「五色浜の子守歌」の楽譜と、この歌の「復活秘話」。
The score of "Goshikihama Lullaby" and "Secret Story" about the resurrection of the song.
先の記事に記した「五色浜の子守歌」の合唱ビデオを、かつての朝日新聞への投書「心に残る母の子守歌:どなたかルーツ教えて」にあった楽譜と注意深く比較しながら聞いてみた[注 1]。すると、合唱と楽譜とでは、音の長さや直前の音に比べての高さなどが、所どころで異なっていることに気づいた。そこで、合唱に使われている楽譜を入手したいと思い、合唱の行われた場所・淡路文化会館のウェブサイトの、「お問い合わせ」ページから質問を送ってみた。12 月 6 日の夕方のことだった。それからちょうど 10 日後の 12 月 16 日の朝、会館から電話があり、合唱グループ「五色サルビアエコー」が楽譜を会館へ届けてくれることになり、それを郵送するので、もうしばらく待って欲しい、とのことだった。
12 月 18 日に会館からの封書が届き、開けてみると、楽譜の他に、思いがけなく「『五色浜の子守歌』復活秘話」と題する文[文献 1]のコピー(A4 紙 4 ページ)が同封されていた(上掲の写真参照)。これらは「五色サルビアエコー」代表・高鍋禮子さんと採譜者・高鍋和男さん(「復活秘話」の著者でもある)から提供されたものであることと、淡路島以外でもこの歌に関心を持つ人がいることに両氏が感激しておられたということを記した会館の担当者のメモも添付されていた。「復活秘話」の内容は、あたかも小説のような素敵な話であり、ここにかいつまんで紹介したい。
長崎の小学校で「五色浜の子守歌」を習い、フィリピンに渡って歯科医を開業していた中野敏一さんが、1945 年の敗戦で長崎へ引き揚げてみると、生家は原爆で跡形もなくなっていた。彼はその時、とっさにこの子守歌を思い出し、淡路島へ行き、その南東部にある福良の歯科医院に身を寄せて勤務していた。その頃、福良小学校の先生で音楽の得意な平野まきゑさんが歯の治療に来た。そして、治療をした中野さんは、ギター伴奏で平野さんに「五色浜の子守歌」を聞かせた。これが縁で、二人は 1946 年にめでたく結婚した。1952 年、中野夫妻は念願の五色浜のある地域への転居を果たし、敏一さんは地域の小・中学校の校医も勤めながら、二人でこの歌を守り続けて来たということである。
「復活秘話」の著者・高鍋和男さんは、小学校長を退職して、五色浜教育委員会に勤務していた 1990 年 5 月、小学校同級生の一人から上記の「... ルーツ教えて」の投書を知らされた。そして、入院中だった中野まきゑさんを、院長の許可を得て、1990 年 12 月に採譜のためテープレコーダー持参で訪れた。まきゑさんは 1986 年に亡くなった夫・敏一さんのことを思い浮かべながら、涙ながらにこの歌を歌ったそうである。翌 1991 年 10 月には、「五色サルビアエコー」が、洲本市民会館で開催された淡路合唱祭で「五色浜の子守歌」を初披露し、全員合唱もして、大反響を呼んだとのことである。
「復活秘話」は次のように結ばれている。
高鍋禮子さん、高鍋和男さん、そして、淡路文化会館の担当者・Y. Y. さんに深く感謝する次第である。
[注]
12 月 18 日に会館からの封書が届き、開けてみると、楽譜の他に、思いがけなく「『五色浜の子守歌』復活秘話」と題する文[文献 1]のコピー(A4 紙 4 ページ)が同封されていた(上掲の写真参照)。これらは「五色サルビアエコー」代表・高鍋禮子さんと採譜者・高鍋和男さん(「復活秘話」の著者でもある)から提供されたものであることと、淡路島以外でもこの歌に関心を持つ人がいることに両氏が感激しておられたということを記した会館の担当者のメモも添付されていた。「復活秘話」の内容は、あたかも小説のような素敵な話であり、ここにかいつまんで紹介したい。
長崎の小学校で「五色浜の子守歌」を習い、フィリピンに渡って歯科医を開業していた中野敏一さんが、1945 年の敗戦で長崎へ引き揚げてみると、生家は原爆で跡形もなくなっていた。彼はその時、とっさにこの子守歌を思い出し、淡路島へ行き、その南東部にある福良の歯科医院に身を寄せて勤務していた。その頃、福良小学校の先生で音楽の得意な平野まきゑさんが歯の治療に来た。そして、治療をした中野さんは、ギター伴奏で平野さんに「五色浜の子守歌」を聞かせた。これが縁で、二人は 1946 年にめでたく結婚した。1952 年、中野夫妻は念願の五色浜のある地域への転居を果たし、敏一さんは地域の小・中学校の校医も勤めながら、二人でこの歌を守り続けて来たということである。
「復活秘話」の著者・高鍋和男さんは、小学校長を退職して、五色浜教育委員会に勤務していた 1990 年 5 月、小学校同級生の一人から上記の「... ルーツ教えて」の投書を知らされた。そして、入院中だった中野まきゑさんを、院長の許可を得て、1990 年 12 月に採譜のためテープレコーダー持参で訪れた。まきゑさんは 1986 年に亡くなった夫・敏一さんのことを思い浮かべながら、涙ながらにこの歌を歌ったそうである。翌 1991 年 10 月には、「五色サルビアエコー」が、洲本市民会館で開催された淡路合唱祭で「五色浜の子守歌」を初披露し、全員合唱もして、大反響を呼んだとのことである。
「復活秘話」は次のように結ばれている。
明治 35 年(1902 年)生まれの中野敏一先生が「長崎の小学校で教えてもらった」と云うことは、明治の終わり頃、教えてもらっていることになります。日本音階で作曲されている、この子守歌は、貴重な日本の文化遺産です。中野敏一先生が掘り起こされた、この素晴らしい子守歌を、再び消滅させてはなりません。日本の古き良きもの——唱歌・童謡と共に、歌い継ぐ責務を感じています。この歌を私に歌ってくれた母も、中野敏一さんと同じ年の生まれである。「復活秘話」には、「... ルーツ教えて」の投書への反響としての投書 3 通が簡単に紹介されている。その中の「ほかの歌と一緒に亡き母から聞いた。特に『珠よりきれいな白い石、星よりきれいな青い石』のところは、テンポが速くなっており、美しいメロディーが心の中に残っている」(堺市、大学教授)という 1 通は、私がルーツ探しの手掛かりになればと思って、母の生年、出生地(金沢市)、学んだ場所(石川女子師範附属小から同師範)などを併記して送った投書である。ルーツ探しに直接役には立たなかったが、中野敏一さんと母の生年が同じであることからすれば、1902 年前後生まれの児童が日本各地の小学校で習っていた可能性がありそうである。
高鍋禮子さん、高鍋和男さん、そして、淡路文化会館の担当者・Y. Y. さんに深く感謝する次第である。
[注]
- 先の記事中に当初引用した「五色浜の子守歌」の歌詞は、朝日新聞への投書「... どなたかルーツ教えて」にあったものを使用した。その中の「花よりきれいな」となっていたところは、今回貰った資料から、「珠よりきれいな」が正しいと分かり、修正した。
- 高鍋和男「『五色浜の子守歌』復活秘話」、『ふるさとの歴史探訪』(鳥飼まちおこし協議会、2006)p. 168 所収。