2004年12月31日金曜日

暗雲よ、去れ


 いま 2004 年は去ろうとしている。戦争や災害の爪痕を残したまま。テロリズム、理由のない戦争、環境破壊や、対策不十分が天災と重なった人災的天災、それらの暗雲が、この年とともに過ぎ去り、2005 年が明るい年となることを願う。(写真は 12 月 30 日夕方、書斎の窓から撮影。)



 高校時代に続けていた男子友人(ニックネーム Sam)との交換日記を、ホームページに掲載することを 3 年ほど前に計画し、私自身の書いた分について少しだけ進めた。しかし、意外にディジタル化するための時間がなく、とん挫している。この "Ted's Coffeehouse" に、ときおり引用することで、上記計画の代替としたい。Sam はすでに故人となっており、夫人から掲載の許可を得ている。ここに引用する 1951 年の日記を書いたとき、われわれは高校1年生であった。

1951 年 12 月 31 日(月)雨

(Sam)

 歳末! 全身が綿になるようだ! From morning till night I worked and worked. 6日間のアルバイトによって、1 千円を得た。うれしい。苦しみに幾倍かして、うれしい。生まれて初めてこんなに多額の金を得た!
 しかし、この 6 日間、雇われて働くこと意外に、何も出来なかったのは、みじめだった。が、よい体験だった。今年もあと2時間で過ぎようとするとき、開放されて、大晦日湯へ行く。
 年越しそばを年を越してから食べなければならないことになってしまった。百八つの鐘が静かに余韻を残して響く。今年を振り返って…、反省! 何もない。いや、出来ない…。


(Ted)

 NHK の選んだ 10 大ニュース
  1. アジア競技大会
  2. マッカーサー元帥解任ならびにリッジウエイ司令官着任
  3. 桜木町事件
  4. 貞明皇后ご逝去
  5. 追放解除
  6. 民間航空再開
  7. 電力危機
  8. ルース台風
  9. 平和・日米安保両条約調印
  10. 社会党分裂

 [引用時の注]:このあと、「Sam と Ted の 10 大ニュース」として、英文で書き始めているが、7 項目書いたところで、ラジオの「三つの歌」が面白くて、これ以上書けない、と記している。テレビはまだ、あまり普及しておらず、紅白歌合戦も新春番組として始まったばかりの時代である。大晦日には、宮田輝アナウンサー司会による NHK の人気番組「三つの歌」の特別放送があったのであろう。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 12/31/2004 09:15
 51 (S26) 年、1 月 3 日に紅白歌合戦(第 1 回)が登場しているようです。第 3 回まで同様に正月三が日に行われ、53 (S28) 年12 月 31 日に第 4 回、以降、大晦日の恒例と化したようです。Ted さんの高校時代、紅白は正月にあったということになりますね。「三つの歌」という番組は私にも微かに記憶にあります。「三つの歌です」と始まる冒頭のテーマソングが蘇ってきましたよ。

Ted 12/31/2004 13:32
 紅白歌合戦についてのご教示ありがとうございました。私も、ついいまし方、新聞で今年が第 55 回と知り、1950 年の大晦日に始まっていなければ、勘定が合わないと思っていたところでした。いただいたコメントを参考に、記事の訂正をいたします。
 「三つの歌の歌」、「三つの歌です/君もボクも/あなたもわたしも/ほがらかに/…」でしたね。宮田アナウンサーの司会は、「みんなに親しまれた古い歌、誰でも知っている新しい歌、三つの歌、きょうは…からお送りします」というような言葉で始まりました。

poroko 12/31/2004 11:18
 私の母が 1942 年生まれなのですが冷蔵庫もテレビも(実家が商売人だったゆえに贅沢を慎むということで)子どもの頃はなかったそうです。たとえ紅白が放送されていても見られなかったでしょう。
 今年は Ted さんに出会えてとてもよい年になりました。いつかぜひ実際にお会いしてみたいです。来年も今年同様よろしくおねがいします。

Ted 12/31/2004 13:40
I should be glad to see you off-line, too.

テディ 12/31/2004 12:52
 私が生まれる 6 年前ですが、まだ戦争の陰が色濃く残っているという印象ですね。マッカーサーの名前がでているということは、米軍はその時はまだ Occupation Army の立場であったということでしょうか。6 日間のバイトで得た 1000 円を手にした喜び…、いまの時代では味わうことの出来ない喜びの一つでしょうね。

Ted 12/31/2004 13:56
 そうです。敗戦の色濃い時代です。平和条約調印がこの年の 9 月 8 日でしたから、それまで、日本はアメリカの占領地でした。ちなみに、原文では「マックァーサー元帥」と書いてありました。
 友人 Sam は 父を早くなくし(私もそうでしたが)、母が再婚して、祖母と暮らしていました。そういう事情でアルバイトを余儀なくされたのでしょう。私の方は、母が勤めていましたので、高校時代にアルバイトをすることはありませんでした。

Nadja 12/31/2004 21:35
 クリックひとつで消せる日記はどこか寂しいものがあります。いまの時代は筆跡も知らない友人もアリなのでしょうか。私も交換日記をしていたこともありますがひとつも残っていません。素敵な計画ですね。
 2005年こそ明るい年になって欲しいと切に願います。よいお年をお迎えください。

Ted 12/31/2004 22:05
 筆跡、ですか。エコーお友だちとは、いずれ、手書きの手紙も交換したいですね。
 ディジタル化の終わった交換日記は処分するつもりでしたが、捨てがたい気持ちがあります。
 幸せな 2005 年を。

2004年12月30日木曜日

「われわれはどういう存在であるか」

 新着の『学士会会報』に掲載の、海部宣男・国立天文台長の一文 [1] を読む。宇宙をうたった歌の紹介に始まり、伝統的七夕祭の推奨、すばる望遠鏡が見た宇宙、宇宙論の現在、等を経て、地球外に生命のある可能性にまで話を進める。

 最も古い宇宙の歌の一つと思われるものとして、3000 年前のインドのヴェーダの古典、『リグ・ヴェーダ』にある天地開闢の歌が紹介されている。
 その時、無もなかりき、有もなかりき、空界もなかりき、祖を覆う天もなかりき。何者か活動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水は存在せりや。

 「伝統的七夕祭」とは、国立天文台が提唱する、旧暦で勘定した七夕を祝うことである。旧暦では、月齢と日にちが合っており、七夕の日に見られる月は、ほぼ上弦の月であり、夜半に月が沈むと、あとは満天の星と天の川の世界となる。そこで、江戸時代の七夕の俳句「星の恋いざとて月や入りたまふ」(長斎)というシチュエーションができる、と説く。

 「では宇宙とは何か」と、海部は自問して、中国で 2000 年前に中国で書かれた『淮南子(えなんじ)』から、「往古来今これを宙といい、四方上下これを宇という」を引く。すなわち、宇宙とは、時間のすべてと空間のすべてである、といっているのであり、これはわれわれの思っている宇宙そのものである、と。

 今世紀の半ばくらいには、ひじょうに大きな望遠鏡で、太陽系外惑星の分光分析から、地球外生命を見いだす可能性もある、と述べ、そこから、われわれはどういう存在であるか、ということを学んでいく時代になることは間違いない、と結ぶ。宇宙の研究はロマンに充ちている。

  1. 海部宣男「人と宇宙」学士会会報 No. 850, p. 93 (2005)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/31/2004 08:22
 「何者か活動せし、いずこに、誰の庇護の下に」というのは、どこにも誰も、誰の庇護の下でも活動してなかったということですよね? それで水だけがあったと。私たちはあまり生の水を飲みませんけど、水だけは特別な物質だと思いますね。最も基本的な物質。物理学的にどうでしょう?
 彼の話では宇宙論に七夕祭が自然に持ち込まれているのでしょうか? もちろん宇宙論の美化ではありませんよね。
 「四方上下これを宇という」、宇宙とは時間と空間のすべてである、というのは、私にも納得できます。
 やはり宇宙の研究はロマンに満ちていますか。私はロマンはずっと先に無期延期して、ただ現実的な精密な宇宙論が追究できたらいいなと思うんですが、自分にもちろんその能力は皆無だし、何が「現実的」かって、それはロマンそのものだと肯定してもいいかもしれませんね。Ted さんの科学観はいかがですか?

Ted 12/31/2004 13:19
 七夕祭の話は、一般の人びとにも星に親しん貰い、そのことによって心に潤いを持って貰えたら、という天文学者・宇宙物理学者の願いでしょう。
 宇宙の研究そのものは、現実的で精密なものですが、それに情熱を傾ける姿勢は、ロマンによって育まれるところが大いにあると思います。

2004年12月27日月曜日

2004年の物理学重要発見:日本からも複数の寄与

 12 月 23 日、Institute of Physics(略称 IOP、ヨーロッパ合同の物理学協会)は物理学における今年の重要発見を発表した。来年、物理学界はアインシュタインの相対論、光の量子論、そしてブラウン運動についての重要論文発表の100周年を祝おうとしている。これに先立ち、今年の重要発見は、アインシュタインの 1905 年の業績につながるものを多く含んでいる [1]。

 IOP は今年の重要発見を次の 10 項目に分けて述べている。
  1. 純粋および応用量子力学
  2. 一般相対論の検証
  3. 惑星についての発見
  4. 超固体ヘリウム
  5. 超冷フェルミ気体
  6. ウィルスの物理学的研究
  7. 電子のスピンの研究
  8. 液体の変わった性質
  9. 最小原子時計
  10. 素粒子物理学の発展
 ほとんどの項目は、それぞれ複数の発見からなる。項目 3 には、サイエンス誌が今年最大の発見とした、火星の古代に水があった証拠の見つかったことが含まれる。項目 7 は、磁気共鳴撮像法と原子間力顕微鏡法を組み合わせて、個々の電子のスピンが撮像されたことを含む。これは American Institute of Physics(AIP、アメリカ物理学協会)の「物理学最新ニュース」でトップに選ばれたものである。なお、AIP では合計 30 の重要発見を挙げている [2]。

 日本での研究が、項目 8 に 2 件と項目 10 に 1 件取り上げられているのは、めでたい。項目 8 に引用されている成果の一つは、兵庫県シンクロトロン研究センターの片山ら、および東大の栗田らがそれぞれ発表した、液体が異なる 2 相に共存出来るという発見である [3]。項目 8 のもう一つは、強磁場が水の融点をわずかに上昇させるという、千葉大の稲葉らの発見である [4]。項目 10 におけるわが国からの寄与は、KamLAND チームが反ニュートリノ振動の確証を掴んだことである [5]。この発見は、ニュートリノに質量があることを示し、素粒子の「標準理論」の改定を迫る。

 各項目の詳細について学びたい方は、[1] とそこからのリンク先(いずれも IOP のニュース)を読まれたい。比較的分かりやすいことばで解説してある。

 IOP や AIP が、このように、重要発見のリストを発表しているのに対し、日本物理学会が同様の試みをしていないのは寂しい。

[後日の追記:以下のリンクは全てリンク切れとなった。]

[1] "Highlights of the year" PhysicsWeb (Dec. 23, 2004).
[2] "The top physics story for 2004" Physics News Update (Dec. 1, 2004).
[3] "Liquids double up" PhysicsWeb (Oct. 28, 2004).
[4] "Magnetic effects seen in water" PhysicsWeb (Dec. 6, 2004).
[5] "Neutrino oscillations are here to stay" PhysicsWeb (Nov. 17, 2004).

