分子イオンが取り上げられ、続いて核力の説明がある。したがって、私たち「湯川秀樹を研究する市民の会」(湯川会)にとって、水素分子イオンは重要な話題である。

 湯川会の会長の T.H. さんは、かねがね、中間子の交換で核力が生じるという湯川博士の考えを分かりやすく説明する方法はないものかと思っていて、先日の7月例会で、水素分子イオンが安定であることのファインマンの定性的な説明が参考にならないかと、紹介した。その紹介には、少しばかり誤解があったようで、分かり難かった。そこで私は翌日、『ファインマン物理学』の原書 [2] の、その部分を読んでみた。T.H. さんは、水素分子イオンの安定性に、クーロンポテンシャルと不確定性原理による効果の「せめぎ合い」が関係していると紹介したが、ファインマンの説明はそうではなく、次のようなものであった。

 ファインマンが「せめぎ合い」(balance) といっているのは、単一の水素原子(1個の陽子と1個の電子)についての話である。電子が陽子に近づけば、位置エネルギーは下がる。しかし、近距離内に閉じ込められる(位置の不確定さが減少する)と、不確定性原理によって、運動量の不確定さが増大する。これは、電子がより大きな運動量、すなわち、より大きな運動エネルギーを持ち得ることを意味する。そこで、全エネルギーを小さく保つように、両者がバランスするところに安定状態が存在することになる。

 次いでファインマンは、不確定性原理を水素分子イオンへ応用することを、水素原子の場合との比較で行っている。2個の陽子が近くにあるときには、陽子が1個のときと同程度に低い位置エネルギーをとり得る電子の存在範囲が広がる。したがって、電子の運動エネルギーの全エネルギーへの寄与は下がることになる。つまり、1個の水素原子と陽子がばらばらに存在するよりも、水素分子イオンを作る方が全エネルギーのより低い状態になり得ることが、これによって理解できる、というのである。

 しかし、これだけでは完全には理解できない。陽子間の位置エネルギーは、水素原子と陽子がばらばらに存在するときと、水素分子イオンを作っているときでは、後者の場合の方が高くなっているはずである。電子の運動エネルギーの減少分が、この位置エネルギーの増大分を上回っていることを詳細な計算で確認しなければ、水素分子イオンを作る方が全エネルギーのより低い状態になるとはいえない(ファインマンはこのことを、上記の説明に先立って別途述べている)。しかし、水素分子イオンが安定に存在するからには、電子の運動エネルギーの減少分の方が上回っているはずだとして、その原因を不確定性原理を使って定性的に理解できる、というのがファインマンの説明であろう。

 「せめぎ合う」の語は、1970〜80年代頃から流行し始めたように思う。「せめぐ」は、漢字で書けば、「鬩ぐ」である。「鬩ぎ合う」の語が、漱石そっくりの文体で書かれた水村美苗著『續明暗』の一カ所で使われていたのには、ちょっと首を傾げた。しかし、最近の流行語だからといって、昔全く使われなかったということはないのだから、一カ所でのみ使われていたのは、問題ないというべきであろう。私には、"balance" を「せめぎ合い」と訳す発想はし難いが、『ファインマン物理学 (5)』の訳者は、流行語を敏感に取り入れたのだろうか。

  1. ファインマン著, 砂川重信訳, ファインマン物理学 (5) (岩波, 1986).
  2. R. P. Feynman, R. B. Leighton and M. Sands, The Feynman Lectures on Physics, Vol. III, Quantum Mechanics (Addison-Wesley, 1965).
(2008年7月28日)

2008年7月23日水曜日

湯川博士と原爆研究

 2008年7月18日付け朝日新聞(大阪版)に「湯川教授 原爆研究に関与せず」の題名で、「米国立公文書館に保存されていた資料から、第2次世界大戦中、京都帝国大が行った原子爆弾研究に、湯川秀樹博士はほとんど関与していなかったと、連合国軍総司令部(GHQ)が結論づけていたことがわかった」という記事が掲載された [1]。その概略は次の通り。

