シュウメイギク。2013 年 11 月 13 日、わが家の庭で。秋の午後の
低い太陽が背後から照らしていた。
Japanese anemone. Taken in my yard on November 13, 2013. The sun, low in the sky
of the autumn afternoon, was giving light from behind.
2013年10月分記事へのエム・ワイ君の感想
M・Y 君から "Ted's Coffeehouse 2" 2013 年 10 月分への感想を 2013 年 11 月 27 日付けで貰った。同君の了承を得て、ここに紹介する。
1. 漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」1~7
「私が夏目漱石の『草枕』を初めて読んだのは高校 1 年生のときだった。そのときに次のような読後感を記している」から始まり、以下のように続く前置きをしています。
主人公がどのような境地で絵を描くべきか、どのような絵を好ましく思っているかについての例としてあげている、ターナーの絵とミレーのオフエリアの絵について小説に書かれている個所をたどり、参考までに補足説明をします。ターナーの絵については、中学 1 年の国語教科書にあった『坊ちゃん』にも書かれていましたので、当時ターナーの絵自体をまだ見ていなかった私にも、知識だけが植えつけられました。筆者は第 3 回に、次のように述べています。
また、筆者の引用部分にある「好題目」について、、
徳富蘆花は明治 33 年に『自然と人生』を出版しています。短篇の小説や無韻の詩というべきもの、あるいは水彩画ともいうべきもの、およそ百篇を一巻にまとめたものです。同書は「風景画家コロオ」の章で結ばれています。そこには、「余は真にコロオの画を愛す、更に画家その人を絶愛す。[…]彼が世に遺しし名画幾幅は、今も猶自然の美を歌ひ、上帝の愛を歌ふて、斯の辛き世に於いて限りなき平和怡楽の一源泉となり、見るものをして清からしむ」とあり、蘆花が画家としてのコロオに傾倒し、創作に大いに影響を受けていることがうかがわれます。また、「彼は或点に於いて実に、印象派の第一先登なりき。[…]彼は詩情満身、自然の風景をとって、自家の詩腸詩眼によって洗練して出す詩人的画家にして、また自から知り、信ずる所を守って更に動ぜざる豪傑の士なり」と讃えています(文献 1)。
現在 95 歳の日本画家・堀文子は、「肩書を求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、何者でないものとして送ることを志して来た」、「私は画工です。アーティストと言うと何か得体の知れぬもの」と述べています。そして、様々な国を旅し、イタリアのトスカーナに滞在し、「風景は民族の思想…風景は自然を取捨選択しその国が作り上げた作品」と考えるに至ったとのことです(文献 2)。フランスのコローや堀文子のイタリアでの生き方には、上記の漱石の説く心境と一脈通じるところがあると感じました。
第 7 回は、第九章についてまとめられ、
文 献
2. 海外旅行から帰ってみると
「当地でまだキンモクセイの咲いていなかった 18 日朝のルフトハンザ機でドナウの船旅に向かった。今年はキンモクセイの花を見ないことになるかと思っていたが、28 日午前、わが家へ戻ると、庭のキンモクセイがちょうど満開だった」とのこと。海外旅行から帰られた時、庭の花が咲いて迎えてくれたことが前にも記されていました。この度は予期せぬ満開の花が迎えてくれてよかったですね。当地関東では 10 月 7 日ころが満開でした。御地と比べ 20 日も早いのですね。
1. 漱石『草枕』の主人公が唱える芸術の「非人情」1~7
「私が夏目漱石の『草枕』を初めて読んだのは高校 1 年生のときだった。そのときに次のような読後感を記している」から始まり、以下のように続く前置きをしています。