2004年12月26日日曜日

友人愛


 だが、愛(フィリア)というものは単にわれわれの生活に不可欠たるにとどまらず、それはさらに、うるわしい。われわれはすなわち、友人愛に富んだひとびとを賞讚するのであり、多友(ポリフィリア)ということはうるわしきものごとの一つに数えられている。――アリストテレス『ニコマコス倫理学』(下)高田三郎訳、岩波文庫、1973

 今年、ソーシャル・ネットワーキング・サービス、エコーに入ったお陰で、多くの友人たちを得た。主としてインターネット上での交わりという、新しいタイプの友人たちである。従来の現実社会での友人関係に対し、それは、仮想社会の友人関係といえるのだが、後者はいまや前者の一部になりつつあるようだ。

 両社会の友人関係には、それぞれ長所と短所があるだろう。仮想社会の友人関係は、成立の早さや地理的距離・年代差の超えやすさに特徴がある。しかし、そこには崩壊の早さもつきまとう可能性がある。両社会の友人関係に共通して、つき合いの深さに幅広い分布があるのは面白い。仮想社会の友人関係に意外にもこの幅が出来ているのは、多くの人びとにとって、ソーシャル・ネットワーキング・サービスが新しい体験であるための過渡的現象かも知れないし、また、仮想社会に限らず、友人という概念そのものに幅広さがあるせいかも知れない。

 どちらの社会であれ、何が友情の深さを決めるかといえば、一つには、お互いの誠実さがあるだろう。それから、思考形態や生活態度からくる個性の波長といったものの共鳴度もあろう。しかし、波長については、意外にへだたった者同士が親しくなれたりもする。私にとって、まだ出来て間もない仮想社会の友人関係からも、真によい友情が生まれ育つことを願う。

   街の池訪れ来たる青鷺の連れのいづくに待ちてあらなむ

 アオサギは群れをなして暮らすのを好む、と一友人から聞いたが、わが家の近くの「中の池」に、ときどき一羽で飛来するのがいて(写真)、その交友関係が気になる。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

poroko 12/26/2004 10:47
 会ったことのない、ネット上だけの友人というのは、彼(彼女)のアクセスが途絶えてしまった時点でこちらからどうしようもなくなってしまうという点で、非常に不確かな関係だと感じています。ただ、遠く離れてしまった友人でも同じかもしれませんが。

Ted 12/26/2004 11:12
In friendship we may need admit this proverb, "Who can hold that will away? (去る者は追わず)"

RIN 12/26/2004 12:39
 私のブログへのコメント、ありがとうございました。
 このお写真のアオサギのこと、とても気になりますね。私は海に潜るのですが、魚が外敵から身を守るために群れを作って大きく見せかけたりしているのを間近で見ていますと、生き物が純粋に「生きる」ことを目的に、とても論理的な行動をとっていることを感じてしまいます。人間はネットで知り合ったもの同士で集団自殺を行ったり…、生き物たちは必死に生きることを考えているのに…。ということで、このお写真のアオサギのことが気になってしまいました。

Ted 12/26/2004 15:27
 「ネットで知り合ったもの同士で集団自殺」――生き物から脱落する人間がいる、ということは、文明の悪弊でしょうか。
 きょうは、「中の池」にアオサギ君を見かけませんでした。ちょっと放浪好きなだけで、また仲間のところへ戻っておればよいのですが。

2004年12月25日土曜日

嫌われる小説家たち

 12 月 20 日付け朝日新聞夕刊の文化欄に、作家の高樹のぶ子が、初の自伝的小説『マイマイ新子』に取り組んだことが紹介されていた。昨年の今ごろ、年末に関わる高樹の随筆が同じく朝日新聞に掲載され、その中に歳をとるほど年月の経過が早く感じられることを、生まれてからの、そしてまた死ぬまでの経験の量と関係づけて述べたところがあった。そのことを私が女性の友人の一人に書き送ったところ、彼女は「私は高樹のぶ子は嫌い」といって、随筆からの引用部分とそれへの私のコメントについての感想は貰えなかった。

 その友人は、タレントでも容貌によって嫌いなのがあり、そういう人たちの出るテレビ番組は見もしないらしいが、高樹のぶ子の写真を見ても、彼女が嫌うほどの顔立ちではない(男性にとっては、ある種の魅力さえある)。私は高樹の小説を読んだことはないが、朝日の記事によれば、「大人の濃密な恋愛を描」くのが特徴だそうだ。私が読めば、むしろ好きになるかも知れないし、その友人も恋愛小説は好きなほうである。彼女がなぜ高樹のぶ子を嫌いになったのか、想像できない。しかし、その名前を出すのも嫌がる友人に直接理由を聞くことは出来ない。どなたか、推定できる理由を聞かせていただければ、ありがたい。

 高樹のぶ子の新作の題名にある「マイマイ」は、「つむじ」のことで、高樹はそれを二つ持ち、それらが前髪をはね上げるので、少女時代の悩みの種だったそうである。「コンプレックスの種を消そうとするのではなく、自分のアイデンティティーに変えていく過程が、大人になることです」と、彼女は記者に語っている。コンプレックスを持つ子どもたちに広く聞かせたい言葉である。私もつむじを二つ持つ。男児においては悩みの種にはならないが。

 嫌いな小説家といえば、私は若い頃から、曾野綾子を好きになれなかった。彼女の政治にかかわる発言は、政府・与党のご用作家のものという趣きがあり、文筆で世間をリードしようとする作家としては、世の中を見る毅然とした眼力に欠けると思われたからである。しかし、何カ月か前の朝日紙上で、彼女が自衛隊のイラク派遣問題か何かについて、首相を大いに批判している文を見て、意外の感を抱くとともに、彼女もようやく成長したかと思ったのであった。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/27/2004 10:45
 私は高樹のぶ子さんが大好きだし、現代作家で最も尊敬する作家のひとりです。一作読めば十分なのが、たとえば『透光の樹』などのおとなの恋愛小説ですね。その堂々とした素晴らしい文体、多くの下調べ、芸術として成り立たせるための濃厚でもある描き方、そしてラストに向けての迫り方、ラストがどういう人生芸術で終わっているか。予想通り起こった恋愛話、をとうに超えた、立派な小説です。
 何より物書きをしてきた者として、彼女の文体に本当に憧れます。それで、高樹のぶ子さんが大変嫌いだと言われるその方、芥川賞の選考委員のトップの作家さんですからね、理由を推測してみても、彼女の文体や作品のある意味高貴さ(つまり俗世間を生きる本当の地の苦労・苦しみ・苦悩を描いていない)、あるいは上記の通り、筋も予測のつくような小説を文学の高い性質で書くなんて…とか、つまりどこまで命を使って、削って書いているか(それも命を使って描いている執筆だと思うんですけどね、芸術家として熟達しているだけですよね。これは小説テーマの選択にもつながりますね)、あるいは、女性が女性作家に対して抱くなんらかの嫌悪感、そのあたりでしょうかね。私も彼女の多くの作品はけっして読んでいないので。
 自伝的小説を書かれているとのこと、大変よいですね。コンプレックスが自分のアイデンティティになる過程。このへんでわかる通り、当たり前といえばその領域に入り、奇抜な斬新な作品発想、人生発想とは全然違うかもしれませんね。
 私は作家については大変多角的な作家を評価する価値観をもっているんですが。ご参考になれば幸いです。

Ted 12/27/2004 15:10
 高樹のぶ子についての詳しい解説、ありがとうございました。しかし、私の友人が嫌う理由は、やはり分かりません。「俗世間を生きる本当の地の苦労・苦しみ・苦悩を描い」た作品よりも、「高貴さ」を好むようなところがあるのです。彼女は、フランス貴族の恋愛小説「クレーヴの奥方」を好んでいましたし、日本の作家では、三島由紀夫の大ファン…。

2004年12月24日金曜日

「日本の技術は大丈夫か」

 『日本の科学者』2005 年 1 月号に、表記の題で特集が組まれている。10 月初め頃に私がよく訪れたインターネットの掲示板でも、このようなテーマでの議論があり、私も、しろうと考えながら、若干のコメントを書いたりしたので、この特集は興味深い。

 特集は 4 報の論文からなる。平沼高(和光大)は「技能について」と題して、熟練労働者の枯渇化の背景を分析し、高度な熟練内容を次世代に継承する三つの方法と、それが有効となるための最低限の二つの条件を示す。条件の第 1 は、企業経営者が熟練労働者の育成には時間と費用を必要とすることを認識し、たとえ経済不況期にあっても、人材育成政策が変更されないこと。第 2 は、製造現場の作業集団が異世代によって構成され、その内部において互いに教えあう仕組みが組み込まれていること。——これらの条件は、まことに分かりやすい。私も上記の掲示板で第 1 の条件と同様なことを記したかと思う。

 久村信正(三菱重工)は「技術力の低下・崩壊の原因と背景」と題して、三菱重工社でおきた事故・不祥事の原因と背景を検証し、企業と労働者・労働組合に求められている課題を探っている。同社で、この 10 年間につくられた悪い体質を回復する基本は、リストラ・人減らしに始まり、人材流出・技術力低下、事故・トラブル多発、受注減・無償工事多発を経て、業績悪化・競争力低下にいたり、そして、さらなるリストラ・人減らしという、悪循環を絶ち切ることであり、そのカギは、労働者の雇用と生活の安定にある、と結んでいる。悪循環をどこで絶ち切るかを問題にするならば、当然、リストラ・人減らしが問い直されなければならないであろう。

 「技能の伝承の惨状」と題する山口健司(石川島播磨重工)の論文も、自らの職場の実態から、現在、技能伝承が危機的状況にあることを検証し、続発する品質・安全トラブルの原因が、効率第一の労務政策にあり、その根源には、会社の労務政策に誰も意見がいえなくなるような思想差別があったことを鋭く指摘している。いまようやく、企業のトップも「意識改革」の推進、「全員参加」による「コミュニケーション」の大切さに目を向けているということである。

 横山悦生(名古屋大)は、「スロイドの伝統と技術科の誕生」と題し、スウェーデンのスロイド(工作科または工芸科)およびテクニーク(技術科)教育の現状を紹介する。そして、それとの比較から日本の小・中学校教育および高校普通科において、「テクノロジーおよび労働の世界への手ほどき」を「普通教育においてすべての子どものものにする」課題が軽視されてきた、と指摘する。小学校の図画・工作や中学校の技術・家庭科の時間数の増大、施設・設備の充実を訴え、国民の技術的教養の発達を土台にしてこそ「技術力の低下」は真に克服されるだろう、と結んでいる。工芸・技術ではないが、私が中学生だった 1950 年代初めには、「職業指導」という科目があり、いろいろな種類の職業について、概念的ながら学んだものであった。いまは、そういう科目もなくなっているのではないだろうか。

 ちなみに、『日本の科学者』は日本科学者会議が刊行している総合学術誌である。日本科学者会議とは、科学者がその社会的責任を自覚し、科学の各分野を総合的に発展させ、その成果を平和的に利用するよう社会に働きかける運動体であり、1965 年に創立された。1971 年以来、世界科学者連盟(1946 年に創立、初代会長フレデリック・ジョリオ=キューリー)に加盟し、世界の科学者運動と交流を深め、核兵器廃絶を始めとする諸活動で積極的な役割を果たしている [1]。

  1. 日本科学者会議ホームページ

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/26/2004 21:51
 まあほんとに、自分のブログでの「人付き合い」の大変さ(ご想像がつくかもしれませんね)で疲れてしまって、私、病人で障害者なんですから、一番読みやすくて多彩な Ted さんのブログも、これだけ遅れて読みに来たものの、半日、開けたまま読む気力が出なかった状態です。でも、毎回ですが、興味あるタイトルで、私と異分野でも大変勉強になるブログですので、やはり読ませていただいてよかったです。
 まず、高度な技術内容の継承を、昔多かった個人的職人業界の継承の話には到底つなげていけない時代であることは確かで、ここでもちろん企業での技術継承が出てきますね。私は製作現場(工場)でもあえて働いてきたので、異世代で人員が構成されて、教えあうことがよいということなど、すべて Ted さんが書かれ、紹介されている通りと賛同します。
 どうもリストラ・人減らしはそもそもおかしいのではないか、と考えるのですが、もちろん年功序列、安定企業人生が今の時代の流れとしてよいとも思っていませんし、ただ何か根本発想の転換がはかれないかと思ったりします。
 会社の(労務)政策も、そもそも正解なんてないのですから、方針を模索し、よりよいものが見つかればそちらに大きくでも変更するだけの、人事部・総務部などの将来への志、柔軟性が求められるように思いますね。以上は、企業をあまり知らない私の、素人感想です。
 次に、小中学校の技術家庭などの科目時間の増加・充実で、技術的素養の発達を図る、というのは多少疑問に感じます。大学等で勉強して、企業に入社してようやく一から身につけるほどのレベルの技術を、小中学校での技術教育と直結できるとは考えにくいのです。「技術」概念も幅が広く奥が深いという認識が必要では?
 そして何より、家庭教師経験からですが、今の中学生など、職場教育といって、新聞社など企業に見学・実習に行かなければいけなくて、さらにその成果(感想)を発表しなければならない、という「忙しい学校生活」を送っているのです。いきなりそれはないだろう、って私は幾分思ったのですね。子どもは子どもの世界を大事にしていてそれで十分ではないでしょうか。真に自由な安心できる子ども世界を経験できなければ、極端な場合、私のように 16 歳で家を出て全自活を志して病気になる、といったような事例が出る危険性さえあるのかもしれません。まさかそこまでいかなくてもね…。
 上記、Ted さんのご意見はいかがでしょうか? すみません、長くなりました。