 関連の資料は、政池明・京大名誉教授(素粒子物理学)らが見つけたもので、GHQの科学顧問だったフィリップ・モリソン氏らによる機密解除報告書などからなっている。モリソン氏は、米の原爆計画であるマンハッタン計画に参加した核物理学者で、日本の原爆開発能力を調べるため、日本に派遣された。終戦翌月の45年9月に京都で、旧海軍の委託による原爆研究、「F研究」の実験を指揮した荒勝教授と、理論の責任者だった湯川教授に尋問し、湯川教授が不在のときに研究室の本や資料を調べた。報告書は「湯川教授は中間子論の研究にすべての時間を割いており、原爆の理論研究はほとんどしていなかった」と結論づけている [2]。F研究のチームは終戦直前、旧海軍との会議を開き、湯川氏も出席している。ウラン鉱石の入手が困難なことなどから、「原爆は原理的には製造可能だが、現実的ではない」との結論を出したとされている。


 日本の原爆研究そのものが、これといった進展を見せていなかったことから、湯川博士が原爆研究に関与しなかったことは、米国の資料によるまでもなく、ほぼ自明のことと思われるが、資料はこのことを裏付けたものといえよう。

 しかし、GHQから客観的に「原爆研究に関与せず」と認められても、湯川博士自身の内心では、『源氏物語』を読んでいるといって(原子爆弾の基礎になる原子核関係の論文の講釈をしていたものと思われる)、一週間に一度、軍の研究所へ通い、戦争に協力する仕事をしていたこと [3] は、戦時中の拒否できない状況下だったとはいえ、自責の念に耐えなかったであろう。そして、それが博士の後の平和運動への一つのエネルギー源ともなったのではなかろうか。

 なお、上記の記事はワシントン発となっているが、記事中に名前のある政池氏(大学で私の1年後輩)は、日本学術振興会ワシントンセンター勤務を終えて、今春すでに帰国している。ワシントン滞在中に報道機関に渡した資料のコピーによって、いまようやく記事が作成されたか、あるいは、氏とともに資料を見つけた仲間が最近報道機関に知らせたのであろう。

  1. インターネット版(asahi.com)での題名は「ユカワは原爆研究に関与せず」。
  2. 新聞記事には、モリソン氏の報告書の一部と思われる文書の写真が、説明なしでつけてある。その文は次の通り。

      "3. Information about Yukawa is somewhat harder to be certain of than about an experimenter. From his own account, and from papers I saw in his office dated in late 1944, he has spent all his time on the mesotron theory, highly abstract work in which he has maintained a worldwide fame since 1938. He showed no interest in question I asked on diffusion theory, in which he would have been engaged if he were on project work to any . . . "

  3. 「湯川博士と源氏物語」Ted's Coffeehouse (2007年2月8日).

2008年7月13日日曜日

「湯川先生はネット上でまだお元気」

 法橋登氏が『教育通信』2008年6月号に書かれた湯川博士関連の随筆、「ネット上の素領域」のコピーを送って下さった。氏の許しを得て、その概要を「湯川秀樹を研究する市民の会」のウエブサイト『湯川 Wiki』に掲載した。以下は、それと同内容のものである。




 随筆は「1. 湯川先生の宗教対談」、「2. ネット上の湯川秀樹」、「3. ネット上の素領域」の3章からなっている。第1章は、先に『大学の物理教育』2007年3月号に書かれて紹介済みの「湯川先生のラジオ放送と宗教対談」という話に、インターネット関連の考察やネットから知ったことをつけ加えたものなので、紹介を省略し、第2、3章の内容を紹介する。

 第2章では、ネットで「湯川秀樹」を検索すると、『湯川秀樹著作集』に収録されなかった著作や湯川とのインタビューをもとにして素領域論のエッセンスをとらえた、京都生まれの編集・著述者、松岡正剛の解説が出てくることと、西田幾多郎と岡潔も、湯川が高校時代から影響をうけた哲学者、数学者として、松岡が紹介していることを述べている。

 岡によれば、問題の発端と結末が同時に分かるのが情緒(仏教用語では無分別智)で、発端と結末を論理の鎖で結ぶのが理性(分別智)の働きであり、西洋人は論理型、日本人は情緒型が体質にあっているとのことである。湯川も、キリスト教大聖堂の堅固な石造建築を見て同じことを感じたそうだ。著者は、「中間子論も素領域論も湯川には問題の発端と結末が同時に見えたのだと思う」と述べている。

 岡は著書『春宵十話』の中で、相対論から40年で原爆を仕上げた物理学者を指物師(大工)と呼び、証明に400年かかったフェルマーの予想のような将来発芽する種子を土に播いておく数学者を百姓(農民)と呼んでいるとのことで、著者は「湯川の素領域論もそんな種子の一つと思う」と記している。

