2005年2月27日日曜日

告白性と虚構性(2)

S さん

 題名がすでに登録済みということを想像しないではなかったのですが、前回は取りあえず、いいたいことをいわせて貰いました。きょうは、おっしゃったように題名はそのまま、という条件のもとで、目次以下のやや詳細な点について提言します。

(1) 目次について

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との相違

という節があれば、

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との類似

という節も欲しいところです。「告白」という言葉を含む作品を中心にする論文である以上、類似を先に持って来たい気がしますが、それはどちらでもよいでしょう。類似の節の中身は、『仮面の告白』中の告白的特徴を持つ部分として、いまの草稿案第二部がそのまま入るでしょう。そうすれば、第二部の題名として上記の二番目の題名を用いて、現在の第二部の題名を、次のように副題にすることが考えられます。

   三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との類似
    ―「私」に芽生えた同性への執着―

 これらの節との関係で見るとき、いまの第三節はどういう意味のものか、が気になります。三島の正常な家庭生活を考えると、ここに紹介してある部分は、『仮面の告白』の中で、創作性の強い部分といえないでしょうか。そのせいか、私はその辺りを読んだとき、それ以前の部分よりも強烈さが乏しく、メロドラマ風だと感じたのでした。この見方がよければ、第三節の題名を

   『仮面の告白』の「私」の創造的部分
    ―思春期における対象―

のようにすることが考えられます。
 なお、上記のように、私の語には「」をつけるのがよいと思います。

(2) 序論について

 序論に考察がかなり入り込んでいる感じがします。いつか「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる。」とは、どういう意味かとお尋ねでしたが、まさにこの文が教えているように、序論には、結論を導くための「問い」をしっかり書いておくべきです。たとえば、

 『仮面の告白』の「私」は、どこまでが三島自身の告白であり、どこからが三島の創作・脚色だろうか。『仮面の告白』の「私」は三島自身の性格の二面性(一般性と特殊性の共存)を示唆するといえるだろうか。本論文ではこれらの点について考察してみたい。

というように。そして、考察的な部分は「結論」の前に「考察」というような節を設けて、そちらにまとめてはどうでしょうか。

(3) 『仮面の告白』の自伝性(告白性)の一論拠

 新潮文庫版巻末の佐伯彰一の解説は、「自伝的小説と受けとる方がいい」と述べています(p. 234 半ば)。この前後の文は『仮面の告白』の自伝性の一論拠として有用でしょう(指導教官氏は、作者と主人公は別物とお考えだそうですが)。

(4) 参考文献の利用

 参考文献が沢山挙げてありますが、それらの中から、関連する有用な記述をできるだけ引用するのがよいと思います(各引用毎に、出所を明記して)。私のある文系の友人は、文系の論文を書く仕事は、参考論文をよく調べ、よく利用することがほとんどすべてだ、というようなことをいっていました。

 なお、私がアマゾンへ投稿した『仮面の告白』の書評を下に引用しておきます。ご利用できる部分があれば、適当に使って貰って結構です。

【華麗な漆絵のように描かれた性の悩み】

 主人公「私」の出生から 23 歳にいたるまでが、性に関する告白の形で述べられている。幼年期の「私」の経験には、少なくない男性が多少なりとも共通した記憶を呼び覚まされるであろう。…(中略)…作者 24 歳のときの、最初の書下ろし長編である。巻末の解説にいう「自伝的小説と受けとる方がいい」に賛成する。[1]