Ted 12/26/2004 22:52:14
 紹介した特集では扱われていませんでしたが、「個人的職人業界の継承」も機会があれば考えてみたい重要な問題だと思います。
 「年功序列、安定企業人生」は最近かなり変更され、むしろ競争人生の弊害もそろそろ出始めているのではないでしょうか。私も正確な実態は知りませんが。
 紹介した論文で「小中学校で技術的素養の発達を図る」必要性をいっているのは、「入社してから身につける技術」に直結するものということではなく、その技術を学び易くする基礎を築くということで、小学校の算数や国語が、上の学校で、さらには社会へ出てからの各種学習の基礎として必要なのと同じ意味で、私は必要と思います。
 今の中学生に職場教育がありますか。私も中学生時代に新聞社の見学がありました。私は中学校のクラブ活動で新聞部に入っていたので、特別かも知れませんが、興味深く見学しました。「ゆとり教育」の取り入れで、学校生活の忙しさは減ってはいませんか。私はかなりの割合の子どもたちが、塾通いで忙しくなっていることの方を懸念します。
 この記事に、もっとコメントがあってもよさそうに思いましたが、Y さんの掲示板でお目にかかったような視野の広い論客がエコーサイトにはいないのでしょうか。四方館さんはこの記事を読んで下さったと別のところに書いて下さいましたが。

2004年12月23日木曜日

「アドレナリン」の復権

 12 月 22 日付け朝日新聞夕刊「窓:論説委員室から」欄に高峰譲吉(1854–1922)の活躍と業績が紹介されている [1]。高峰は、消化薬タカジアスターゼの開発者であり、血圧を上げるホルモン、アドレナリンの抽出に成功し、命名したことでも知られる。記事は、高峰の生誕 150 周年記念展が、東京・上野の国立科学博物館で開かれていることに因んで書かれたものである。

 高峰は、数々の特許を申請し、日米両国で製薬会社を興したバイオ産業の祖であり、ニューヨークに大邸宅をかまえて日米交流に力を注ぎ、理化学研究所の創設を提唱した。これらの、科学者として以外の顔があまり知られていないのは、30 代の後半から終生、米国に移り住んだためだろう、と「窓」子は記す。

 高峰譲吉は富山県高岡市で生まれたが、翌年、石川県金沢市に移り、そこで育った。成育の地・金沢では、1950 年に高峰博士顕彰会が結成され、同会は化学に優れた成績を修めた石川県下の中学・高校生各 10 名に毎年与える「高峰賞」を設定し、1951 年度から授賞を実施した [2]。不肖私は第 3 回受賞者(高校生の部)の一人である。1971 年度から、個人賞は中学生 10 名前後のみとなり、新たに学校賞が設けられ、毎年 2~5 の中学校が選ばれて来ている [3]。

 2000 年 12 月、高峰博士顕彰会 50 周年記念パーティが金沢で開催され、私も受賞者の一人として参加した。ちょうどその頃、高峰譲吉の伝記 [4] が発行された。同書には、アドレナリンの特許権が切れた頃から、米国と日本ではアドレナリンが「エピネフリン」と呼ばれてきており、その陰にあった米国薬学者による「高峰の盗作」説が、この伝記の著者たちの提案で正されようとしていることが記されていた。

 「窓」欄の記事が、上記提案の成果を次のように知らせているのは喜ばしい。「アドレナリンの名でも」とあるところに、いささか不満は残るが。
菅野富夫北大名誉教授らの働きかけで、2 年後からアドレナリンの名でも呼べることが決まり、150 周年に花を添えた。

  1. 辻篤子「高峰譲吉」朝日新聞夕刊(2004年12月22日)
  2. 三浦孝次『高峰譲吉・かがやく偉業』(高峰博士顕彰会、1953)(非売品)
  3. 高峰譲吉博士顕彰会 50 周年記念 秀峰会会員名簿(高峰譲吉博士顕彰会、2000)(非売品)
  4. 飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯:アドレナリン発見の真実』(朝日新聞社、2000)(この書名をクリックすると開くアマゾンのページに、現在 1 件のみあるカスタマーレビューは、私の投稿)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

poroko 12/23/2004 21:24
 アドレナリンは一般名詞化していますよね。タカジアスターゼは知っていましたが、アドレナリンのことは知りませんでした。功績のあった日本人をもっと広く知らしめるべきだと思いますね。

Ted 12/23/2004 21:51
 「アドレナリンは一般名詞化」、そうですね。興奮したときに、「アドレナリンの働きが活発!」などといったりして。
 「功績のあった日本人をもっと広く知らしめるべき」、同感です。

Y 12/24/2004 08:26
 高峰譲吉博士が、製薬会社の祖であり、また日米両国でそれをなさっている点が、興味深いですね。科学者が科学者以外の顔をもって活躍されること、社会にとっても重要で必要度が高いですよね。そのへんはやっぱり、企業社会で通用するだけの柔軟性、ノウハウ、人間関係力と、発想がないと出来ませんよね。理化学研究所は有名ですよね。いい所なんでしょうね。
 うちの夫の昨日の談ですが、自分は才能も研究者の道を拓いて行く能力もないが、実験技術が教官たちよりも十分獲得できていることと、何より出発点として、物事の真髄を見抜く力(多くのデータ類の中から何が重要で必要かを見抜く力、など)が自分にあると思ったから、科学者になろうと思ったのだということです。で、研究室での姿勢は、ひたすら「滅私奉公」で、後輩や医師や留学生を指導して教授に仕え、信頼を得ているそうなのですが。Ted さんは先輩として、Ted さん流とはどのようなものだったか、いかがですか?

Ted 12/24/2004 09:48
 理化学研究所では、かつて仁科芳雄、朝永振一郎ら、一流の物理学者が研究していました。いまも、国際的に最前線を行く実験等が行われています。
 私は大学へ入った時は湯川先生のもとで学ぶつもりでしたが、湯川先生のノーベル賞受賞という「湯川効果」によって、素粒子論研究の志望者が多すぎる状況でしたし、また、早く一人前にならないといけない家庭の事情もありましたので、専門の選択に当たっては、理論好きの頭で実験をするのもよいか、と原子核実験を選びました。
 そして、担当教授がちょうど大阪府に放射線の研究所を作られましたので、境界領域を攻めようと、そこへ入りました。本当の境界領域は、物理学と化学、生物学、医学などとの間にあるのですが、そこまでは踏み込めず、それらの各領域の研究にも役立つ放射線の基礎データの整備に関わる研究を続けました。そのようなデータの整備には、経験式の作成という、理論の頭の必要な仕事もありましたので、曲がりなりにも初志を通したことになりました。
 ご夫君がご自分の得意な面を生かして、ひた向きにやっておられる姿勢は、立派だと思います。

さくら 01/10/2005 19:58
 偶然このページを見つけました。夫は第 8 回高校の部、私は同じ時期中学の部で、それぞれ個人賞を受賞しました。2000 年 12 月の会にも夫婦で出席しました。このようなページを見つけることができてうれしいですね。

Ted 01/10/2005 20:26
 秀峰会会員名簿で、さくらさんご夫妻の実名と、さくらさんが私の中学後輩に当たられることが分かります。ご夫君とは、受賞がご縁で結婚されましたか。私は菫台高校で受賞しました。

2004年12月22日水曜日

2004 年回顧の視点

 近眼に老眼が加わった私は、メガネを三つ持っている。それらは、読書用、屋内用、外出用で、この順に近視向けレンズの度が強くなっている。コンピュータで仕事をするには、屋内用がちょうどよい。新聞を読むのも、広い紙面をざっと眺めるには、屋内用がよい。精読したい記事には読書用が必要になる。しかし、読書用を必ず使うのは、朝日新聞夕刊に月一回掲載される評論記事くらいのものである。

 その評論記事は、加藤周一の「夕陽妄語」欄である。他の記事に読書用目がねをほとんど使わないのは、屋内用でも、新聞活字を読むのに、さほど不便がないからでもあるが、その目がねをおいてある書斎へ紙面を持参してまで読みたいほどの好記事が少ないからである。

 12 月の「夕陽妄語」欄(20 日付け)は、「日本 2004 年」と題して、10 年後に思い出されるであろうわが国での今年の出来事を論じている。まず、新潟の地震を挙げ、それが天災であるのみでなく、地震対策が神戸の経験から十分学んでいなかった点で、人災でもあることに言及する。そして、台風の災害でも、「危険なところに、危険な家が建っていた」と指摘する。

 テレビ報道が私の脳裏に焼き付いている台風の惨事の一つに、バスの屋根の上で不安な一夜を明かさなければならなかった人たちの経験がある。幸い一同の命に別状はなかったものの、これにも行政への連絡が的確に受け渡しされなかった人災の面があった。

 加藤は、次いで 100% 人災である出来事を述べる。それは、『政府・与党が野党の多数議員と共に企てた「平和憲法」改定の計画』である。これに関連し、著者は「外国の軍事的攻撃の確率は、正当な対外政策によって小さく」できるとして、1970 年代に「中国の脅威」が激減したのは、自衛隊の戦闘機の数の増大によるのではなく、日中平和友好条約が調印されたからであるという歴史的 1 例を挙げ、説得力のある論述をしている。

 さらに、加藤は、「将来の結果が 2004 年の行動の意味を決定するであろう事例」として、首相の靖国神社参拝を挙げ、その日中関係に対する「影響の拡がりと深さは、ほとんど測り知れない」とする。

 一連の論旨に、私はまったく同感するものである。「夕陽妄語」の内容は、けっして、「うそつき」の意味の妄語ではない。これは、最も明せきな時評の一つであろう。『広辞苑』によれば、妄語には、「妄語戒の略」という意味もある。妄語戒とは、仏教五戒・十戒の一つで、うそをつくなという戒めだそうだ。とすれば、加藤は妄語の第 1 義である「うそつき」を装って、実は、この戒めに従い、これこそが真実であろう、という視点をつねに示しているのである。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/23/2004 09:40
 Ted さんのブログが私には、どんな状態の時でも一番読みやすく、また内容も実に多彩なので、愛読者のひとりなんです。
 政治音痴の私ですが、加藤周一さんはすぐれた方だと思っていました。天災であるだけでなく、十分人災でもある被害について、前もってどれだけ対策を打つ余裕が行政側にあるのか、私には想像つかないのです。加藤さんのような言うべき人が指摘しなければ、何も動き出さないでしょう。
 軍事について、「正当な対外対策によって小さく」出来るとして歴史的事実に即して説得してくださるのなら、このような冷静な判断力をもった方にこそ次の一歩を何か踏み出して欲しいと期待しますね。
 Ted さんとしては、Ted さんの言述行為でもって何か社会的に「平和」ということへの貢献ができれば、ということはよくお考えになっているのですか? Ted さんの科学者さんとしてのお立場だからこそ出来る言述行為も多いでしょうね。応援しています。

Ted 12/23/2004 11:57
 加藤周一さんは、憲法 9 条を守ろうという運動を進める「九条の会」の全国的な呼びかけ人 9 名の一人。私は、堺で同様な運動を進めようとしている 10 人の呼びかけ人の一人に過ぎませんが、微力ながら出来ることをしたいと思っています。応援ありがとうございます。

loco 12/25/2004 10:20
 「正当な対外政策」によって北朝鮮の拉致問題が少しでもいい方向に向かうのを期待したいですね。

Ted 12/25/2004 10:28
 Yes, it's one of the most important and urgent problems that require good diplomatic policy.