 さらに松岡正剛によれば、湯川は中国大陸から渡来した浄土的・出離的平安仏教の正統派最澄には違和感をもっていたが、最澄と並ぶ平安仏教の開祖でありながら渡来仏教を日本の土着・基層文化である縄文文化に結びつけた空海には関心があったこと、また、日本のニュートンと呼ばれた江戸中期の自然哲学者・教育者三浦梅園と身分制限のない日本で最初の給費制総合私学「綜芸種智院」を創立した空海の思想的関連性を指摘したのは湯川が初めてだということも紹介している。

 第3章では、松岡が、非局所場や素領域のアイディアは火焔土器に象徴された縄文文化の原初的生命エネルギーから発しており、「点粒子の奥にはハンケチで畳めるほどの空間がある」という湯川の言葉をネットで伝えていることを紹介している。法橋氏は、「『ハンケチで畳めるほどの』は、『代数構造をもつ』という意味と思うが、プランク・スケールの時空間を考える物理学者もいる」と述べている。

 ネットには、さらに「物理学者はミンコフスキー空間の受け入れに無批判である」という湯川の不満と、「時空連続体も素粒子のように可能性と現実性の間を往き来しているのではないか」という湯川の考えが伝えられていることを述べ、「湯川先生はネット上でまだお元気なのである」と結んでいる。




 「ネット上の素領域」をここに紹介したことによって、湯川先生のネット上のお元気さは、ますます伝播する。

2008年6月25日水曜日

湯川博士のノーベル賞講演 (3)

 湯川博士のノーベル賞講演の和訳 [1] のことを記した湯川会会員の方のメールには、「訳が3人がかりでなされているところを見ると、湯川博士の英語は難解らしい。内容の理解を優先させるため、和訳で勉強をしては」という趣旨のことも述べられていた。私は返信に、「折角2ページ近くを英文で読み進めて、あと3ページ半ほどなのだから、このまま原文で進めるのがよい」旨を書いた。理由はここに述べただけで十分だっただろうが、つい次のようにつけ加えた。

 私は著名な物理学者たちの和訳力を必ずしも信用しません。中間子第1論文の片山泰久訳 [2] にも、「場を伴う量子」という誤訳がありました(accompany の用法や『旅人』中の記述から考えても「場に伴う量子」が正しい)。[なお先般、S. W. ホーキング著、佐藤勝彦・監訳『時間順所保護仮説』(NTT出版、1991)が誤訳だらけであることをブログに書きました(http://echoo.yubitoma.or.jp/weblog/tttabata/eid/568366)。]

 著名な物理学者たちの和訳力を信用しないためには、ここに挙げただけの理由では不足な感じがする。しかし、そのあとで湯川博士のノーベル賞講演の和訳を見たところ、最初の訳文が次のような拙いものであり、理由がさらに裏づけられることになった。

 中間子論の起源は、重力や電磁気力の場合の力の場の概念を、核力にもあてはまるように拡張する試みから始まった。

 この訳がなぜ拙いかに気づかない方は、「起源」とは「始まり」の意味であることに注意し、「彼は馬から落ちて落馬した」という文と比較されたい。なお、ノーベル賞講演の和訳者たちの名誉のために、最初の文以外には、このような迷訳はなさそうであることを付言しておく。

(完)

  1. 湯川秀樹著, 中村誠太郎, 福田博, 山口嘉夫訳, 発展途上における中間子論, 湯川秀樹自選集2 (朝日新聞社, 東京, 1971) p. 335.
  2. 湯川秀樹著, 片山泰久訳, 素粒子の相互作用について I, ibid. p. 261.

2008年6月24日火曜日

湯川博士のノーベル賞講演 (2)

 ローリー・ブラウンが「acceptable な英語」と書いていたことから、私は湯川会のグループメールに生意気にも、自分も湯川博士中間子第1論文の英語が必ずしも上手ではないと思った、とまで書いた。それで、その証拠を示す必要があろうかと、中間子第1論文の代わりに、目下勉強中の、博士のノーベル賞講演 [1] の始めの3センテンスの書き換えを試み、その結果をまたグループメールで送った。ノーベル賞講演の原文の冒頭部分は次の通りで、129語ある。

The meson theory started from the extension of the concept of the field of force so as to include the nuclear forces in addition to the gravitational and electromagnetic forces. The necessity of introduction of specific nuclear forces, which could not be reduced to electromagnetic interactions between charged particles, was realized soon after the discovery of the neutron, which was to be bound strongly to the protons and other neutrons in the atomic nucleus. As pointed out by Wigner1, specific nuclear forces between two nucleons, each of which can be either in the neutron state or the proton state, must have a very short range of the order of 10−13 cm, in order to account for the rapid increase of the binding energy from the deuteron to the alpha-particle.