  1. このレビューの全文はこちらでご覧になれます。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 02/27/2005 13:23
 私の意見を忌憚なく述べさせて頂きますので、ご友人の参考にして頂ければ、と望みます。
 卒論題目は「三島由紀夫と『仮面の告白』の「私」との相違」という目次を主内容とした題目でしょうか(語感がよくないです。)。『仮面の告白』における「私」を「」書きにするのは当然ですが、そもそも、三島由紀夫というのは作家名でして、実物の三島由紀夫(平岡公威)とは別人でして、三島由紀夫は、『仮面の告白』他の大変な独自性の高い小説を生み出すために、人生のかなりの部分を生きたわけです。その作家・三島由紀夫(こちらは作家のプロ)と、『仮面の告白』中の「私」(こちらは主人公のプロ)との相違、類似、といったテーマで論文を書かれる発想が、作家・小説家が何者であるのか、彼らはなぜ「作品を通して」、実人物ではないけれども作家としての彼ら(三島由紀夫ら)、そして実人生の苦しみや悲しみなどを生きた彼らが、読者におのずと伝わってくるのか、小説を読んだ感動にとどまらず、三島作品でも次々と読んでいけば、そのような「心の連鎖」が「読者」の中に生まれるはずです。
 つまり、『仮面の告白』の「私」と三島由紀夫に注目した卒論を書かれるなら、客観的にこの作品の何々の相違とか、類似性とかを述べるのではなくて、この小説を読まれた「読者」(卒論執筆者)の心の連鎖を論理構成してゆくほうが、「主観的世界を生かし切った論文」として評価されるのでは、と思います。
 さらに、「序論には、結論を導くための『問い』をしっかり書いておくべきです」と書かれていますが、これは間違いだと思います。文科系で、始めから解っている結論を導くための「序論」を置く、という論文の書き方は、「拝啓 敬具」のお手紙や受験数学と違うのですから、実に文科系論文執筆の創造性に欠ける書き方です。京大でも大学院でも、私は、結論などなくてもよい、ぶっとんでいてもよいという研究者教育でしたが(せめて「今後の課題」にとどまりませんか? これは定番すぎますが)。このような地点に自らの感性と一体となった思考が到達するであろう「予測的発想・思考」は、卒論においても生じえますが、書いているうちに必ずどんどん裏返され、章立て変更、書き直し、削除だらけの作業です。そして論文執筆者の「生きる・生きた体験」=この場合は読書の主観的体験を深めてゆく中で、どのような論理や創造的批判点が見出せるか…ここまでくれば、自然にこれらの論述は実現可能です。
 まず、読者さんなのですから、三島由紀夫の処女長編の、このとんでもない独自芸術の文章、男性性への憧憬や執着と、男性としての自己の脆弱さ、それがどのように作品中で「告白」されているか、「仮面」はなぜ、どのように「告白」し、それが読者の心にどのような影響を及ぼすのか、といったことについて書かれたらよいのに、…等などと思います。
 また、続きの意見を書かせて頂いてよいなら、空いている時間に書きますので、ご参考になさってくださいね。

Ted 02/27/2005 15:28
 本記事にアクセスしていただいた時点では、前編へのアクセスが不能の状態だったかと思います。記事公開の選び方が間違っていました。ご不便をおかけし、すみませんでした。
 私も、卒論は主観的構成がよいとは思います。しかし、S さんはどちらかといえば論理構成を得意としない人であり、原稿用紙 100 枚程度書かなければならないと聞いて、自己の主観でそれだけ書くのは難しいと考えたと思います。それで、S さんは過去の評論同士の比較を多く盛り込もうと、いろいろ参考書を読みあさっており、すでに指導教官のアドバイスも一、二度受けています。そういう時点での私の助言は、あまり大きく方針を覆す形では出せなかったことをご理解下さい。
 「『序論』に結論を導くための『問い』を書いておくべき」というのは、確かに間違いかも知れません。私がいいたかったのは、始めに「緒言」があって、そこに「問い」が書かれているべきだということです。これは論文の読者に論文の見通しを与え、その理解を容易にするためのサービスとして必要と思います。「緒言」は「結論」あるいは「今後の課題」を書いたあとで書いて、前に置けばよいのです。「章立て変更、書き直し、削除だらけの作業」があっても、その結果としてでき上がった論文は読みやすい形に整えるべきです。S さんに大学から与えられた卒論執筆の指導書に「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる」という言葉があったということを以前に聞いていましたので、私は、それを尊重する意味でも、レトリックとしての問いを先に書くことを S さんに注意すべきだと思いました。
 続きのご意見を歓迎します。