2004年12月20日月曜日

「文化」論を読む

 『「文化」という混乱―文化概念の再構築に向けて―』という論文 [1] を読んだ。著者・川原ゆかり(早稲田大学、文化人類学)は、現在「文化」の根本的概念が危機にさらされており、この論文は、文化人類学を中心に文化概念の成立・発展の系譜を批判的に概観し、文化理論再構築の可能性を探ることを目的とするものである、と概要で述べる。

 文化概念の発展の系譜をたどる中で、まず、Edward Tylor による文化の定義(1871)が紹介される。それは
 文化または文明とは、知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣習・その他、人間が社会の一員として獲得した能力と習慣を含む複合的全体である。
というものである。著者は、この定義の問題点の一つとして、「文化」と「文明」が同義語として用いられていることを指摘する。

 そのあと、著者は、文化人類学において、「文化」と「文明」の区別はある程度決着をみている、と述べ、Bronislaw Malinowski による次の文化の定義(1944)を紹介する。
 文化は明らかに、道具・消費財・種々の社会集団の憲章・観念や技術・信念・慣習からなる統合的全体である。
「文明」はこの論文の主題には含まれていないが、「文化」と「文明」の区別を知る上で、読者としては、後者についての最近の定義も紹介してほしかったと思う。

 次いで、上記二つの定義にみられる「複合的全体」や「統合的全体」という概念が、ある地域に特定な総体という意味を持つようになり、Franz Boasの「歴史個別主義」が生まれたことが述べられる。そして、著者は、いま議論の的となっているのが、このように、文化を「統合的全体」ととらえる理論であることに言及する。続いて、文化の「解体」と、文化理論の再構築への動きが述べられる。

 著者・川原は、最も新しい動きとして、Akhil Gupta & James Ferguson(1992)やRenato Rosaldoによる「境界域の文化」の分析に焦点をあてるべきであるという主張を紹介し、20世紀後半の人類学者は、先行の研究者が作り出した「文化」の概念を解体する試みに一定の成果を収めたが、その再構築は、21世紀の研究者が模索すべき課題である、として論文を結ぶ。概要にあった「文化理論再構築の可能性を探る」という目的から、著者独自の新しい提言を期待したのだが、それは見られなかった。

 「境界域」といえば、科学において、研究分野が細分化された結果、分化した領域間の協力や、境界領域にある問題への取り組みの必要性が叫ばれ始めたのは、半世紀ほども以前であった。そして、現在なお、その重要性は続いている。いろいろな局面で、「境界」が大切な、いまである。私は文化の成分としての科学と芸術の境界域と、両者の相互作用について、これから注目して行きたいと思う。

 なお、インターネットで "definition of culture" の句で検索したところ、出てきたページの中に次のような、マニトバ大学芸術学部講義資料 [2] があった。
Although there is no standard definition of culture, most alternatives incorporate the Boasian postulates as in the case of Bates and Plog's offering, which we shall accept as a working version:
Culture: The system of shared beliefs, values, customs, behaviours, and artifacts that the members of society use to cope with their world and with one another, and that are transmitted from generation to generation through learning. This is a complex definition and points to four important characteristics stressed by cultural relativists: 1. symbolic composition, 2. systematic patterning, 3. learned transmission, 4. societal grounding.

  1. 川原ゆかり『日本の科学者』Vol. 40, p. 36 (2005).
  2. http://www.umanitoba.ca/faculties/arts/anthropology/courses/122/module1/culture.html.(後日の注:その後、リンク切れとなった。)

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 12/20/2004 16:52
 いささかか専門的になりすぎていてコメントが難しいですが‥‥。文化と文明が異なるものとしてみるか、同義のものとしてみるかは別として、今後、いや寧ろ遅きに失する感もあるかと思いますが、文化理論の解体と再構築に「境界域」が重視されなければならないというのは、そのとおりだと思います。現在の国際情勢の混乱と多様な現象は、ポスト・コロニアリズムの視点から見ていくべきだと思われます。これもまた果てもなくひろがりゆく「境界域」の問題のように思われますし、決して、民族紛争や宗教戦争などという言説に回収されてはならない、と。

Ted 12/20/2004 17:30
 「境界域」問題の具体的中身、ご指摘の通りと思います。ご高説ありがとうございました。

Y 12/21/2004 07:00
 いやいや私は文化人類学を出発点とする文化論は大好きだから、このブログに来るのを取っておいたんですよ♪ 11年前ですが大学で勉強してあります。
 「境界域」重視なんて、かえって私には、もうとっくにそうなのでは?という感があるんですが。Ted さんが科学でおっしゃっているように、文科系の学問で言えば、私の10年前の大学時代から、学際性、というのは大流行で、もちろんこれからの学問も、異なる学問間の「境界域」が出来なければならないんですが、
 私はむしろ、「複合的全体」や「統合的全体」と言われた文化概念の「解体」は、境界域だけでなく、この世の中文化の中心で起こっている、なんて考えたほうが、そういう「解体思考(?)」のほうが刺激的に感じますね。
 一体現代において、文化を統合的全体と言っていいものか。ネットの世界も果てしなく広がり、価値観の多様化なんて当たり前ですが、何かが中心から「解体」していると見ていいんじゃないか、まとまりない私たちになっていくんじゃないか…ということを、「個人主義的生活」のような語句より新しい語彙で捉えなければならない気がするのですが、Ted さんいかがでしょうか? ちょっと、即興で書いてますが。

Ted 12/21/2004 08:39
 文化人類学者が「文化概念」を解体してもしなくても、文化の中心自体が解体現象を起こしている。そこで、解体そのものを新しい言葉なり概念なりで捉えることが重要である――ということですね。現代の文化には、確かにそのように見える面があります。しかし、多様化が一つの大きな流れであれば、同一の流れの構成成分としての多様な各因子の中には共通性・連携性もあるはずで、解体現象と見ることが適切かどうか、という問題もあろうかと思います。
 と、偉そうに書きましたが、私は、ここに紹介した論文で文化論を初めて勉強したような、この方面の新参者です。よろしくご教示下さい。

2004年12月18日土曜日

干支の神社(スケッチ)


 わが家の近くに大鳥大社という神社がある。毎年正月には、初詣での客でかなり込み合っている。来年は酉年なので、この神社への参拝ツァーが企画されていることを新聞で知った。

 正月頃にホームページを飾る写真として、この神社を、と思っていたが、新年に撮影にいくのは、たぶん、たいへんだろう。そこで、昨日、日課のウォーキングのときにカメラを持って出かけ、第一鳥居と、その横に立つ「大鳥大社」の石柱、そして、そこから東、南、東と進んで北側にある本殿とを撮ってきた。

 鳥居付近の写真は、あまりよい出来ではない。工事中の区域を囲うのに使う紅白縞の円錐柱が何本かあるのも目ざわりだ。本殿前にもそれらが立っていた。スケッチならば、いらないものを省ける。カメラは不便だ。

 掲載のイメージは、同神社の本殿を昨夏スケッチしたものである。142 mm × 185 mm のスケッチブックにペン描き、色鉛筆彩色。

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 12/19/2004 12:13:32
 とても優しいスケッチですね。神社のスケッチというより、それを囲んだ全体風景といった感じですね。もっとも、神社って、その全体風景(緑など)が好いのですよね。
 色も構図もバランスが取れていて好感がもてます。これを元にしてもっと描き込んだ絵も描けるとよいですね。
 苦悩のほうはやっと緩和されてきまして、今は統合失調症ばりの症状が次々出るのが精神にきついのと、耳がおかしい心身症ですね。この Ted さんのブログ、文字もやすらぎです。

Ted 12/19/2004 22:25:36
 私のブログが少しでも安らぎになれば幸いです。症状の回復を祈ります。

Nadja 12/20/2004 18:18
 いいですね、このスケッチ。絵画などを鑑賞するのも好きで、美術館通いも趣味のひとつですが、絵は泣きたくなるほど下手です(;;)。絵を描ける人って尊敬します。

Ted 12/20/2004 20:37
 樹木の多い神社の夏、蚊が足もとをおそってくるので、急いで描きました。ゆっくり描いてもよくなるとは限りませんが。おほめいただき、恐縮。

2004年12月17日金曜日

先達たちが展開するパノラマ:芸術と科学の同と異

 四方館さんのブログ [1] に、ものづくりにおける自己の他者性に言及した棟方志功の言葉を紹介したのがあった。私はその記事に対し、次のようなコメントを記した。
 芸術とは一見対極的な科学においても、「自分でないものから、はじまってこそ」(棟方)は、肝要である。"On the shoulders of giants" というフレーズが、科学的業績を紹介する本の題名などにも使われているように、科学者は、先人の仕事を理解し利用して初めて、自分の独創的な研究を積み重ね得る。

 四方館さんからは、「科学において、先達たちの業績は、そこに立とうとする者にとって、圧倒的なほどのパノラマに映るだろう。芸術の世界は、科学のような論理性にも明証性にも乏しく、遠望したとしても、その景色は遠近法のごとくには見えないで、寧ろ樹海に踏み込んでゆくような不気味さを感じる」という趣旨の返信を貰った。

 返信の後半について、私は「芸術は論理性、明証性に乏しい反面、人間の感覚に直接訴えることができ、また、先達の仕事から学ぶところはあるにしても、それを 100% ふまえる必要はない、という利点があだろう」という旨を記した。

 返信の前半についてもコメントしたいことがあったが、長くなりそうだったので、ここに書くことにした。

 科学の先人たちの業績は、それが成し遂げられた時代的背景のもとでは、険しい道のりを歩んで達成されたものであり、その輝きは、時代を経て薄らぐことはない。しかし、のちの科学者がよって立つのは、輝く業績そのものではなく、それがもたらした知見である。知見は、人類共有のものとして整理され、新しい時代背景のもとで眺められるとき、発見された当時の圧倒性は薄らぐ運命にある。

 たとえば、アインシュタインの一般相対性理論は、発表された当時、これを理解できる物理学者は、世界中にも少数しかいなかったであろう。いま、理論物理学の最前線においては、相対性理論と量子力学を統合する理論として有望視されている「超弦理論」が研究されている。この理論は、一般相対性理論がそこから導き出されるという意味で、それを大きく超えるものであるが、これに取り組んでいる研究者たちは、世界に大勢いる。

 このことは、アインシュタインのもたらした知見といえども、圧倒性をいつまでも保持しはしないことを示すものといえよう。

  1. 四方館「朝の土からひろふ」(2004)
    またまた、棟方志功の詞から戴く。
     自分でないものから/はじまってこそ、/仕事というものの/本当さが出てくる
     …

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

四方館 12/17/2004 11:24
 私の記述に些か問題があったようですね。Ted さんが業績と知見は次元も異なるとし、分けた物言いとなることはご尤もなことだと思います。これは言葉足らずでしたが、私が「圧倒的なほどのパノラマ」と申したのは、「圧倒的なほどの知のパノラマ」とすべきところで、決して、業績のパノラマと云う積りではなかったのですが‥‥。
 科学と芸術の異質性の問題は、そのあいだに、歴史を置いてみるのがよいように思います。科学の歴史と、芸術の歴史。科学史と芸術史をそれぞれ俯瞰した場合、どのように見えるのだろうか、ということですね。

