私たちの「湯川秀樹を研究する市民の会」では、先に 湯川のノーベル賞論文の翻訳を試みた。その結果はシンポジウムの報告集 [1] にまとめたが、さらに、解説、訳注、その他学んだことを合わせて、本として出版しようという計画がある。訳注については、翻訳を試みる段階で、Sさんがある程度準備していた。その中で、「パウリがニュートリノを『クソッタレ粒子』とかいったが、出典を忘れた」との話があった。Mさんは、それに近い表現として、パウリがニュートリノの存在を提唱した手紙の中で "desperate remedy (やけくその救済案)" と呼んだことが朝永の『スピンはめぐる』[2] に書かれている旨を、会員宛のグループメールで紹介した。
ヴォルフガンク・パウリは、原子核のベータ崩壊によって出て来る電子のエネルギー分布が、エネルギー保存則を破っているように思われたことから、これを救うために、エネルギーを持ち逃げしているはずの未発見の粒子の存在を、上記の手紙によって1930年に提唱した。当時の学界では新しい粒子を考えることなどご法度のような雰囲気があり、彼はこの提案を論文にはしなかった。(パウリは提唱した粒子を、電荷を持たない中性のもので、質量は陽子の0.01倍以下と考え、ニュートロンと呼んだが、間もなくジェームズ・チャドウィックが陽子と同程度の質量を持つ中性の粒子を見つけ、これをニュートロンと名づけた。そこで、パウリの提唱した粒子はエンリコ・フェルミによってニュートリノと改名された。)
「クソッタレ粒子」という言葉の出て来る文献は見当たらないが、「やけくその救済案」が文献にあるということから、私は、準備中の本に入れる訳注では、「クソッタレ粒子」に代えて、「やけくその救済案」を採用してはどうかと思った。そこでMさんに、「やけくその救済案」という言葉は『スピンはめぐる』の第何ページに書かれているか教えて欲しい、とグループメールで頼んだ。私は『スピンはめぐる』の英語版 [3] は持っているが、それを見ても "desperate remedy" の和訳はないのである。
Mさんの返事は、「朝永がそう呼んでいるのではなく、第12話にあるパウリの手紙の英訳抜粋中の "desperate remedy" を私が単に直訳しただけ」というものだった。「やけくその救済案」は名訳なので、私はてっきり朝永の訳と思っていた!
『スピンはめぐる』の英語版 [3] を見ると、同書の ”Lecture 9"(第9話)の終わり近くにもパウリの同様な手紙の英訳が引用されている。朝永は、第9話に引用した手紙(もとは、J・イェンゼンがノーベル賞受賞講演 [4] で引用したもの)は、理論家向けのもので、第12話に引用した手紙(もとはアメリカの高校生用の物理学の補助教科書にあったという)は、そのような粒子(ニュートリノ)を見つけることを勧めているので、実験家向けのものだろうとしている。
しかし、イェンゼンの引用はごく一部で、ドイツ語の原文を併記してはあるが、同じ手紙からの文を分かりやすく並べ替えた可能性もあるのではないかと私は思う。イェンゼンの英訳中では、 "desperate remedy" に対応する言葉が "desperate conclusion" となっているが、その部分のドイツ語は "einen verzweifelten Ausweg" で、朝永が第12話に引用しているものの原文と思われるドイツ語の手紙 [5] でも同じ言葉である。この言葉は、独和辞書にあるそれぞれの語の訳をつなげば、「すてばちの逃げ道」ということになり、「やけくその救済案」は、もとのドイツ語とパウリのおかれた状況から考えても名訳といえると思う。
Pauli の手紙は、チュービンゲンで開催された放射能専門家の会議に出席していた物理学者たちへ宛てた公開書簡形式のものである。その手紙は、もとは手書きだったのか、文献 [5] が引用している写真コピー [6] は、1956年にパウリがリーゼ・マイトナーからタイプ打ちした形で得たものと記されている。マイトナーは、オーストリア-スウェーデンの女性物理学者で、ベータ崩壊で放出される電子が連続スペクトルを持つことを示し、パウリのニュートリノ仮説に手がかりを与えた人である。また、1956年といえば、フレデリック・ライネスとクライド・コーワンがニュートリノの検出に成功した年である。そこで私は、パウリはその機会に、かつての自分の提案をどこかに書くため、手紙の持ち主を探したのだろうかと想像した(これに関連した話は次回に記す)。
なお、朝永は『スピンはめぐる』の第10話中でも、フェルミがベータ崩壊の説にニュートリノを考慮に入れて成功したことの記述に関係して、「パウリが "deseperate remedy" と呼んだものは実際には有望なものだった」と述べて、この言葉を出している。同書の英語版では、先に述べた第9話中の "desperate conclusion" の出てくるページと、上記の第10話中のページとを、索引の "Pauli" の項中の "desperete remedy" の項で挙げている。しかし、肝心の、パウリがニュートリノ説を提唱した手紙をより詳しく引用している第12話のページが索引に抜けている。
文献
- 市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム プロシーディングス (大阪科学振興協会, 2008).
- 朝永振一郎, スピンはめぐる―成熟期の量子力学 (中央公論社, 1974).
- S. Tomonaga, The Story of Spin, translated by T. Oka (Univ. Chicago Press, Chicago, 1997).
- J. Hans D. Jensen, Glimpses at the history of the nuclear structure theory, Nobel Lecture (1963).
- K. Riesselmann, Logbook: Neutrino invention.
- Photocopy of Pauli's letter, December 4, 1930.
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