高校時代の日記につないで、芸術の「非人情」に疑問を呈したのでは、日記中で「非人情」を「あくまで芸術の中だけのことであろう」と述べて、「芸術中」では一応よしとしていることと矛盾するようである。ただし、日記中の「芸術の中だけ」が「小説中の主人公がそのように考えるだけ」を意味すると取れば、必ずしも矛盾はしない。こう考えると、『草枕』の主人公が唱える「非人情」は、作品の中だけでよしとされているのか、漱石自身が追い求めた境地なのかということを知りたくなる。『漱石全集第四巻』(岩波書店、1956)で再読した『草枕』のページをぱらぱらとめくってみた。ぱらぱらとめくってみても、答が求まる問題ではないが、巻末にある小宮豊隆の「解説」が助けてくれた。小宮は、漱石が『草枕』を書いている間に知人に当てた手紙に、「是とても全部の漱石の趣味意見と申す訳に無之」と記していることを引きながらも、次のように記している。このあと、筆者のこの課題解決への挑戦が始まります。全 13 章中、第 11 章まで主人公の唱える「非人情」に関する要所を余すところなく取り上げ、論評した優れた読み物となっています。各回に前回までの復習がなされているのも連載シリーズを読みやすくしています。勿論『草枕』の画工によって唱導された「非人情」説の境地は、後の漱石にも断えずあがこれの目標になっていた。[…中略…]漱石の晩年のモットオであった「則天去私」も亦『草枕』の「非人情」と重要な繋がりを持っている。しかし、この「則天去私」になるまでには、『草枕』の「非人情」説は、幾度もアンティテーゼを置かれて、十分鍛錬されなければならなかったのである。これによれば、「非人情」は、『草枕』執筆当時の漱石としてはまだ到達し切れていなかったが、晩年に到達した境地である、ということになる。そうとなれば、「小説中の主人公がそのように考えるだけ」は、成り立たなくて、私は、『草枕』初読および再読の結果としての、「漱石の非人情説」への感想をどうまとめるか、という課題を自らに課さなければならない。
主人公がどのような境地で絵を描くべきか、どのような絵を好ましく思っているかについての例としてあげている、ターナーの絵とミレーのオフエリアの絵について小説に書かれている個所をたどり、参考までに補足説明をします。ターナーの絵については、中学 1 年の国語教科書にあった『坊ちゃん』にも書かれていましたので、当時ターナーの絵自体をまだ見ていなかった私にも、知識だけが植えつけられました。筆者は第 3 回に、次のように述べています。
第三章で、主人公は静かな宿に泊まり、不思議な一夜を経験する。その途中で、「非人情」を目指しながらも修行が足りないという思いが、次のように述べられている。ここにある引用文の前に、小説では次の文があります。どれもこれも芸術家の好題目である。この好題目が眼前にありながら、余は入らざる詮義立てをして、余計な探りを投げ込んでいる。せっかくの雅境に理窟の筋が立って、願ってもない風流を、気味の悪さが踏みつけにしてしまった。こんな事なら、非人情も標榜する価値がない。もう少し修行をしなければ詩人とも画家とも人に向って吹聴する資格はつかぬ。
この故に天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の琳琅(りんろう)を見、無上の宝璐(ほうろ)を知る。俗にこれを名なづけて美化と云う。その実は美化でも何でもない。燦爛たる彩光は、炳乎(へいこ)として昔から現象世界に実在している。ただ一翳(えい)眼に在って空花乱墜(くうげらんつい)するが故に、俗累の覊絏(きせつ)牢として絶たちがたきが故に、栄辱得喪のわれに逼る事、念々切なるが故に、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。上記の引用中、「ただ一翳眼に在って~切なるが故に」は、一般人が芸術家の目を通さなければ現象世界の美に気づかない理由について、難解な文学的表現で述べたものであり、漢和辞典を引くなどでして意訳すると、「ただ、迷いや煩脳があれば正しく認識することができない故に、世間的な関係の束縛は牢固で断ちがたい故に、名誉や恥辱を得たり失ったりすることがわが身にせまることをひたすら思い続けている故に」となるでしょう。
また、筆者の引用部分にある「好題目」について、、
余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、誰が見ても、誰に聞かしても饒(ゆたか)に詩趣を帯びている。――孤村の温泉、――春宵の花影、――月前の低誦、――朧夜の姿――どれもこれも芸術家の好題目である。と、四つの出来事が具体的に書いてあります。さらに、次のように続きます。