Ted 12/17/2004 12:01
 知見を含んだものとしての業績について、「圧倒的なほどのパノラマ」とおっしゃったことには、異論はありません。ただ、業績から知見だけを分離して考えるとき、後者の「圧倒性」は、ご指摘のように歴史の中においてみたとき、時とともに薄らいでいくのが科学分野の一つの特性ではないか、ということを述べてみた次第です。
 芸術と科学の異質性をみることも大切ですが、私はむしろ、両者の同質性と協力の可能性が、これから考察されなければならないテーマだと思います。

四方館 12/17/2004 15:15
 科学と芸術の同質性と協力の可能性について今後考察されていくとすれば、もちろん大歓迎です。科学者のなかには、絵画や演奏など、芸術に堪能な多趣味な方が多いと思います。アーティストのなかでは科学的な知見に学ぶ者はいても、科学を趣味だと宣言できる人は稀少でしょうね(笑)。いずれにしても、今後ともご指導のほど、よろしくお願いします。

Ted 12/17/2004 15:53
 芸術家で科学を趣味にする人が、稀少とはいえ、おられるのが、面白いと思います。画家の堀文子さんは、科学者が使うような顕微鏡でプランクトンを観察し、科学誌「ニュートン」の購読も欠かさないとか。こちらこそ、よろしくお願いいたします。

Y 12/19/2004 12:40
 しばらくブログに行けないうちに、四方館さま、またそんな素晴らしいブログを書かれてましたか。あとで頑張って行ってみます。Ted さんのブログは毎回読まないともったいないものばかりですね。
 それで、ブログ本文と、四方館さんとの上のやりとり、まったくその通りだと思います。それで、科学と芸術を考える際に、それぞれの歴史というのを考えるのがよいと。
 しかし、科学はその知見の歴史を精確に踏まえ、また踏み越えて新規な知見を生み出していくのが責務ですが、芸術にもともと責務はないですし、過去の芸術の歴史から影響を受けることはあっても、それこそ「一」や「自」の芸術があれば、自らの創り出す芸術は「二」や「他」という「違うもの」でなければならないと思うのです。いや、何かと「違うもの、オリジナリティ」すら意識しないで営みに没頭するでしょう。芸術家は真に孤独ではないでしょうか。責務も負わず、芸術家が最もつながっているものは、ただただ「本能的な人間的性質」。
 科学と芸術の交流というのは、もちろん両者を別様に理解しあうところに第一意義を見出せるので、テーマとしては面白いと思うのです。Ted さん、いろいろ道を模索してください。

Ted 12/19/2004 22:48
 芸術家と科学者の相違の鋭いご指摘、そして、お励ましもいただき、ありがとうございます。私のテーマ、芸術と科学の相互作用、の考察に参考になります。

2004年12月14日火曜日

Family Highlights (家族重要ニュース)

[The image of "Family Highlights" had been posted for a limited period and deleted. Sorry.]

 10 年来続けてきた "Family Highlights" を今年も編集した。クリスマス・カードにそえて海外の友人たちへ送るものである。

Every year I send "Family Highlights" together with a Christmas card to some of my overseas friends (actually "Family" is replaced by my last name). It is like a small newspaper with over a dozen monochromatic photos and explanations and is printed on an A4-size sheet of paper. I have been doing this since 1994.

The sample was the Christmas greetings from a U.S. friend of mine, John H for the year 1994. He included a sheet entitled "H Highlights" in his envelope. Thinking it a natural and appropriate title, I named mine after his, and continue to use it.

However, John's wife, Jean, who is the editor of their version, changes the title every year. Next year their title was "Routines and Milestones." Then followed "Happenings," "On the Go," "Tripping," "A Year of Reunions," "At Home and Abroad," etc. John and Jean make a trip very often all over the world for business and visiting their relatives.

Yesterday I spent almost all day to prepare this year's version of our "Family Highlights" on a computer. The occasions of meeting the overseas friends, Lee, Indra, Pedro, and Wolfgang have become the central topic as well as our trips to New Zealand and Austria.

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

loco 12/25/2004 10:34
Hi, Ted!
I saw your effort, and was amazed at how you can use the computer at your fingertips! It would probably take a long time for me to learn and do something like that. I love the picture of you and your wife sitting in front of a barn or something, the one in Austria. I can tell that you had a wonderful time. Putting together annual highlights is a great idea! I think I will do that next year.

Ted 12/25/2004 10:49
Thanks, loco, for your kind words. A small building in the picture of Austria is not a barn, but a church in Seefeld (pronounced like Zehfelt). I'm expecting to see your annual highlights next year.

2004年12月13日月曜日

折々に詠む

 私はときどき短歌を作ってみたくなる。真剣に作り方を学ばないので、上達はしない。しかし、折々の思いをなんとか 31 文字に封じ込むのは楽しい。ここには 2002 年の後半に詠んだものを集めた。多いのは故郷金沢へ中学校の同期会に参加するため、そして墓参のために行ったときのものである。

原色の躍動をもて視体験超越したりカンディンスキー
慰みに春琴抄を繙けば佐助の愛にたじろぎ覚ゆ

梅雨休み青田に風の輝きてサンダーバードの車窓駆け抜く
北陸路家毎に競ふ紫陽花の色豊かにも飛び去りて行く
利家とまつのブームを避け行きて手取のダムの風に浴しつ
新婚の親友訪ひし町あたりそぞろ歩きて冥福祈る
勝手知る香林坊へ薄暮より歩みてみれば汗かきぞする
故郷の作家の「外科室」読みたればそは激烈の愛を描けり
小枝にて後ろ髪触れ虫ゐたとかつて言ひにし卯辰山かな
幼子と遊ぶ婦人に又五郎町問へば町会の名に残れりと
消へ去りし町名標す石柱に伝統尊重生き延びてあり
テレビにて邦画「はつ恋」見たるのち中学同期の会に赴く
久しぶりですねを交はしいと易く昔の恋は今の友情
あじさいの葉裏へ蝸牛回り行き歌詠む人ら感嘆し居り
台風の遥けき余波に空青く風豊かなる真夏日来たり

「であるか」と熱演したる反町の信長舞ひて美死を遂げたり
為さむこと捗らざるも悠たらむ蝸牛も這ひて遠路行くめり

聞き比べガイドの奉仕する友を蓄音機館に訪ね語らふ
ラッパ付き蓄音機より流れ出るエディット・ピアフ愛でしひととき
伝統の街に似合ひの小館に活弁付きのチャップリン観たり
故郷の文豪鏡花記念する館は老舗の裏にありけり
旧友が墓守の店助けゐて昔話にしばし興じぬ
雨なれば利家の墓近からず六男系の墓のみ拝む
墓参終へ犀星読めば三人の若者墓と化するぞ奇しき
麩天心昼餉となして風のごと墓参旅行も過ぎ去りにけり

鱧料理愛でる窓より白鷺の三々五々と帰り行く見ゆ
東山仏の臥せる腹辺り白鷺の群れ家路を急ぐ

  大海人皇子「むらさきのにほへる妹を憎く
  あらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」に寄す
上の句を忘れてありし万葉の人妻恋ふる歌の熱しも

コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Nadja 12/13/2004 15:56
 こんにちは。
 短歌って、みそひともじに凝縮された思いを感じられるのは楽しいですね。最近は詠むより読む方が多いです。
 僭越ながらいいなぁと思うのを3首。
  「であるか」と熱演したる反町の信長舞ひて美死を遂げたり
  為さむこと捗らざるも悠たらむ蝸牛も這ひて遠路行くめり
  麩天心昼餉となして風のごと墓参旅行も過ぎ去りにけり
そういえば雷鳥もサンダーバードとよび名を変えて顔まで外人っぽくなってしまいましたね^^;

Ted 12/13/2004 19:59
 「いいなぁと思」って貰えるのがあってよかった!「雷鳥」号もまだ残っています。Nadjaさんも北陸本線を利用されますか。

とら 12/13/2004 16:05
 Ted さん、こんにちは。
 素敵な短歌ですね。Ted さんのお人柄がよく出てる。私は、
  久しぶりですねを交はしいと易く昔の恋は今の友情
が一番好きです。「昔の恋は今の友情」ってところに、人の感情の変化が出ていて、とてもリアルだと思いました。今度、返歌させてください(^-^)。

Ted 12/13/2004 20:02
 「久しぶり…」の一首には、大切な思い出と経験を込めました。返歌をお待ちしています。

M☆ 12/13/2004 16:40
 Ted さん本当に多才ですね! もののあはれを感じることが少なくなった現代に、癒しの風が吹いた感じでした(^_^)また遊びに来ます!

Ted 12/13/2004 20:09
 『ランダムハウス英和大辞典』によれば、coffeehouse には、「17、8 世紀の英国で、文人、政治家などがたまり場として利用した店」の意味があります。Ted's Coffeehouse も、よいたまり場にして行きたいと思っています。

とら 12/14/2004 00:22
  青き日に思った人をいつまでも胸にとどめて初冬の道を  とら
拙い返歌でした。

Ted 12/14/2004 08:26
 「返歌」ですから、私の「昔の恋人」の身になって作ってくださったのですね。いかにも、その人らしいです。とらさんはいまが青き日々、ご健闘を

未月 12/15/2004 13:36
  「であるか」と熱演したる反町の信長舞ひて美死を遂げたり
 この「であるか」とともに、反町氏の演じた信長はセリフの語り口や立ち振る舞いの動作すべてが美しく、今でも強く印象に残っています。
 31 文字の中に日常を詠み込む短歌。憧れますが、なかなかうまく作れないものです。

Ted 12/15/2004 15:46
 私は「大河ドラマ」を見ない年が多いのですが、「利家とまつ」は、舞台が私の郷里だったので、熱心に見ました。信長に比べ、利家の演技は軽すぎたように思われました。「私におまかせ下さい」の、まつもかなり印象に残りましたが。
 短歌は、うまく作ろうと思わないで、楽しんで作ればよいと思います。

Ted 12/17/2004 17:44
 まつがよく言っていたのは「私におまかせ下さりませ」でしたか。

未月 12/17/2004 18:44
 でありましたね~(笑)。私も大河は見ない年がありますが、印象に残る作品です。

2004年12月12日日曜日

卒業30周年記念のうた

 先日、本棚から「菫台(きんだい)高等学校卒業 30 周年記念大会」という B5 版薄青色厚手用紙二つ折りの、同期会の印刷物が出てきた。「とき 1984 年 9 月 23 日(日)、ところ 山中温泉 和叙園」とある。20 年前のものだ。なぜこれをずっと保存していたのか不思議に思い、眺めていくと、最終ページの一番下に、「記念のうた」として、私の作ったあやしげな短歌が載っている。これのために保存してあったのだ。ここに転記して、印刷物を処分しようかと思うが、自分の作品が印刷されているものは、ささいなものでも捨てがたい。ともかく転記だけはしてみる。
逞しき知性の涵養モットーに学びし頃ゆ三十年(みそとせ)経たり
転変の校史に著(しる)き菫(すみれ)五期巣立ち三十年いま世を支ふ
三十年を隔てあまたの同期生集ふ平和の永久(とこしなへ)なれ

 第一首の「逞しき知性」は、「洗練された感覚」とともに、菫台高校のモットーであった。いまでも、よいモットーだったと思う。私がそれを十分身につけることが出来たかどうかは、別問題である。第二首の「転変の校史」は、菫台高校の前身が金沢商業、そして菫台高校は 10 年で終りを告げ、以後、金沢商業高校となったことを指す。われわれは、菫台高校時代半ば、第五期の卒業生である。

 上記の歌を作ってから 20 年後の今年、5 月 16 日に山代温泉で卒業 50 周年同期会が開催されたが、私は都合により欠席した。同期生中のマドンナで現在東京在住の T 夫人 [1, 2] に、メールで同期会の様子を尋ねたところ、彼女も体調が悪く欠席したとのことであった。

