2011年3月4日金曜日

エッセーについてのエッセー (The Essai on Essais)

Abstract: The outline of Kiyokazu Murao's essay entitled "Essais – The Genre of Literature for Adults: A View on the Fact and Fiction" (Gakushikaiho, p. 66, March 2011, in Japanese) is given together with my relevant thoughts. The auhtor says that the necessary and sufficient conditions of an attractive essay are (1) showing the author's personality, (2) being free enough in the style and thoughts, and (3) being interesting so as to make one's eyes open. (The main text is available only in Japanese.)

 『學士會報』第887号 p. 66 (March , 2011) に「大人の文学エッセー:事実と虚構についての一考察」という文がある。著者は日本エッセイスト・クラブ会長の村尾清一氏。ブログに書くものは一種のエッセーであり、何年間もほとんど毎日、曲がりなりにもブログを書き続けている私にとって、これは大いに参考になる文である。全文は6節からなる。各説の要点を、私の感想も交えながら(すなわちエッセー風に)紹介したい。

 第1節では、エッセーと小説の区別についての尾崎一雄と志賀直哉の言葉を引用している。尾崎は、経験事実8割・作り話2割がエッセー、その逆は小説といい、志賀は作家の「つもり」、すなわち態度によって、どちらであるかが決まるとしている。著者・村尾は、日本の私小説は西洋ではエッセーになり、西洋のエッセ(原文では「エッセイ」の語を使うとき、おおむね「イ」に傍点をつけてあるので、ここではそれを下線で表す)は日本の短編小説といってよい(例:チャールズ=ラムの『エリア随筆』)との考えを述べる。——この考えは暗に尾崎に従っているものだが、西洋のエッセについての解釈には、一般的適用性はないであろう。——

 第2節では、エッセーについての日本エッセイスト・クラブあるいはその現会長の見解として、「エッセーとは随筆と評論。現在は日記、旅行記、調査研究、ノンフィクションまで範囲が広がっている」「エッセイは英語、エッセーはフランス語」と説明する。大宅壮一が、自分の文は評論と随筆のどちらにも似て非なるもので、日本語の「似而非」(エセ)にあたる、とシャレのめしたことも紹介する。——ところで、「随筆」がエッセーの一部ならば、これに相当する英仏語は何だろうかということになる。英語で personal essay というのがそれらしい。私は "The Art of the Personal Essay: An Anthology from the Classical Era to the Present" (edited by Phillip Lopate, Anchor Books, 1994) という本を持っている。その中には『枕草子』や『徒然草』の文の英訳が入っている。——

 第3節では、清少納言『枕草子』、F・ベーコン『エッセズ』、ニーチェ『善悪の彼岸』、アナトール=フランス『エピクロスの園』からそれぞれ短文を紹介する。続いて次の通りの「魅力あるエッセーの必要十分な条件」を述べる。(1) わたくし:人の個性、人柄がにじみ出るのがよい。(2) 自由:気随気ままがよい。(3) 面白さ:気持ちが晴れる、心ひかれる、「目からウロコが落ちる」ようなのがよい。——ただし、これは前節のエッセーの説明にある「随筆と評論」のうち、随筆だけを念頭においたものであろう。「(2) 自由」の説明にある「序論、本論、結論」に「無関係だ」ということは、評論には必ずしも当てはまらない。——

 第4節では、英文学者・福原麟太郎がエッセーに芸術性を重視したことを述べる。また、典型的英国人・サミュエル=ジョンソンの「本当のエッセは、職業をもった専門家によって書かれる。なぜなら、専門家のエッセは、読者の常識や通念を逆転させるから」という言葉を紹介する。その実例として、物理学者・寺田寅彦、数学者・岡潔らのエッセーの面白さにふれ、「が、専門以外はなにも知らない専門家が多い」と、世の専門家たちへ寸鉄を刺す。——しかし、専門以外のことをあまり知らなくても、専門についての妙味のある話を分かりやすい文で書けば、それは魅力あるエッセーになる可能性がある。したがって、ここで著者が「専門以外はなにも知らない」というのは、主に「分かりやすい文で書く方法を知らない」ということになろう。——

 第5節では、前節を受けて、逆転の面白さが「あべこべ」の面白さにつながる、という話題を扱う。日本人にとっては「前が未来、後ろが過去」、西洋ではギリシャ時代から「前が過去、後ろが未来」という通念の「あべこべ」が、バス停留所の行列の向きや英仏語の「おととい」や「あさって」にも現れていると述べる。——ギリシャ時代に「未来が後ろからやって来る」と考えられていたことは、Robert Persig の著書 Zen and Art of Motorcycle Maintenance (Bantam, 1974) p. 375 にも述べられている。しかし、これが現在の西洋の通念かというと、そうではなさそうである。その理由としては、Persig がギリシャ時代の見方をことさらに述べていることのほかに、Sean Carroll の著書 From Eternity to Here: The Quest for the Ultimate Theory of Time (Dutton Adult, 2010) p. 22 には、Persig の著書からギリシャ時代の見方を引用しているところで、これを「われわれは過去から離れて未来に向かって進んで行くという通常の見方」と比べると、前者の方がより素直なようだ、と述べていることも挙げられる。——

 第6節には、二つの内容がある。一つは、エッセーを面白くするあべこべ、ユーモア、ペーソス以外の方法の考察である。正岡子規の「最も簡単な文章が最も面白き者なり」などの言葉を引用し、また、面白さが「虚実皮膜の間」に生まれることも述べる。もう一つは、21世紀はエッセーの時代になるかどうか、という問題であり、著者は「なる」方に賭ける。その根拠として、高齢社会では「心の平安」を求めて成熟した大人の文学・エッセーが好まれることや、科学技術の発達で事実がフィクションを越えるようになったことを挙げている。——これは、科学分野で定年退職しブログを書き始めた私にとって、ありがたい状況かも知れない。——

 さて、エッセーについてこれだけ学ばせて貰った私の、明日からのブログの出来栄えはいかがなものだろうか。

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