高校時代の交換日記から。
Sam が日記帳に描き込んでいた KD 君の
「似ても似つかない」似顔絵の原寸大コピー。
(Sam)
1952 年 2 月 9 日(土)曇り
実物とは似ても似つかない顔になった。こんな顔でないことをくれぐれも断っておく。とにかく、一人のごく親しい友人ができていることを、いいかげんに紹介しておかなければならない。彼の名は AK・KD、どんなニックネームを持っているか知らない。ちょっと適当なそれがない。これまでにも数度、この名前は書いたはずだ。ぼくと同じホームルームに属する。昨年 11 月頃、タイプ・クラブに入部してから、ぐんと近しくなった。二学期中は、英語の時間に彼と隣り合っていた。この前、共栄館で Ted たちに会った時、ぼくの連れが二人いたろう。そのうちの一人だ。あの時紹介しておけば分かりやすかったのに、と思うが、そうできなかったのは残念。あす彼の家へ行くことになった。用件は一週間前に彼から貰った紙片の具体的な行動を起こすためだ。
(Ted)
解析は時間の初めを普通の通りに使ったあとで、2 次、分数、無理、各関数の不等式の範囲をグラフで示して解答する問題 8 題が黒板に書かれた。ノートや教科書は見てもよいが、話をしてはいけないという形での試験だった。1題目の y < 3x2 − 2 の右辺を 3[x2 − (2/3)x + (1/3)2 − (1/3)2] などと間違って「変形」しているぼくを見た Y・S 先生は、海におぼれているわが子を発見した母親の絶望的な叫びを小さくしたような声で、「何してるの?! どこに x の項がある?!」といわれた。底知れないあわて者!
5~8 題目はその中の 2 題をすればよかったのだが、全部するつもりで7までしか出来なかった。MRR 君や UE 君に「最後のはどうなった?」と聞かれても、いつものぼくのように答えることが出来ず、どこかに一人取り残されたような気持ちに襲われた。決められただけ出来たからよいだろうって? 先生に注意されなければ、最初の 1 題にもっと多くの時間をかけ、そして間違ったグラフを描いていたはずだ。Vicky が用紙を配られる時に急いで何かを TJ 君に尋ねていて、次の時間になっても無理関数のグラフを気にしたり、ぼくと同じく——いや、ぼくほど、はなはだしくではあるまい——まごついたような調子で「y = 3x2 − 2 のグラフは?」といったりしていたことが、妙な安心感を与えたが …。
S・Y 先生は藤村の「千曲川旅情の歌」第 2 連の初めの 2 行 [1] を、どういう意味でか、口ずさんでおられた。
昨晩ときょうの午後のぼくが何をしていたかを Sam が知ったならば、そのくだらなさに物もいえないだろう。●!
やはりどうかなっていたのだ。盲学校へ持って行って、SK 先生に調べて貰ったラジオが、すっきりとした音を出すようになって戻って来る [2]。「嵐が丘」を読み終え、録音ニュースが終った時刻、ラジオを購入以来欠かさずに聞いている番組を、今晩はあきらめなければならないかと思っていた時、——おう、入った。3 日間扱わなかったものだから、1170 kc を1070 kc と勘違いしていた。
引用時の注
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
テディ 02/07/2005 19:40
その当時の石川県のラジオは、MRO が 1952 年 5 月の開局とありますから、この日記が書かれた時点では NHK のみだったのでしょうね。1170 kc は現在の MRO の1107 kHz に近いので、ひょっとしたら?と思ったのですが。
Ted 02/07/2005 20:21
そうです。このときは、まだ NHK だけでした。MRO のことをよくご存知ですね。高校同期で放送クラブにいた一人の友人は、なまの声が当時のラジオの電波にのったような響きを持っていましたが、大学卒業後就職した商事会社が気に入らず、金沢へ戻り、MRO のアナウンサーを経て、同局の重役になっていました。私が大学院生の頃、休暇で郷里へ帰った折にラジオを MRO に合わせると、彼がニュースを放送していたりしたものです。
テディ 02/07/2005 23:06
私はラジオ好きな少年でした。遠い国や地方から飛んでくる雑音にまみれた電波を聞いて、その国その地方のことをあれこれ想像するのが好きだったのです…。ましてや、MRO は私の「生まれ故郷」の放送局。深夜になると雑音に邪魔され、フェージングがかかりながらどうにか大阪でも聞くことが出来ました。
Ted 02/08/2005 07:37
へぇ、そうでしたか。
「似ても似つかない」似顔絵の原寸大コピー。
(Sam)
1952 年 2 月 9 日(土)曇り