 そして、20 年後の今、平和憲法が試練に立たされている。「平和のとこしなへなれ」を、繰り返しつぶやく。

  1. "Vicky: A Novella," IDEA & ISAAC ウエブサイト (1997, 2003)(T 夫人をモデルにした英文短編小説)
  2. M.Y. 『英文小説「Vicky」の解説』, IDEA & ISAAC ウエブサイト (2003)(英文が苦手の向きは、この解説であらすじを知ることができる)


コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Tom 12/16/2004 08:52
 初めまして。菫台の大先輩だったのですね(私は金商ですが…)。懐かしさがよみがえります。

Ted 12/16/2004 09:41
 エコーに後輩さんがおられましたか。金沢のどこにお住まいですか。Y さんがエコーの共通のお友だちですね。

Tom 12/16/2004 20:10:37
 今は野々市在住です。工学部の学食や学校の帰りに寄った「7番ぎょうざ」が懐かしいです。

Ted 12/17/2004 10:41
 私の 13 日付ブログ記事「折々に詠む」に、金沢で作った短歌が多く入っています。
 ホームページに高校時代の日記を載せ始めましたが、その後忙しくなり、途中で止まっています。

2004年12月11日土曜日

突っ走る

 政府が 2004 年 12 月 10 日の閣議で、新しい「防衛計画の大綱」を決定したことがメディアで報じられた。自衛隊の海外任務が強化されるということである。また、同大綱の閣議決定に合わせ、政府は武器輸出 3 原則の緩和をも決めた。

 この動きに対し、朝日新聞は、きょう 11 日付け朝刊に「防衛の質ひっそり転換」という解説や、「この選択でいいのか」と題し「日本は重大な曲がり角を曲がった」という文で始まる社説を掲載し、批判的な論調を打ち出した。私は、この論調でも、まだ生ぬるいと思う。新防衛計画は、平和憲法を無視している疑いがある。いまや、日本はアメリカのブッシュ政権のいいなりになって、軍国主義への道を突っ走っているといわなければならない。

 これにちなんで、私はある私立大学の教授をしていた友人が、その大学の充実した図書館に、朝日新聞が備えられていない、といっていたことを思い出す。政府・自民党を支持する理事長の意志によるものらしい。このようなことが、多くの教育・研究の場において行われ、学生たちから幅広い意見を目にする機会を奪うことは、けっして得策ではない。そこで学んだ学生たちは、国際的な視野で活躍する能力を十分に身につけることができず、それは、わが国の活力を衰えさせることにつながるであろう。

コメント(最初の掲載サイトから転載する)

S 12/11/2004 14:57
 朝日新聞の記事は読みました。同感です。大学の図書館に朝日新聞が置いてないとは…、唖然としました。最低限、読売・毎日・朝日・日経、東京なら東京新聞など、主要な新聞を置いておくべきでしょう。学生が、物事を考える際に、各新聞の論調がどうであるかを、客観的な目で読んで、考えることができなくなってしまいます。これで培われたものは学生の見識となって、社会に出てからもきっと役に立つはずです。

Ted 12/11/2004 17:07
 ご同感いただき、嬉しく思います。私は公立大学退職後、できればその私立大学で働きたいと思っていたのですが、図書館の話を聞き、その思いが一度にさめました。

T 12/11/2004 19:13
 特定の新聞を置かない…。その大学の図書館がその理事長の個人的な資産で設置されているなら、別にそれはそれで「特性」でしょうが、おそらくそうではないでしょう。ましてや、自由に学問を学べるはずの大学で特定の論調を排斥する行為は学問を自滅させる行為に他ならないですね!
 その理事長は自校の図書館にその新聞を置かなければ、学生たちはその新聞を読まないとでも思ってるのでしょうか? もしそうだとしたら、某大国の大統領並みの知能ですが、まさか一応大学の理事長を勤めている人が、そんなことはないでしょう。単なる自己満足ですね。大学を私物化してるのですよ。

Ted 12/11/2004 19:57
 「自己満足、大学の私物化」、確かにそうですね。よいご意見をありがとう。

Y 12/12/2004 11:53
 自衛隊の海外任務強化ですね。何か、軍国主義にまっしぐら、ということではないと思うのですが、あれほどの平和憲法があって、その解釈がいまどき実に弱弱しい。憲法、法律は「どう解釈するか」にこそほとんどすべてがあるのに。

Ted 12/12/2004 13:36
 解釈が弱々しいというより、政府・与党は解釈をどんどん歪めていっており、これを是正しようとする対抗勢力は、国民から十分な支持を得ていない、ということではないでしょうか。

Y 12/13/2004 00:12:24
 そうそう、Ted さんのおっしゃるとおりです。私は Ted さんに全く、どれもこれも同感です。

2004年12月10日金曜日

A 先生の計らい

 私が小学校 6 年で習った A 先生(クラス担任)は、まだ若かった。しかし、児童一人ひとりのことをよく考える先生だった。敗戦後まもないその時代に、先生は新しい教育方法を積極的に取り入れた。約 50 名のクラスを 8 班に分け、班長、副班長を指名し、班の中で教えあう形で勉強させたり、班同士を競争させたりした。

 A 先生は、私が属した第 8 班では、男勝りの H 子を班長に、私を副班長に指名した。他のすべての班で、班長は男子、副班長は女子だったにもかかわらず、である。H 子は、さすがに気が引けたか、先生に、他の班のように正副入れ替えて欲しいと頼んだが、先生は、「8 班はこれでいいんだ」といった。

 私は大連から引揚げて来たばかりで、その土地・金沢の子どもたちの話し方や遊びにまだ慣れていなかったこともあり、女児のように、しとやかな子だったのだ。A 先生は、そんな私に、負けん気を起こさせようと配慮したのだろう。それは、たしかに効き目があった。夏にはしょっちゅう泳いで顔の日焼けが冬にも残っていた文系児の H 子と、野球の対校試合を応援に行く以外はたいてい家で本など読んでいた理系児の私は、そのとき以来ずっと、お互いにひそかな競争相手となったのだった。

 H 子は負けず嫌いだった。彼女が私にある日いった「明日の国語の試験では、私は T さんに負けない。勝つか同点よ」という言葉にそれが現れている。その試験では、A 先生が彼女に問題を作らせるという試みをし、その代償として、彼女は 100 点を貰うことになっていたのである。私のその時の試験結果は、覚えていない。しかし、H 子はクラス全体のレベルも配慮して問題を作るような頭脳の持ち主だったから、彼女の出題は、たぶん、理系児でも国語も好きだった私には、楽しみながら答えが書けて、十分に 100 点をとれるようなものだったと思う。

 40 歳になるかならないで、H 子はプリンストン大学で日本語を教える教授になっていた。そのころ私は、実家が宝塚に移った彼女と、久しぶりに大阪で会う機会をもった。いろいろ話す間に、物理学の研究をしていた私は、ふと、研究は何をしているか、と彼女に尋ねた。彼女は、教育だけで、研究はしていない、と答えた。私のその質問が、彼女の負けん気に対して引き金になったのか、彼女は翌年、教授職を捨て、ハーバード大の大学院生になった。そのことに A 先生は驚いていたが、それは、かつての先生の計らいの効果が H 子の側にも及んだのであっただろう。

 A 先生は、その後、知恵遅れ児童の教育に専念し、校長もつとめた。H 子はいまもアメリカの大学で教育・研究をしている。

 注:この話は、未月さんのブログ [1] への私のコメントに大幅に手を加えたものである。A 先生についての話は、[2] に、また、H 子についての話は、[3] と [4] にも書いてある。
  1. 未月 "マイペースな長男" (2004).
    …それにしたって、この担任の先生はとても素敵だ。子どもたちを見つめる目線がとてもおおらかだ。…
  2. "The Reform of Education" (2000).
  3. "「寄付の文化」の欠如" (1990).
  4. "The Girl of Masculine Spirit (男勝りの少女)" (2004).

コメント(最初の掲載サイトから転載、若干編集し直してある)

Y 12/10/2004 19:35
 素晴らしいお話ですね。感心いたしました。Ted さんとH子さんの実人生の流れあい、と言いましょうか。それを綴られる Ted さんのこまやかな誠実な穏やかな文章の素晴らしさも、私はもちろん見逃していませんし。
 私の姉は小学校低学年から、「どうやってこの子を育てたんですか?」と担任教師などから母にきかれるほどの「神童」的な優秀さで、私は姉のかげに隠れて、誰からも期待されずに育ちました。私より 10 年以上早く家を捨てて北海道大学に行き、大学院まで出た姉は、法学部一番で北大を卒業しました。いまは、某総研勤めで、加えて今度、3 児の母ですが、その姉が結婚までずっと、育った家庭で負った傷に耐えられず、自殺未遂、過食症でぼろぼろにもなったこと、それは隠された秘密なんです。
 そして弟は若干 27 歳で年配の研究者が受賞すべき賞である学会賞を、体育で最大の学会で取るぐらいの努力家であることは、ブログで書いたとおりです。
 私以外のきょうだいの話をしても、十分反映されるような、Ted さんと私の生い立ちや学生時代、その後…といった境遇は、本当に違うものばかりですね。でも、私は Ted さんのブログを読んで、傷ついたりうらやましく思ったりしないのです。ただ Ted さんのブログを読ませていただいて、素直によいブログだなぁと、感じるばかりなのです。それでできるかぎり、訪問させていただいて、コメントもさせていただいているんです。

Ted 12/10/2004 19:48
 Yさんがご姉弟ともども、今後幸せな人生を歩まれることを祈っています。

P 12/10/2004 21:01
 年月を超えてのライバルとはたいへん素晴らしいものですね。H 子さんはなんと素晴らしい先生と友をもったことでしょうか。

Ted 12/11/2004 08:24:01
 「お互いに競争相手」と書いたのは、私の方の思い上がりかも知れません。私が日本で研究を続けたことに比べて、アメリカの一流大学で教官になるのは、ずっとたいへんだったでしょうから。

2004年12月9日木曜日

The Canal of Venice: Watercolor (ベニスの運河:水彩画)


The watercolor shown here was painted from one of the photos my wife took during gondola cruise in Venice, Italy. I began watercolor painting last year, except for my experience at my boyhood. This work was made last year and was the fourth from the beginning. The first one was the same scene as this one painted in a small sketchbook.

The actual colors of this painting are paler than the above image, so that the original work looks weaker. I was afraid of making the picture dark and used blue for windows. However, the use of black must have made the work stronger. I made the contrast of the image stronger to some extent with the image-processing program. The size of the original painting is F4.

You can see a few more of my paintings made after this work at my Web site.

Note added later: About three years later, I changed the coloring of this painting completely by the use of gouache. The image of the work after rebirth and the story related will appear somewhere in my blog sites.

Comments (Copied from the blog site where this post originally appeared. Minor editorial changes have been made.)

R 12/10/2004 00:54
Thank you for your comment on my blog post. I felt that the watercolor you painted was very beautiful!

Ted 12/10/2004 07:59
Thanks for your kind comment on my watercolor.

S 12/10/2004 19:55
Ted, you post a blog article everyday. I admire your diligence. This picture is certainly beautiful.

Ted 12/10/2004 20:12
These days I'm spending too much time for blogging, though I have many other things to do!

M☆ 12/11/2004 00:04
透明感のある素敵な絵です! That's great! I want to go to Itary too! (>▽<)/

Ted 12/11/2004 07:52
Thanks for your kind comment, M☆. Someday you should visit Italy, which is the country Goethe loved so much.