 私はこれに手を入れて、以下のように、もう少し短くて読みやすくしてみたのである。112語になっていて、約1割短縮されている。

The meson theory was started to extend the concept of the force field by adding nuclear forces to the gravitational and electromagnetic forces. Soon after the discovery of the neutron, it was noticed that protons and neutrons were strongly bound in the atomic nucleus by the forces irreducible to electromagnetic interactions between charged particles, and the necessity to introduce specific nuclear forces was realized. To account for the rapid increase of the binding energy from the deuteron to the alpha particle, the specific nuclear forces between two nucleons, each in either the neutron or proton state, must have a short range on the order of 10−13 cm, as pointed out by Wigner.1

 学生時代の私にとっては、あらゆる面で神様のような存在だった湯川博士だが、ノーベル賞講演をされたのは博士が42歳のときで、いまの私より31歳も若い。博士の英文を添削できるようになったのも、年の功というものだろう。なお、原文の "a very short range" 中の "very" は主観的な表現であり、現今の科学論文にはなじまないので省いた。"Very" short かどうかは、数値を見れば分かる(講演では "very" を入れて強調するのも悪くはないが)。

(つづく)

  1. H. Yukawa, Meson theory in its developments, Nobel Lecture, December 12, 1949 (available at http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1949/yukawa-lecture.pdf).

2008年6月23日月曜日

湯川博士のノーベル賞講演 (1)

 湯川秀樹を研究する市民の会(湯川会)では、さる6月15日の例会から、湯川博士のノーベル賞講演 [1] を英語の原文で勉強し始めた。その題名 "Meson theory in its developments" について早速、「Development は抽象名詞だと思うが、複数形になるのだろうか」という意味の鋭い質問が出た。その場では、はっきりした結論が出なかったが、帰宅後、英英辞典 "Longman Dictionary of Contemporary English" で "development" を調べてみると、この単語は意味によっては可算名詞にも非可算名詞にもなるのである。意味は5通り挙げられていて、そのうち2通りが非可算名詞、3通りが可算名詞になっている。

 1番目の意味は "the gradual growth of something, so that it becomes bigger or more advanced" とあり、「成長、発展」の意のようだが、このときは非可算名詞。3番目の意味として、"the act or result of making a product or design better and more advanced" とあり、このときは可算名詞。ここで『ランダムハウス英和大辞典』で、これに相当すると思われる訳を探すと、「(発達の)成果、結果」というのがあり、その用例として、"recent developments in the field of science" が挙げられている。

 そこで、私は湯川会のグループメールで、湯川博士がこの3番目の意味で使ったとすれば、複数形でよいわけで、題名 "Meson theory in its developments" の和訳は、私が当日言った「発展中の中間子論」でなく、「成果に見る中間子論」、あるいは意訳して「中間子論の成果」とするのがよさそうだ、と書き送った。

 すると、別の会員から、『湯川秀樹自選集2』[2] の中に、「発展途上における中間子論」として、ノーベル賞講演の和訳が収められていて、その本の「まえがき」に、湯川博士自身が「『発展途上における中間子論』は、一九四九年のノーベル賞受賞講演で、…」と書いているので、博士自身は "developments" を「発展」の意として用いたようだ、とのメールが届いた。

 私はこれに対して、次の趣旨のメールを返した。

 湯川博士が「発展途上における中間子論」の意味で "development" を複数形にしたのならば、はっきりいって間違いである。外国の学者の誰かが、「湯川は中間子論を acceptable な英語で書いて発表した」と書いているのを読んだことがある。「acceptable な英語」とは、上手な英語という意味ではなく、読める英語、通じる英語、といった意味である。私も中間子第1論文の英文を、TEX版をチェックするなどして熟読した結果、必ずしも上手ではないと思った。

 「Acceptable な英語」と書いていたのが誰だったか思い出せなくて、湯川博士について触れてある私の所有洋書を片っ端から調べたが、見つからない。ふと思い立って、"Google Book Search" で Yukawa と "acceptable English" のキーワードを使って検索したところ、すぐに [3] と分かった。そこには次のように書いてある。

 Yukawa had made an attractive unified theory of nuclear forces and published it, in acceptable English, in a widely available journal. . . .

