Abstract: Minako Saito writes in her literally review of June (in Asahi Shimbun dated June 29, 2011) that her review of April (see the abstract of my previous post) has been criticized by Yuyu Soma in the magazine Bungakukai and expresses her opinion against his criticism. Soma's commentary is considered to be based on a totally erroneous view of information available on the risk of nuclear power, as compared with information on "safety myth" from the Government and electric power companies. I write the reason for this by quoting articles from Shimbun Akahata and New York Times [1]. (The main text is given in Japanese only.)
2011年4月27日付け朝日紙掲載の斎藤美奈子による「文芸時評」は、注目に値する、と前報に記した。6月29日付け同欄に斎藤は、自分の4月の文章を、『文学界』7月号のコラム「鳥の目・虫の目」で、相馬悠々と名乗る正体不明の執筆者が「ナイーブな発言」と批判していることを述べ、それに反論している。私も斎藤の文を褒めた以上、その批判には反論すべき立場にある。
斎藤の反論の主旨は次の通りである。—「自らの責任を問うことこそ誠実」とする相馬悠々の意見は、敗戦直後の「一億総懺悔」を思い出させる。責任は自分にも問うけれども、外にも問わなければならない。そこをあいまいにしたら、私たちはまた同じ轍を踏むことになる。—
これで反論は十分に成り立っていると思う。しかし、さらにいえば、斎藤が紹介している相馬悠々の批判主旨の中に、原発が危険だという情報はあふれていたのに、多くの人びとは楽観視しスルーした、という箇所があり、相馬の批判は情報の分量や効果の誤った把握の上に立つものであり、考慮に値しない程度のものである。
原発の危険を指摘した著書や発言の絶対数は確かに少なくはなかったであろう。とはいっても、原発の安全宣伝、いわゆる「安全神話」の発信に使われた政治の権力、それに支えられた電力会社の金力、これらが作り出した虚偽の情報量とその効果などに対比すれば、危険発言側にどれほどの力があっただろうか。多くの人びとは危険を楽観視したというより、危険発言に気づかされないか、あるいはそれを異端視させられる状況の中で暮らして来たのである。そういう状況を作り出した人びとの責任を問うことは、いたって重要である。人をだまして損害を与えることは犯罪であるが、だまされて損害を被った側が犯罪を犯したことになる道理はない。以下に、私のこの感想を裏付ける新聞記事を紹介する。
たまたま、同じ6月29日付け『しんぶん赤旗』は「追跡:原発利益共同体」と題する記事において、電力業界のメディア対策を振り返っている。そして、原発関係の事故のたびに PR 費が膨張して来たこと、1974年に朝日新聞に原発推進意見の10段広告が掲載されたのを皮切りに、推進広告掲載が大手紙を総なめにしたこと、東京電力の広告宣伝費は「普及開発関係費」に含まれており、この経費は、原子力の商業利用が始まる1年前の1965年度に7億5千万円だったのが、2009年度には243億円となり、45年間で30倍以上もの急膨張をしていることなどを明らかにしている。
また、同日の『しんぶん赤旗』には、「原発とテレビ」と題する記事も掲載されている。その記事は、総理府の「原子力に関する世論調査」で「原子力発電について何を通して知ったか」の問いへの回答の1位は1987、1990両年の調査でともに「テレビ・ラジオ」が80.1%、78.6%と、2位以下を大幅に引き離しており、これは、原発 CM が世論形成にどのような影響をもたらすかの参考になる統計だと報じている。
6月24日付けニューヨーク・タイムズ紙も、「安全神話」が日本の原発事故の原因になったことを報じる長文の記事を掲載している [1]。その中では、日本政府が原発に関する国民的世論形成のための宣伝・教育に努めて来た姿勢が、第2次世界大戦中の政府の姿勢に似ていることや、2004年に中学校の社会科教科書の一種類において、ヨーロッパでの反原発運動の成長についての記述が削除され、別の教科書ではチェルノブイリ原発事故の記述が脚注に下げられたことなどなどが報じられている。
‘Safety myth’ left Japan ripe for nuclear crisis, New York Times (June 24, 2011).