2004年12月5日日曜日

「ぼくの真似をしたな」

 私は敗戦前後の 2 年余り、大連嶺前小学校に在学していた。同小学校同窓会会報「嶺前」第 20 号がこのほど届いた。以下は同誌に掲載された私の一文である[1]。

「太田先生の英語教室」執筆後日談


 今回は別の内容で投稿するつもりでしたが、本誌前々号の拙文「太田先生の英語教室」[2]に関連して、その後もお便りをいただいたり、前号のお礼文中に誤りのあったことが判明したりしましたので、再度、上記拙文にかかわることを書かせていただきます。

 まず、I.Y. さん(25 年卒)が拙文に呼応して、本誌前号に「太田英語塾の思い出」を投稿されたことに、お礼をお申し上げたいと思います。お陰様で、私がどちらも太田先生のお嬢様と思っていた 2 人の女先生のおひとりが、太田先生の弟さんの奥様、志乃さんと分かりました。I.Y. さんは、志乃先生に習い、その奇麗な先生にあやかった名前を後年娘さんにつけた、と書いておられたことをほほ笑ましく思いました。私も内心、どちらかの女先生に一度は習いたいと望んでいたことを告白しておきましょう。

 文頭に書きました、その後いただいたお便りというのは、Y.O. さん(16 年卒)からのものです。Y.O. さんは太田先生のご次女、M.N. さんと嶺前の 3 年生頃まで同級でいらっしゃったそうです。そして、Y.O. さんは 1940 年 12 月初めまで桃源台の、後に 1944 年から私が住むことになった家の西隣に住んでおられたそうです(Y.O. さんは私の家を、嶺前 70 周年記念誌「喜び永久に」に記載の私の文から同定されたのです)。また、Y.O. さんが会報 4 号に寄稿された「私の桃源台地図」と題する文に、「T さんの家のことも書いております」とお知らせ下さいました。私は、残念ながら、その頃まだ会報を購読していなかったという返事を差し上げましたところ、早速コピーをお送り下さいました。

 ここで、話は少しそれますが、私の嶺前時代の思い出を一つ記します。上記の Y.O. さんのご寄稿中に、「この家(注:私の東隣の家に当たります)の外観は、私の家とよく似ていた」という箇所がありました。この箇所が私に次のことを思い出させました。

 桃源台の近所に、私と同学年の T.M. 君というのがいました。彼は 4 年生か 5 年生のとき、Y.O. さんがかつて住んでおられた家(当時は S さんという方が入っておられました)を巧みに写生し、その作品が彼の教室に貼り出されました。それに感心した私は、自分の東隣の家(Y.O. さんが桃源台におられた頃は、Y.O. さんより少し年下の M.I. さんの家だったそうですが、私のいた頃は、私と同学年の M.T. さんがお住まいでした)の写生を試みて、担任の松本先生に提出しました。その作品も貼り出される結果となりましたが、それを見た T.M. 君から「ぼくの真似をしたな」といわれ、悔しい思いをしました。

 M.T. さんの家の屋根と壁の色の組み合わせは、S さんの家のものよりメルヘン的でした。それで、二つの作品は色彩上かなり隔たっている、と私は思っていました。また、S さんの家は、Y.O. さんが「この通りでは一番高い位置にあり」と書いておれれるように、高くそびえ立っている感じでした。それに反し、M.T. さんの家には、前庭の木々でさえぎられた形でしか見ない部分があり、私は描くのにかなり苦労したのでした。それでも、Y.O. さんのご指摘のように、建物の外観がよく似ていたため、私の絵の構図は T.M. 君のものと相当似ている結果になったのでしょう。

 そもそも、近所の家を画題にするという着想は、T.M. 君が先に抱いたものであり、さらに、彼の作品はたいへん力強く描かれていたので、いまでも私の脳裏に、ぼんやりとながら浮かぶほどの出来栄えでした。他方、私の作品は、自分でもほとんど思い出せません。これらの点でも、「真似をしたな」といわれても仕方がなかったといわなければなりません。近年、私がもっぱら建物を中心にした風景の水彩画を美嶺展[3]に出品するようになった原点は、T.M. 君の絵に惚れたところにあるのかも知れません。――このようなことを久しぶりに思い出すことが出来たのも、太田先生のことを書いたお陰です。――

 私は前号の文中に、「T.I. さん(21 年卒)のご尊父が英国へ長期ご出張の折の日記に、太田先生が近くにお住まいで親しくされていたことを書かれている」旨を書きました。その後、T.I. さんからご尊父の日記を整理されたワープロ原稿のコピーをいただきました。それによれば、ご尊父は下宿の女主人のライエル夫人から、「大連高女の先生でテニスの選手、太田がロンドンにいたときのことを、よく知っている」などと、お聞きになったということでした。「親しくされていた」は、私の想像の働かせ過ぎでした。ここに訂正させていただきます。

 なお、T.I. さんのご尊父の日記(1934 年)には、アーネスト・ラザフォード教授(1871-1937;1908年、元素の崩壊と放射性物質の化学に関する研究でノーベル化学賞受賞)の研究室を訪問されたことや、王立協会で彼の講演を聞かれたことが、多くの略図入りで詳しく述べられていて、物理学を専門にしていた私にとって、まことに興味深いものがありました。

 挿絵は、桃源台 140 番地の私のいた家(右側手前)の付近を、T.I. さんからいただいた写真をもとに描いたものです。画面手前が東になります。その写真は、T.I. さんが 1983 年に大連へ行かれた折に撮られたもので、その頃は、両隣のお宅の前庭に建物が出来ている以外、まだ引揚げ前とあまり変わっていない様子でした。

ブログへ転載時の注
  1. 原文中の同窓生の本名は、ここではローマ字の頭文字に書き換えてある。
  2. 「太田先生の英語教室」
  3. 大連嶺前小学校美嶺会美術展。毎年1回、東京で開催。

コメント(最初の掲載ブログサイトから転載)

Y 12/05/2004 08:04 なるほど、Ted さんの個人的な私生活についての文章は、このような大変こまやかな、誠実な文章になるのですね。それでまた、添えられたこの絵の、誠実ではかないと思えるほどに余りに美しいこと。近所の家どうしが似ていて、その絵を二人が描いて、というお話も、なかなか実話でないと出てこない話で、面白いですね。
 私は事情(病気)あって、高校より以前の学校時代の思い出がほとんど何もなく、担任の教師の名前もひとりも思い出せない病気でもあります。生涯、同窓会に行くことはないんですね、大学の同窓会があったとしても、私はK大では落ちこぼれの人生(笑)ですから、行くことはないでしょう。
 でも、今は大変豊かな、多彩な友人たちに恵まれて、充実していますし、けれども付き合いがしきれなくて困っている次第です。

Ted 12/05/2004 09:15 素早くコメントいただき、ありがとうございます。Y さんは、落ちこぼれの人生などではなく、愛と思考に充ちた、普通なかなか味わえない人生を過ごしておられると思います。

2004年12月4日土曜日

東晋の歴史に学ぶ

 必要があって、中国に西暦 317 年から 420 年にかけて存在した東晋という国の歴史を少し勉強した。この国は主に中国の江南地方を支配した。四川も東晋の大半の期間、これに属したが、初期には成漢、後半の一時期には前秦がここを治めている。他方、この頃の華北では多くの国ぐにが興亡を繰り返す五胡十六国時代にあった。

 司馬炎の建国によって続いていた晋(西晋、265~316)が匈奴によって滅ぼされたとき、ただ一人難をまぬがれた司馬氏の一族がいた。司馬睿であった。彼は、豪族の王氏に助けられて、江南に移り、建康(現在の南京)で皇帝の位につき、東晋の幕開けとなる。

 江南に東晋が成立すると、華北に住んでいた漢人の豪族や多くの農民が、戦乱をさけてこの地に移住した。このため開発の途上にあった長江の中・下流域は急速に発展した。東晋の朝廷においては皇帝の権力が弱く、行政や軍事の実権をにぎった者は、王氏を初めとする豪族たちであった。地方の大きな勢力家であった豪族も、数代にわたって朝廷の高位高官を占めると、貴族としてその地位を確立するに至った。

 そして、貴族によって自由清新な精神的活動が行われた結果、優雅な貴族文化が発達した。詩人としては陶淵明(365 頃~427)、書には後世、書聖と呼ばれた王羲之(307 頃~365 頃)、絵画では画聖と称された顧がい之(344 頃~405 頃)が活躍した。宗教においては、白蓮社を結成した慧遠(334~416 または 417)らの布教によって、仏教が貴族層に受けいれられた。

 一言でいえば、皇帝の権力が弱かったことが、東晋に貴族文化の繁栄をもたらしたのである。政治と文化の関わりの深さを東晋の歴史から学び取ることができる。日本では敗戦後、戦争を放棄した平和憲法のもとで、文化国家作りが叫ばれ、芸術・科学等、文化面で、ようやく国際的な活躍をする人たちが大幅に増えてきている。しかし、戦争放棄を形骸化するような憲法「改正」が行われれば、文化の衰退も生じかねないと危惧される。

参考書
  1. 木下康彦、木村靖二、吉田寅・編『詳説世界史研究』(山川出版社、1995)(その後、2008 年改訂版が出ている)
  2. 山口修・著、宮崎正勝・改定『この一冊で「中国の歴史」がわかる!』(三笠書房、2002)

コメント(最初の掲載サイトから転載)

Y 12/04/2004 12:26
 こんにちは。Ted さんとお話できることが、私の命を本当に助けてくださってもいるんですよ。パソコン画面での文章書き・読みや私のしゃべり方と、生活障害の重さとのギャップが激しい現状が長年続いているので、理解しがたいかと思いますが、Ted さんとの出会いに感謝しております。まったく不得手な歴史の分野ですが、パソコン技術の勉強をする前のステップにもなるかと思い、何かコメントさせてもらうために、頑張って読んでみました。
 「貴族文化」という私が感じる語感と、陶淵明、王羲之らが残した素晴らしい文化芸術との間に、何か尊さの違うものを感じるのがひとつの感想です。(ただの貧乏人の発想かもしれませんが…笑。)で、この「貴族文化」の語感を受け入れるとして、皇帝の権力が弱かったことが、このような文化が繁栄する結果をもたらしたのですね。
 だいたい、政治的レベルで考える(文化庁など?)文化の繁栄・充実と、この現実社会で生きている人たちが生み出す「巷の文化」とでは、性質に大いに違いがあるのではないかなと、政治音痴の私ですが、そう思うのです。だからこそ、政治的圧力が文化に対して低いほうが、かえって文化が自由でいられるのは、自然に理解できることで。
 Ted さんがこの歴史資料調べから得ようとされた観点がどのへんにあるかは、だいたい想像できます。戦争放棄を形骸化するような憲法「改正」は、上記の私の受け取っている感覚から連続的に考えると、憲法改正「それ自体」として討論され、考えられなければならないことで、また政治担当者に任せるしか方途がなく、そしてそれが、文化衰退を招きかねかいかどうかは、これはひとつ Ted さんが提唱されたかなり画期的なご意見ですが、文化は個々人が、あるいは個人のうちの同志たちが集まって創出するものだと思うので、特に平和憲法と直接関係するかどうか…。
 これについて一応の結論を出すには、「平和とは何か」ということを今一度、考え直さなければならないかもしれませんね。そして、何が平和的行動であり、何が戦禍加担する行為であるかの見極めの必要性。そのあたりの Ted さんのお考えを、お聞きしたく思いますが、いかがでしょうか。私は世界的な平和に疎い人間ですので、教えていただければ。

Ted 12/04/2004 14:02
 1937 年、日中戦争の開始と同時に、政府は戦争を批判するすべての思想・言論に、きびしい弾圧を加え始めました。そして、その弾圧は太平洋戦争での敗戦まで続いたのです。このような状況のもとでは、文化は歪められ、正常な発展が望めません。
 いま、政府・自民党が考えている憲法「改正」では、「有事」の場合に、国民が「自衛軍」の活動に協力する義務を負う、というようなことを盛り込もうとしています。これは、敗戦前の思想・言論の弾圧に近い状況の再現に道を開こうとするものです。
 また、「自衛軍」を創設すれば、いまよりもっと多くの国家予算が、防衛費に回され、ただでさえ少ない文化活動への国の補助が、ますます削減されることにもなるでしょう。
 これらのことを考えれば、創出自体は Y さんのいわれるように、個々人あるいは個人のうちの同志たちが集まってする文化も、その発展の可能性は、政治と深くかかわっているのです。
 憲法「改正」は政治担当者に任せるしか方途がない、という問題ではなく、世論の高まりがあれば、多数の国民が望む方向へ、政治担当者の考え方を変えさせる可能性のある問題なのです。