実物とは似ても似つかない顔になった。こんな顔でないことをくれぐれも断っておく。とにかく、一人のごく親しい友人ができていることを、いいかげんに紹介しておかなければならない。彼の名は AK・KD、どんなニックネームを持っているか知らない。ちょっと適当なそれがない。これまでにも数度、この名前は書いたはずだ。ぼくと同じホームルームに属する。昨年 11 月頃、タイプ・クラブに入部してから、ぐんと近しくなった。二学期中は、英語の時間に彼と隣り合っていた。この前、共栄館で Ted たちに会った時、ぼくの連れが二人いたろう。そのうちの一人だ。あの時紹介しておけば分かりやすかったのに、と思うが、そうできなかったのは残念。あす彼の家へ行くことになった。用件は一週間前に彼から貰った紙片の具体的な行動を起こすためだ。
(Ted)
解析は時間の初めを普通の通りに使ったあとで、2 次、分数、無理、各関数の不等式の範囲をグラフで示して解答する問題 8 題が黒板に書かれた。ノートや教科書は見てもよいが、話をしてはいけないという形での試験だった。1題目の y < 3x2 − 2 の右辺を 3[x2 − (2/3)x + (1/3)2 − (1/3)2] などと間違って「変形」しているぼくを見た Y・S 先生は、海におぼれているわが子を発見した母親の絶望的な叫びを小さくしたような声で、「何してるの?! どこに x の項がある?!」といわれた。底知れないあわて者!
5~8 題目はその中の 2 題をすればよかったのだが、全部するつもりで7までしか出来なかった。MRR 君や UE 君に「最後のはどうなった?」と聞かれても、いつものぼくのように答えることが出来ず、どこかに一人取り残されたような気持ちに襲われた。決められただけ出来たからよいだろうって? 先生に注意されなければ、最初の 1 題にもっと多くの時間をかけ、そして間違ったグラフを描いていたはずだ。Vicky が用紙を配られる時に急いで何かを TJ 君に尋ねていて、次の時間になっても無理関数のグラフを気にしたり、ぼくと同じく——いや、ぼくほど、はなはだしくではあるまい——まごついたような調子で「y = 3x2 − 2 のグラフは?」といったりしていたことが、妙な安心感を与えたが …。
S・Y 先生は藤村の「千曲川旅情の歌」第 2 連の初めの 2 行 [1] を、どういう意味でか、口ずさんでおられた。
昨晩ときょうの午後のぼくが何をしていたかを Sam が知ったならば、そのくだらなさに物もいえないだろう。●!
やはりどうかなっていたのだ。盲学校へ持って行って、SK 先生に調べて貰ったラジオが、すっきりとした音を出すようになって戻って来る [2]。「嵐が丘」を読み終え、録音ニュースが終った時刻、ラジオを購入以来欠かさずに聞いている番組を、今晩はあきらめなければならないかと思っていた時、——おう、入った。3 日間扱わなかったものだから、1170 kc を1070 kc と勘違いしていた。
引用時の注
- 「昨日またかくてありけり/今日もまたかくてありなむ」
- 母が盲学校の教員をしていたので、同校の理科の先生にラジオの故障を直して貰ったのだ。その頃の私は、まだ自分でラジオを修理するほどの理科人間ではなかった。盲学校は私の通っていた菫台高校の隣。どちらも、間借りしていた家のすぐ近くだった。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
テディ 02/07/2005 19:40
その当時の石川県のラジオは、MRO が 1952 年 5 月の開局とありますから、この日記が書かれた時点では NHK のみだったのでしょうね。1170 kc は現在の MRO の1107 kHz に近いので、ひょっとしたら?と思ったのですが。
Ted 02/07/2005 20:21
そうです。このときは、まだ NHK だけでした。MRO のことをよくご存知ですね。高校同期で放送クラブにいた一人の友人は、なまの声が当時のラジオの電波にのったような響きを持っていましたが、大学卒業後就職した商事会社が気に入らず、金沢へ戻り、MRO のアナウンサーを経て、同局の重役になっていました。私が大学院生の頃、休暇で郷里へ帰った折にラジオを MRO に合わせると、彼がニュースを放送していたりしたものです。
テディ 02/07/2005 23:06
私はラジオ好きな少年でした。遠い国や地方から飛んでくる雑音にまみれた電波を聞いて、その国その地方のことをあれこれ想像するのが好きだったのです…。ましてや、MRO は私の「生まれ故郷」の放送局。深夜になると雑音に邪魔され、フェージングがかかりながらどうにか大阪でも聞くことが出来ました。
Ted 02/08/2005 07:37
へぇ、そうでしたか。
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