昔し以太利亜の画家サルヴァトル・ロザは泥棒が研究して見たい一心から、おのれの危険を賭けにして、山賊の群に這入り込んだと聞いた事がある。飄然と画帖を懐(ふところ)にして家を出(い)でたからには、余にもそのくらいの覚悟がなくては恥ずかしい事だ。こんな時にどうすれば詩的な立脚地に帰れるかと云えば、おのれの感じ、そのものを、おのが前に据つけて、その感じから一歩退いて有体(ありてい)に落ち付いて、他人らしくこれを検査する余地さえ作ればいいのである。詩人とは自分の屍骸を、自分で解剖して、その病状を天下に発表する義務を有している。その方便は色々あるが一番手近なのは何でも蚊でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。
徳富蘆花は明治 33 年に『自然と人生』を出版しています。短篇の小説や無韻の詩というべきもの、あるいは水彩画ともいうべきもの、およそ百篇を一巻にまとめたものです。同書は「風景画家コロオ」の章で結ばれています。そこには、「余は真にコロオの画を愛す、更に画家その人を絶愛す。[…]彼が世に遺しし名画幾幅は、今も猶自然の美を歌ひ、上帝の愛を歌ふて、斯の辛き世に於いて限りなき平和怡楽の一源泉となり、見るものをして清からしむ」とあり、蘆花が画家としてのコロオに傾倒し、創作に大いに影響を受けていることがうかがわれます。また、「彼は或点に於いて実に、印象派の第一先登なりき。[…]彼は詩情満身、自然の風景をとって、自家の詩腸詩眼によって洗練して出す詩人的画家にして、また自から知り、信ずる所を守って更に動ぜざる豪傑の士なり」と讃えています(文献 1)。
現在 95 歳の日本画家・堀文子は、「肩書を求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、何者でないものとして送ることを志して来た」、「私は画工です。アーティストと言うと何か得体の知れぬもの」と述べています。そして、様々な国を旅し、イタリアのトスカーナに滞在し、「風景は民族の思想…風景は自然を取捨選択しその国が作り上げた作品」と考えるに至ったとのことです(文献 2)。フランスのコローや堀文子のイタリアでの生き方には、上記の漱石の説く心境と一脈通じるところがあると感じました。
第 7 回は、第九章についてまとめられ、
会話の終りに「鏡の池」の話が出て、那美は「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」という。と書かれています。この前に小説の第七章に伏線が敷かれています。主人公が湯槽につかり、「身体を出来るだけ抵抗力なきあたりへ漂」わせ、「流れるもの程生きるに苦は入らぬ。成るほど土左衛門は風流である」との実感を得て、次のように考えています。
[…]ミレーのオフェリヤも、こう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで不審に思っていたが、あれはやはり画になるのだ。水に浮んだまま、あるいは水に沈んだまま、あるいは沈んだり浮んだりしたまま、流れる有様は美的に相違ない。それで両岸に色々な草花をあしらって、水の色と流れて行く人の顔の色と、衣服の色に、落ちついた調和をとったなら、きっと画になるに相違ない。しかし流れて行く人の表情が[…]全然色気のない平気な顔では人情が写らない。どんな顔をかいたら成功するだろう。ミレーのオフェリヤは成功かもしれないが、彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮かんで来そうもない。湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作って見る。
文 献
- 『自然と人生』(ワイド版岩波文庫、2005年)。
- ヒューマンドキュメンタリー『画家・堀文子93歳の決意』NHK テレビ総合 2011 年 12 月 23 日放送
2. 海外旅行から帰ってみると
「当地でまだキンモクセイの咲いていなかった 18 日朝のルフトハンザ機でドナウの船旅に向かった。今年はキンモクセイの花を見ないことになるかと思っていたが、28 日午前、わが家へ戻ると、庭のキンモクセイがちょうど満開だった」とのこと。海外旅行から帰られた時、庭の花が咲いて迎えてくれたことが前にも記されていました。この度は予期せぬ満開の花が迎えてくれてよかったですね。当地関東では 10 月 7 日ころが満開でした。御地と比べ 20 日も早いのですね。