(つづく)

  1. H. Yukawa, Meson theory in its developments, Nobel Lecture, December 12, 1949 (available at http://nobelprize.org/nobel_prizes/physics/laureates/1949/yukawa-lecture.pdf).
  2. 湯川秀樹, 湯川秀樹自選集2 (朝日新聞社, 東京, 1971).
  3. L. M. Brown, Nuclear forces, mesons, and isospin symmetry, in "Twentieth Century Physics Vol. 1," ed. by L. M. Brown, A. Pais and A. B. Pippard, Page 383 (Institute of Physics Publishing, Bristol, 1995).

2008年4月26日土曜日

後世に残ることをした人たちは…

 小説家・文芸評論家の竹西寛子は最近の著書の中で、文学上、後世に残る大きなことをした人の多くに共通して見られる仕事のスタイルについて触れている [1]。まず、それ以前の文学への「反抗」があるが、それは単なる反抗でなく、それまでの文化遺産を学んだ上で、新しい表現を生んでいる、という。彼女が紫式部、芭蕉、蕪村などを研究して得た教訓である。

 これは、科学上の大きな仕事をした人たちの場合にも、そっくり当てはまるであろう。反抗というと語弊があるかもしれないが、過去の成果の一部に疑問を抱き、しかも、それ以外の過去の遺産からは大いに学んで、新しいものを生み出すという過程は、たとえば、湯川博士の中間子論の構築においても、はっきりと見られる。

 湯川の取り組みは、彼が大学を出て間もない1932年に抱いた決心に始まった。その決心は、量子力学の創設等の業績に対してこの年にノーベル賞を受賞することになる大物理学者・ハイゼンベルクが先行して発表した、陽子・中性子の結びつきの理論の難点(電子を交換するというハイゼンベルクの考えでは、電子のスピンと統計という性質から無理があるという疑問)を解決して、核力の本質を究めようというものであった。

 そして湯川は、電磁場の理論からの類推で得た方程式によって、核力のポテンシャルを求め、また、その方程式中の微分演算子に量子力学の関係式を代入した結果をエネルギーと運動量についての相対性理論の関係式と比較することから、未知の粒子・中間子の質量を推定した。ここには、電磁場の理論、量子力学、相対性理論という過去の大きな遺産の巧みで徹底した活用がある。

 竹西はまた、「表現の世界における新しさは、究極的には、宇宙との関係を新しくして行くことではないか」「ものの見方を変えないことには、新しさはないのではないか」とも述べている [2]。これらの表現も、説明するまでもなく、科学の世界における新しい発見と相通じるものがあるといえよう。

  1. 竹西寛子, 言葉を恃む, p. 34, 旅の詩人、松尾芭蕉 (岩波, 2008).
  2. 同上, p. 57, 定型の器.

2008年4月17日木曜日

湯川博士ノーベル賞受賞の一つの意義

 先に法橋登氏から『大学の物理教育』3月号に掲載された随筆「アインシュタインの三通の手紙:ルーズベルト、ニコライ、ラッセル」のコピーをメールで貰い、その中の湯川関連の記述について氏に質問したことを記した [1]。氏とのそのやり取りの間に、氏の別の随筆 [2] のコピーを貰い、その最終パラグラフも湯川評になっていることを告げられた。その箇所は次の通り。

 橋本は和訳書刊行の趣旨をこう書いている。「かつて和漢洋の三順序で示された日本の学問がいまや人文、社会、自然の科学三分野併挙から超科学の実践世界を目指す時代になった。シュレディンガー博士に遅れること一六年、わが国の湯川博士が同じ賞を受けたことの意義は甚大である。」

 ここで、和訳書とはシュレディンガーの自伝『わが世界観』のことで、橋本とはその和訳を監修したインド哲学者、橋本芳契のことである。法橋氏は和訳書として [3] を引用しているが、アマゾンで調べると、初刊の単行本は [4] のようである。

