2005年2月13日日曜日

体育時間の Vicky

高校時代の交換日記から。

(Ted)

1952 年 2 月 13 日(水)曇り

 胸の上に重石がのっているようだと感じることのある弱い心をなくさなければならない。リントン・ヒースクリッフのように弱々しい。体重が減っている。Sam の 83% ほどしかない [1]。

(Sam)

 "To be or not to be, that is the question."
[2] という言葉をどこかで聞くか読むかしたかい。何と訳したらよいのだろう。

(Ted)

1952 年 2 月 14 日(木)曇り

 アセンブリーは金大の管弦楽団を招いての音楽鑑賞だった。始めに指揮者が楽器の説明をした中で、クラリネットが、夜の街を動き回って哀愁深い音を流す屋台中華そば屋のチャルメラそっくりの音を出して、われわれに大拍手を起こさせた。ベートーベン、シューベルト、モーツァルトの各1曲ずつが演奏された。曲目を読み上げる生徒会文化委員の YMG 君の声は、「音楽の泉」の堀内敬三さんのよりも太い低音でスピーカーから響いた [3]。
 5限の始めから、KJ 君がとても沈んだ顔をしていた。悩みの種は何だろうかと思ったが、講堂に座った時に彼の話を聞くと、彼に対する UE 君の無責任さというようなことだったので、なぜかつまらないと感じた [4]。
 赤いセーターの腕がさっと頭上へあがり、中指の先が外へそるまでに伸びて、ボールをシャープにはね返す。軽く、しかもしっかりと床をふまえている、茶色ズボンの長くすらりとした脚の動きもスムーズである [5]。羊膜や尿のうを作り、胚膜の一部を胎盤に転用して臍帯で連なって栄養を受け …、こうして生長してきた細胞の集まりであることに変わりはないが——。自然はデリケートな工作をする。
 接触か沈黙か。「会話が方便に過ぎない」とすれば、沈黙を守らなければならないように思われる [6]。しかし、なぜ会話が方便に過ぎないのだろうか。「めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ」ということについては一応うなずけるが、何ものもうちにあるだけでは、何の役割も果たさないではないか。秘めているものを実践面へ持ち出すことの出来ない人間は、蔑視されても仕方がないということにならないだろうか。
 心の深さを測る物差しがあるのは何次元世界だろうか。その世界では、心は有形有色であろう。そこに住む人間は、われわれが手を伸ばして友を助け起こすように、彼らの胸にしまっている心で友の身体を抱き起こすだろう。いや、心の物差しは別として、いま想像したことは、この世界の心の働きと大差ない。表現してみたかったのは、身体の各部が心のままに(耳を動かそうというのとは異なった意味で)活動できるような、実践が極致に達している世界の想像図である。——(経験+考察)/論理=結論と表されるかと思われる方程式の左辺が、昨日の討論会以上に複雑化してきて、右辺に到達しない。——

 引用時の注

  1. Sam は少し前に体重が 55.5 kg と書いていたから、私は 46 kg だったようだ。
  2. 有名なハムレットのせりふだが、Sam はこの日、英語の時間に初めてお目にかかったらしい。
  3. YMG 君はのちに北陸文化放送(MRO)のアナウンサーになった。
  4. 悩み顔から、女生徒の関係する問題かと想像したのが外れて、つまらなく思ったのだった。
  5. 体育の時間にバレーボールをしていた Vicky の描写である。
  6. 夏休みに試みた Vicky への接触が不首尾だったので、再度接触を試みるかどうかを、Sam が先に引用していたヘンリー・ソローのことばを参考にして考えていたのである。

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