2012年5月10日木曜日

2012年4月分記事へのエム・ワイ君の感想 (M.Y's Comments on My Blog Posts of April 2012)

[In Japanese only]

 M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2012年4月分への感想を2012年5月9日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。




1. 文学の文、科学の文

 文学作品中の文は、読者によって解釈が異なるような多義性をはらんでいることが許される。あるいは、そうした表現を多く含む作品ほど、優れているということがあるかも知れない。他方、科学論文の文章は、一貫して一義的でなければならない。[…中略…]他の研究者が文を行きつ戻りつしながら理解しなければならないような論文は、よい論文とは見なされず、無視される結果となる。大江健三郎氏の『図書』誌に連載中のコラム「親密な手紙」の2012年4月号分「心ならずも」を読んで、文学の文と科学の文の、この相違をしみじみと感じた。

と書き始め、「心ならずも」に書いてある話を、科学論文調で、次のように要約しています。

 さる二月半ば、加藤周一と凡人会による読書会記録の本『ひとりでいいんです』の第二刷見本が送られて来た。私がその本の第一刷を買って読んだとき、編集者に葉書を出し、気づいたことを指摘しておいたからである。
 指摘したのは、加藤氏が戦中に出入りしていた渡辺一夫先生宅の玄関にあるラテン語の詩句の木彫りレリーフを解読した文中の、少しズレた解釈の部分についてであった。
 詩句の解釈は「できれば憎みたい/さもなければ/反対に/愛するだろう」となっていたが、「反対に」に対応するラテン語の単語を、渡辺先生は「心ならずも」と訳されたことがある。それは、私の所有するラテン語・英語辞書にそのような訳のあることを書いて、渡辺先生がそれを受け入れて下さったことによる。
 渡辺先生がこの一節に何を託していたか、つまり何を憎み何を愛そうとしていたのかについて、「当時の先生を知っている」加藤氏は、「日本」あるいは「日本人」だと思う、と説明している。
 この本のタイトルは、加藤氏が広く深い経験に基づいて、外国に本当の友人が一人おれば、抽象的でない強いつながりが開けると確信したことをいい表している。

 そして、原文との大きな相違は「私が大江氏の文を二、三回読み返して初めて理解し得た内容を分かりやすい形に書き直したいくつかの箇所などにある」と述べ、原文の構成をたどりながら、全八段からなる文章について、「文学の文と科学の文」の観点から詳しく解説しています。最後は、

 以上、大江氏の文が、科学論文としては落第であるような書き方をしたが、氏の文はあくまでも文学であり、この小論は、氏の文が文学分野のものとして欠陥を有することを意味するものでは決してない。ただ、大江氏の文はいささか読みづらいと思う読者がかなりあるとすれば、その一因として、例示したような、科学の文からの大きな隔たりを挙げることが出来るかも知れない。

と結んでいます。この「文学の文、科学の文」は、大江氏の読みづらい文章を分析し、真意を読み取る苦労、上記の要約で省略したこと(加藤氏の語り口の優れていることなど)、個人的な思い違いの歴史を書くことの可否、戸惑いを読者に与える表現、などについても触れながら、各段落の要点を端的に説明し論評した労作です。興味深く拝読しました。これを読むと大江氏の湧き出づる意識の流れの特質もよく分かります。私は朝日新聞に連載された大江氏の「定義集」のうち、関心のあるテーマについて読んできましたが、文章を筋道だって理解できるには、一、二回ほど読み返すのが常でした。

2. オランダ、ベルギー運河の船旅

 2012年4月15日から25日まで、妻と私はニッコウトラベルの企画による「10年に一度の花の博覧会を訪れるオランダ、ベルギー運河の船旅」に参加した。[…中略…]私たちの船室(上のスケッチ)は、2009年に同じ船[セレナーデ II 号]でライン河・マイン河クルーズに参加したときとは異なっていたが、壁に飾ってある絵は同じだった。

と記されています。2009年11月に掲載された12日間の「古城渓谷と中世古都巡り:ライン河、マイン河の船旅」の初回には、マイン河とオランダ・ベルギー運河の旅が一つにまとめられた地図が示されていました。今回の旅では、オランダ・ベルギーのどの運河(やその他の水路)を航行し、陸上のツアーといかにうまく接続して行くかについても関心を持ちながら、旅行記を読んでいます。*

 * Ted の注:今回の旅にはフェンローという都市で開催中の10年に一度の花博訪問が加えられたため、2009年の地図に青線で示してあるオランダ・ベルギーの旅とは、行程が少し異なっています。今回の水路は、その第1回に載せた地図の青点線の通りで、かなり複雑です(短い青実線はバスによる移動)。

4 件のコメント:

みどか さんのコメント...

大江健三郎先生の書物は、まだ読んだことがないのですが、これから読もうかと思っています。

こうやってみると、文学と科学は、世の中に於いて、欠かせないものなのですね♪

Ted さんのコメント...

大江さんは私と同年ですが、彼の著書は難しい気がして、2冊ほどしか読んでいません。

YAGURUMA さんのコメント...

科学と文学の文章におけるこの違いについてのご指摘は、大変示唆的に思います。
科学文では一義的な解釈しか許されないということは、科学の精密性を保証するものですが、他方、それは科学が「言葉の枠内に閉じ込められていると」とも表現できるように思うのです。文学ではなく哲学書ですがカッシーラーが次のように言っています。「哲学は、言語という媒体と言語的諸概念という乗り物に分かちがたく結びつけられている単なる科学が達成し得ない事を達成してみせる。」つまり、哲学は科学とは違って、言葉の枠を超えられると言っているわけですが、文学も哲学とは異なったあり方で、言葉の枠を超えようとしているとも言えるのかも知れません。

Ted さんのコメント...

Yaguruma さん、カッシーラーの言葉をご教示いただき、ありがとうございます。最近、自然科学者、特に物理学者は哲学を軽視しがちのようですが、私は哲学には自然科学を補完する何かがあるように感じています。その何かについての貴重なヒントになる言葉だと思います。
 物理学も「日常的な言葉」には必ずしも捕われていなくて、それを越える概念を見出したりしますが、その種の発見には哲学が加勢しているようにも思われます。