 橋本の文は、分かりやすく言い換えれば、次のようになるであろう。

 「江戸から明治の時代にかけての日本の学問は、和学を第一とし、ついで漢学、洋学の順で重んじるという傾向にあった。しかし、湯川博士がシュレディンガーより16年遅れてではあるが、ノーベル賞を受賞したことは、日本の学問が欧米並みになった証しである。その頃になって、同じように三つの学問といっても、それは人文、社会、自然の各科学を指し、これらを同列に並べて尊重することが確立したのである。さらに、湯川博士の受賞は、これらの三つの学問が境界を超えて相互作用し、実践的な効果を生み出す時代の幕開けに寄与したという大きな意義を持っている。」

 湯川博士自身は、核兵器廃絶の必要性を論じたり、創造論についての著述をするなど、自然科学の枠を超えての活動を盛んに行った。しかしながら、三つの学問が境界を超えて相互作用する「超科学」の実現は、現状ではまだまだ不十分であるように思われる。

  1. 素領域と純粋経験, Ted's Coffeehouse 2 (2008年4月2日).
  2. 法橋登, シュレディンガーの自伝とアインシュタインの接点, 日本物理学会誌 Vol. 60, p. 741 (2005).
  3. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観 (ちくま学芸文庫, 2002).
  4. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観(自伝) (共立出版, 1987).

2008年4月3日木曜日

核兵器廃絶の遺伝子

 先に日経新聞の月曜日夕刊に連載されていた「湯川秀樹の遺伝子」という記事を紹介した [1]。さる3月31日づけの第10回 [2] をもって、その連載は終了した。最終回の記事は、核兵器廃絶を訴える『Over-killed(過剰殺りく)』『実験の名前たち』などの映像作品を発表している神奈川県・箱根ラリック美術館の学芸主任、橋本 公 氏(48)の人物と活動を詳しく紹介している。

 シリーズの題名は、この最終回への伏線だったのである。湯川博士の先輩教授、荒勝博士についての記述が最初に長く続いたので、京大の学問的遺伝子という意味ならば、前後が逆という感じを抱いたが、これで納得できる。

 いま核兵器保有国の間では、核拡散への対処を口実に、核兵器先制使用を容認する発言が続いている。これでは、地球の崩壊へまっしぐら、ということになる。湯川博士の核兵器廃絶の遺伝子は、ぜひ世界中に広まって欲しいものである。

  1. 分からなかった, Ted's Coffeehouse 2 (2008年3月20日).
  2. 湯川秀樹の遺伝子(10)反核訴える新感覚映像, 日経ネット関西版 (2008年3月31日).

2008年4月2日水曜日

素領域と純粋経験

 日本物理学会誌などに湯川博士関連の随筆等をよく投稿している法橋登氏が、先日、アインシュタイン関連の新しい随筆をメール添付で送って下さった [1]。その最終の第4章「アインシュタインの京都講演」において、湯川博士にも触れている。アインシュタインは京都見物の一日をさいて、京都大学で原稿なしの講演「私はいかにして相対論を創ったか」をしたが、このタイトルは哲学者西田幾多郎の注文だったという。そして法橋氏は、相対論の先駆になったマッハが創造的発想の源泉と考えた「純粋経験」を西田が自身の哲学の出発点にしたことを述べ、「純粋経験は、既存観念や文明から解放された自然の直観的・全体的把握を指す。ファラデーの電磁力線も、少年時代のアインシュタインが直観した光の相対運動も、湯川の素領域も、物理学以前であり以後でもある純粋経験の産物だった」と指摘している。

 素領域については、湯川博士自身が「天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」という李白の言葉が自分の考えを顕在化させるひとつの動機となったと述べているが、これは純粋経験のうちに入るといってよいのだろうか」という趣旨の質問を、私は法橋氏にしてみた。氏からは、以下のような説明を貰った。

 湯川の場合「物理以前の純粋経験=縄文文化の生命エネルギー」である。世界最古の哲学である古代インドベーダ哲学の研究者でもあるシュレーデインガーは、自伝『わが世界観』[2] において、山中でのベーダ的「純粋経験」の内容を詳しく記録している。…中略…。特殊相対論を正準形式の力学理論として完成したのはプランクで、幾何学化したのがミンコフスキーである。湯川はミンコフスキー空間の量子化を考えた。ベーダ哲学の「念じ続けたことは実現する」という考えをマッハは「純粋経験の持続」と表現したが、ベルグソンは、シオニズム(念)からのイスラエル建国(実現)はその実例だとしている。素領域もひとつの「念」だといえる。念じ続けるだけで論文化の機会はあってもなくてもてもよく、他力(縁=出会い)本願である。西田家も湯川家も「一念三千世界」の浄土宗の人で、そのように考えていたと思う——と。

