この記事の前回分 (1) の後半(「『スピンはめぐる』の英語版を見ると」以下)に相当する内容を私が湯川会会員宛のグループメールで流したところ、Mさんから、次のような情報が返って来た。
新版『スピンはめぐる』[1] には、江沢洋氏の注と解説が付き、英語版からの鮮明な写真を用いたり、式で使用する単位系をCGSガウス単位系からSI単位系へ書き換えるなど、旧版に比べ読みやくなっている。第9話の、手紙が引用されている部分の江沢氏の注には、文献 [2] に全文が引用されていること、この公開書簡への反応としてはハンス・ガイガーが、マイトナーと議論し肯定的で、激励する手紙をくれたとパウリが書いていること、1931年のローマでの核物理国際会議でパウリが講演した時にはフェルミが活発な興味を示したが、ニールス・ボーアはまったく反対の立場をとったこと、などが記されている。パウリの書簡の冒頭にある radioactive lady とは、マイトナーのことだと『スピンはめぐる』に、朝永が書いている。——パウリは [2] の思い出話を書くためにマイトナーから逆にコピーを貰ったのかも知れない。
そこで私は、[2] の話が載っている『物理と認識』の原書をインターネットで探してみた。「やけくその救済案」に相当する言葉が出て来る最も古い文献を知りたかったからである。その結果、文献 [3] が見つかった。1961年という発行年は、アブラハム・パイスが [4] にパウリ書簡を引用したとしている本 [5] や、前回引用したイェンゼンのノーベル講演 (1963) より古く、一応目的を達した。しかし、公開書簡の掲載されているページナンバーまでは分からなかった。
インターネットの検索からは、別の、もっと新しい本の英語版 [6] にも、『物理と認識』中の「ニュートリノの新しい話、古い話」と同じ章、"On the earlier and more recent history of the neutrino" のあることが分かった。この章は、1957年1月、C-S・ウーによるパリティの破れの実験的検証の最初の報告の直後に行った講演をもとにしたもの、とある(同書 p. 194;公開書簡は p. 198 に掲載)。なお、この章の中身は思い出話というより、ニュートリノについての研究史の概説であり、講演の前年に発表されたライネスとコーワンとによるニュートリノ検出の成功にもふれてある (p. 208)。パウリは1958年12月に膵臓がんで死去しているので、そのわずか2年近く前の講演ということになる。といっても、彼は1900年生まれであり、まだ50代の若さで逝ったのである。死去した病室の部屋番号は、彼がその値の理由を気にしていた微細構造定数の逆数の近似値137と同じだったそうである [7]。
文献
- 朝永振一郎, 新版 スピンはめぐる―成熟期の量子力学 (みすず書房, 2008).
- W・パウリ, ニュートリノの新しい話、古い話, 『物理と認識』所収, 藤田純一訳, pp. 80−107 (講談社, 1975). パウリの公開書簡は p. 84.
- Wolfgang Pauli, "Aufsätze und Vorträge über Physik und Erkenntnistheorie" (Vieweg, Braunschweig, 1961).
- Abraham Pais, "Inward Bound" (Clarendon Press, Oxford, 1986).
- Wolfgang Pauli, "W. Pauli, Collected Scientific Papers," Eds. R. Kronig amd V. Weisskopf, Vol. 2, p. 1313 (Interscience, New York, 1964).
- Wolfgang Pauli, "Writings on physics and philosophy," Edited by Charles Paul Enz and Karl von Meyenn, Translated by Robert Schlapp (Springer, Berlin, 1994).
- "Wolfgang Pauli," Wikipedia, the free encyclopedia (28 April 2009, at 13:15).
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