Y 02/27/2005 17:47
 Ted さんの先のブログにある論文題目への提案、「三島由紀夫の作品における告白性と虚構性――『仮面の告白』を通して」に私も賛成です。もちろん、出来上がった論文は、読みやすい、説得力のある、そしてこう言うべきなのですが、格好の決まったものでなければならないのですが(題目、章立てひとつとっても)、もうひとつ、やはり文学も教育学も哲学も、人間学としての精神病理学でも、文科系論文は「芸術的な思考・感性作品」でなければならず、そのための章の入れ替え、書き直しなどの作業であるわけです。ですので、大学の通信教育で卒業するのはいかに大変か、多くの体験者が言っているのですが(仏教大学でも、8 年在籍して退学、などの多い世界です。難関そうに言われている大学の通信は、卒業率3%など)、S さんが指導教官から、論文は問題と答えであり、レトリックである、と教えられているのは、(過去の研究をふまえたうえで)「問題」をまず提示せよ、という部分以外は、「違いますね」と、私の受けてきた学者教育から、言うことができます。
 それで、先行研究ですが、本当の文学研究を調べないと、文芸評論というのは、文学そのものとはかなり一線を画しているという問題があると私は思っていますから、そうして、参考文献をふまえるのは当然でして、だいたい、卒論レベルだと、大物一冊(ご友人の場合だと『仮面の告白』で十分です)を相手にして、体当たりで執筆するのであって、先行研究や参考文献を大いに引用しても、それで「飾りつけ」をしてはいけない、ということです。「緒言」「問題」は最後に書く、という人は多いですよ。とにかく、私が前にブログで哲学というものについて一般の方に語りましたように、「知的に操作的に書いた、あるいは他の誰かの影響を引きずった、自分自身のものでない」卒論は、全部見破れるのが、本場の教官というものなのです。これは大学院でもそうでしたので。なので、大物一冊にちっぽけな自分が体当たりするためには、論文執筆作業でいろいろな組み換えや、卒論執筆者「自身」がそれまで生きてきた範囲をこえて、人間的に変わらなければならない…これが、私がまず学部レベルで教え込まれたことです。
 いろいろな重要文献・名著を多彩にあやつって、自分の言いたいことを論文体裁で書けるようになるのは、私のいたような大学の助手・助教授以上になってから、の話です。ですので、ご友人が『仮面の告白』一冊に絞っておられるのは、大変正解でした。
 流派がまったく違っても、私が個人的に指導を再びお願いしようとしている東京の哲学者が書かれた一般向けの本のタイトルをご覧になっても、論文を書くということと彼の一般向け著書の執筆とが切り離せないということで、上記の私の論文にかんする方針がおわかりいただけるのでは、と思います。

Ted 02/27/2005 19:59
 「論文は問題と答えであり、レトリックである」と教えられているのではないのです。原文は「論文はどんな論文でも、問題と答えである。レトリックの問題としてとらえる」です。これは、もっと丁寧にいえば、「論文はどんな論文でも、問題と答えである、ということができるが、これは、論文のレトリック面をいっているのである」ということでしょう。論文の内容について、レトリックであれ、といっているのではないのです。この点を理解して貰えば、S さんの教えられたことが、間違いということにはならないと思います。
 「大物一冊を相手にして、体当たりで執筆するのであって、先行研究や参考文献を大いに引用しても、それで『飾りつけ』をしてはいけない」は、よい言葉と思います。S さんに伝えましょう。ありがとうございました。

Y 02/27/2005 20:49
 なるほど、指導教官の方のお言葉の趣旨など、よくわかりました。その意味での論文のレトリックをまず身につけるのが最初にするべきことですし、「問題」を提示しておいて、それに自分なりに立派に「答え」ようとしない執筆者は認められませんから、その通りです。
 そのような基本的体裁・技術を身につけたうえで(参考文献の表記方法、一マス・三行空けなど、校正はすべて、執筆者がしなければなりませんしね)、ご友人には、私が上に書かせて頂いたような内容を、Ted さんのご判断でお伝えください。

Ted 02/27/2005 21:57
 はい。Y さんの貴重なご意見を参考にして、もう一度助言をしておきましょう。

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