 この説明はいささか分かりにくいが、私は、「物理学以前」すなわち物理学以外のところに、ひとつの起源のある物理学という意味では、素領域理論は純粋経験の産物ということになるのだろうと、自分なりに納得している。シュレーデインガーがベーダ哲学の研究者でもあったということは、初めて知った。『わが世界観』の英語版を持っていながら、少し読んだところで投げ出してあるのを読んでみたいとも思ったことである(注:英語版にはドイツ語原書 [4] と日本語版に含まれている「自伝」の部分は入っていない)。

  1. 法橋登, アインシュタインの三通の手紙:ルーズベルト、ニコライ、ラッセル, 『大学の物理教育』 Vol. 14, No. 1 (2008).
  2. エルヴィン・シュレーディンガー=著, 中村量空ほか=訳, わが世界観 (ちくま学芸文庫, 2002).
  3. E. Schrödinger, My View of the World (Ox Bow, Woodbridge, 1983; originally published by Cambridge University Press in 1964).
  4. E. Schrödinger, Mein Leben, meine Weltansicht (Deutscher Taschenbuch, Woodbridge, 2006).

2008年3月18日火曜日

分からなかった

 昨日の朝日新聞に「『原爆研究』日誌、京大に」という記事が掲載された。そのオンライン版 [1] を検索したところ、日経新聞の月曜日夕刊に「湯川秀樹の遺伝子」という記事 [2] が連載されていることに気づいた。

 第1回は、「1949年、日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士。晩年は物理研究のほか核廃絶・平和運動にも献身し、科学と社会のかかわりを終生問い続けた。湯川博士の遺伝子を受け継ぎ、その精神をいまに生かそうとする人びとの姿を、秘史をひもときながら追った」と始まっている。しかし、これまでのところ、中心人物として登場するのは、湯川博士の京大同期生(私の恩師でもある)木村毅一博士の恩師で、台湾において世界で2番目のコッククロフト・ウォルトン型加速器を作った荒勝文策博士である。つまり、湯川博士の前の世代の学者の話である。

 荒勝博士に習った堀場雅夫氏(堀場製作所最高顧問)はインタビューを受けて、「毎回楽しみに読んでいますが、『湯川秀樹の遺伝子』というタイトルは逆でしょう。荒勝先生の遺伝子こそ湯川さんが受け継いだ。遺伝子を逆にたどれば、という考え方もあるかもしれませんが…」と述べている。そのうちに湯川博士の遺伝子を受け継いだ人びとも登場するのだろうか。

 それはともかく、この連載には湯川博士の名も当然ながら、たびたび出てくる。竹腰秀邦京大名誉教授は、湯川博士の量子力学の講義は、「小声でぼそぼそしゃべり、さっぱり分からなかった」と述べ、堀場氏も次のように語っている。

 「2回生で量子力学の講義を受けましたが、黒板に向かってしゃべるし、全然分からん。それで文句言ったら、湯川さんは『聴かんでもいい』と言う。そやかて必修科目でしょ。仲間と組んでストライキに打って出たら、湯川さんも心変わりしたみたいです。研究者としては立派かもしれんが、プロの教師としては荒勝先生と対照的でした。」

 私が湯川博士の量子力学の講義を聞いたときは(先にも書いたことがあるかも知れない)、その頃発行されたばかりの、『岩波講座 現代物理学』中の量子力学編に執筆された通りを話された。したがって、それを見ながら聞いておれば、分かったような気になることができたが、ノートをとる必要のなかったことは、講義を聞いた印象がいささか薄いという結果にもなった。他方、学園祭か何かの折に聞いた湯川博士の一般向けの講演は、なかなか味わい深いものだったように記憶している。

 後日注記:下記のリンクは、その後いずれも切れている。

  1. http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200803180063.html
  2. 湯川秀樹の遺伝子(8)海軍支援、緊迫の加速器建造(連載の別の回の記事は、ページ下部の「他の『深める ローカル』の記事を読む」をクリックして、たどることができる。)