Y 12/04/2004 15:00
 お教えくださってありがとうございます。
 戦争に関わる体制のために、思想・言論に弾圧が加えられる可能性を危惧される、という趣旨でしたか。「文化」といっても、実に幅広いものがありますものね。この件に関して一番深く問題となってくる「文化」は、ほかならぬ思想・言論ですね、もっとも、思想は日本ではなかなか発達しきらないところがあるので(西洋思想に比べれば…なんというか、日本人は本格的な土台と論理をもった「思想」を発達させるに向かない国民なんでしょう)、究極限れば言論の自由、ということになるんでしょうね。
 それと、「自衛軍」の創設によって、文化活動への国の補助が削減される、という論点になると、上記の、言論の自由にとどまらない、より広い文化活動の可能性が狭められることになりそうですね。文化、というものには、私も大変関心をもっているのです。それこそ、このエコー!サイトですら、ひとつの文化、なわけで。それこそ宗教でも音楽でも絵画でも、文化、ですものね。
 そうですね、世論がしっかりすれば、政治担当者に対して響かせるものも出来てくるのですからね。問題のひとつは、「多様」であるはずの世論を、どのように政治担当者に伝えるか、ということにあるように思います。選挙投票だけでそれを反映させられるはずがないよなあ、と普段から素朴に思っております。

Ted 12/04/2004 15:55
 過去の思想・言論の弾圧は、いわゆる思想(マルキシズム)に限らず、平和や自由という概念を少しでもほのめかすような文学や演劇にもおよんだのです。
 「多様」な世論であっても、最低限一致できるところで、声をそろえて、政治担当者にその意志を伝えることが必要です。本来、選挙が最も効果的であるべきなのですが、政治不信や無関心から、棄権者が半数前後にもなったりするのは残念なことです。

2004年12月3日金曜日

討論の科学的方法

 最近書いた「鏡の謎」[1, 2]に関連して、ここ数年、何人かの人たちと討論を交わす機会があった。この謎は、科学者でなくても自分なりの答えを考え出すことができる問題なので、討論相手はさまざまであった。中には、自説を強く主張してやまない人たちもいる。自分の考えに自信を持ち、それをはっきりいうのは、よいことである。

しかし、討論において相手と考え方が異なるときには、どこが相違点であるかを理解し、理解できなければ理解できるまで相手に質問し、相違点において自説がどういう理由ですぐれているかを述べることが必要である。そうすることなく、いたずらに自説を繰り返すだけでは、討論は成り立たない。このような、討論の科学的方法をわきまえない人たちが、ときおり見受けられたのは残念なことである。

 討論に科学的方法が必要なのは、科学上の問題の討論に限らない。政治の討論でも同じである。ある政治家は、「いろいろな考え方があるでしょう」と、質問をはぐらかし、「自衛隊の活動しているところが非戦闘地域である」という、子どものナゾナゾ遊びに対するような回答を得々として述べる。これでは、討論の科学的方法が全く身についていないといわなければならない。

[1]鏡の世界
[2]鏡の世界:解答編

コメント(最初の掲載サイトから転載)

Y 12/03/2004 15:32
 人文系の論文の書き方の基本をご紹介しますが、まず、依拠する学者・学説・著書・論文に徹底的に「沿って理解する」ことに努める文章が、論文の分量のほとんどを占めます。「自分」(研究者)は自分を「捨てて」、あるいは対極的な言い方ですが、「自分の実体験と人間性のみによって」、この「理解する」作業をします。テクニックは通用しませんし、すぐ見破られます。自分という人間そのもの、で読んで、書くしかないんですね。
 その上で、最後にその依拠したものに対して、「批判」を行うんですね、ほんの少しでも「批判」ができなければ、単なる「紹介論文」、つまりレヴューの中でもレベルの低いレビューになってしまうんですね。
 つまり、Ted さんが言われている討論とほぼ同様ですね。まず第一にすることは、相手の言っていることを「相手に沿って、相手の立場になってみて」理解することですね。でなければ、相違点も判明しないですものね。この手続きを踏めない人は、論者として勉強しなおしてこないといけないですねえ。
 また、本当に相手や著者を「理解」すれば、それに対して批判を加えるのが、いかに難しいことであるか、人文系の論文書きの初心者が一番苦しむのは、その点なのです。けれども、本当に「理解」すれば、批判点もいずれは見えてきます。討論の場においては、そこに至るまでに必要な「時間的成熟」の時間・期間がどれだけ認められているのか、難しい問題ですね。
 もうひとつご紹介しておくと、精神病理学(精神医学の基礎学)は、精神医学者たちのほとんどがとびつく「治療論」を捨てて、治療論は一切書かずに、患者の病理を「理解する」ことに徹して、精神病理学自身が医学や治療の実践に貢献しうる可能性の根拠としては、「疾患の成因論」を解明することが治療につながるはずだ、という姿勢を表明しています。
 そうやって書かれてきた歴代の精神病理学の著作が、医学の分野をはるかにこえて、人間が生きていることの真実を語るものとして、他分野の研究者たちから注目され、盛んに引用されているのは、今でもそうなのです。生物学的・自然科学的精神医学がほとんどの権威を握るようになって、学界で「自分は精神病理学をやっていて」と名乗ることさえ、はばかられる(肩身が狭い)今の時代になってもね。

Ted 12/03/2004 17:01
 「理解」ということが、人文系の論文書きや、精神病理学においても重要だという、貴重なお話を書いていただき、ありがとうございました。
 ご紹介いただいた分野では、「理解」と研究がある程度重なり合っているように思われます。他方、物理学などの自然科学系の論文では、従来なされた関連の研究については、緒言の部で簡潔に述べるだけです。しかし、研究に取りかかるまでに、それらの研究を十分に理解しておかなければなりません。といっても、たいていの場合、比較的少数の最新の関連論文を読めば、自分の取り上げたいテーマにおける現状の理解が得られますので、レビューや著書を書くときは別として、人文系の仕事におけるほど、膨大な資料を「理解」する必要はありません。

2004年12月2日木曜日

ある『人間失格』論

 Social Networking Service "Echoo!" の「小説好きの方来てね」というグループで、私は、「私の好きな小説中のラブシーン」という投稿テーマを提案した。これに対し、モデレータの Y さんが、太宰治の『斜陽』の、かず子と上原のシーンを紹介した。折しも、私は大宰のもう一つの代表的な作品に対する評論を目にした。雑誌『図書』に小説家・佐藤正午が、連載中の「書く読書」12回目として、『人間失格』を取り上げているのだ。

 佐藤はいつも独特の着眼点を持ち、その点にこだわり続けて作品を論評する。そのことが、A4 版小雑誌 4 ページの短い批評を魅力的なものにしている。そしてまた、今回の『人間失格』論を注意深く眺めると(といっても、あまり大きな注意力はいらない)、それは、みごとな起承転結の構造をなしている。

 「起」においては、「無頼派の作家はみんな結婚している」ことを論じて、読者の興味をそそる。「さて。」の一行で始まる「承」においては、無頼派の代名詞のような太宰治がどんな人間を失格人間よばわりしているのか、と問う。そして、この小説が犯人自身の告白によって謎が解明される、倒叙型の推理小説の発想で書かれていることを述べる。

 「転」も、それと分かりやすい「でもそれは違う。」の一行で始まる。まず、「はしがき」と「あとがき」を書いているのは、小説家の「私」であり、それに挟まれた三つの手記を「自分」という一人称で書いているのは、大庭葉蔵という男であることを述べる。そして、そのことを、「私」と「自分」の文体の違いの文例で示す。しかし、読点の打ち方がそっくりで、『人間失格』は推理小説として矛盾をはらんでいる、と一応の結論を出す。

 そこへ、「でもそれも違う。」という一行を挟む。ここから「結」が始まる。太宰治が、つねに読点の打ち所を考え続けた作家であることを述べ、『人間失格』中の「忘れも、しません」という読点の使い方をもって例証とする。このことから、佐藤は、先の矛盾と見えた書きぶりは、大宰が「私」と「自分」の文章が同じ文体で書かれていることを意図的に示したものと考える。小説家と大庭葉蔵が同じ人物だとすると、「承」で問うた、この小説で人間失格とされているのは誰か、が分からなくなり、「両手で耳をふさいで叫びたいような」(この表現はムンクの絵「叫び」を思いながら書いたに違いない)気味の悪い読後感に襲われる、と結ぶ。

 読点の打ち方にこだわったところから、独特な評論ができ上がっている。さらに、謎を残して終わることによって、未読の読者を当該の書へ強くいざない、既読の読者にも再読欲を目覚めさせる。私はインターネットの書店・アマゾンにいくつかの書評[1, 2]を投稿してきたが、こういう書評の書き方もあるか、と学ばされる。>
  1. 和書書評の目次
  2. 洋書書評(英文)の目次

コメント(最初の掲載サイトから転載)

未月 12/02/2004 09:30
 その記事、ぜひ読んでみたいと思います。『図書』だから図書館に行けばありますよね(シャレじゃありません^^;;)。面白い書評は本当に惹きつけられるように読んでしまいますが、実際に自分が書くとなると難しいものです。

Ted 12/03/2004 08:17
 『図書』は、図書館になければ、書店の店頭で定価100円で求められます。ただし、下の Y さんのコメントへの回答にも書きますように、私は佐藤正午の評論を持ち上げすぎているきらいがありますので、その点をご了解の上、お読み下さい。

Y 12/02/2004 09:50
 太宰治『人間失格』は、作家・太宰治を生涯(27歳以降は)「演じ切った」太宰でも、さすがに「グッド・バイ」の手前の最後の作で、不朽の名作であることは揺るぎのないこと、今後もそうであることは間違いないのですが、もちろん、評者たち、文学研究者たちから、さすがの太宰も『人間失格』では完璧な作品を創れなかった、もう生きる力がそこまで残っていなかったため、欠点も散見される、と見る人が多いです、そのうえで、彼らは大絶賛な人が多いわけですが。私ももちろんそうです。
 「はしがき」と「あとがき」のうち、特に「はしがき」は異様に気取った文体で書かれてますよね。本文の大庭葉蔵の「恥の多い生涯を送ってきました」に始まる、「です・ます」体、それ以上の「恥の多い生涯」を文章にしている男性の、不器用ともなんとも形容のできない独特の丁寧調の文体と大違いですね。
 究極言って、「はしがき」は私は、太宰ほどの作家になれば、失敗に近いと思うんです。ただ、「あとがき」は、「葉ちゃんは、…神様みたいな子でした」という台詞で終わっているように、本文の「生きていけない、周囲に迷惑さえしょっちゅうかける」葉蔵と非常に対照的な、彼への形容で終わっていることなど、評価できる点であると思っています。
 それで、重要なのはひたすら主人公の告白の本文なのですね。「忘れも、しません。」に代表されるような、この大庭葉蔵の独特の読点の打ち方、これが彼の「人間失格性」の告白体として、どんな美文・文学的な文章よりも、素晴らしいものなんですね。
 Ted さんが挙げられた上記の評論よりも、私は個人的には、同じ読点に関心を寄せるのなら、太宰が創ったこの主人公の内面の苦しみにもっともっと近づく評論を書いて欲しかったですね。もっともこの評者では無理ですね、趣向が違いますから。『人間失格』は、趣味趣向で読む・評論する小説ではないと私は言い切りますが。
 だんだん Ted さんに対する話し振りが歯に衣着せぬものになっているのは、Ted さんへのいつわらない親しみの情を込めているしるしだと受け取ってくださいね。容赦ないしゃべり方が出来る方が、ほんとに私と本格的に話ができる、しかも親しい方です。

Ted 12/03/2004 08:30
 「歯に衣着せぬ」コメントを書いて下さり、ありがとうございました。私は Y さんから、そういうコメントをこそ期待していました。私は自分では『人間失格』を読んでいないので、佐藤正午の評論を持ち上げ過ぎたきらいがあります。そういえば、佐藤の書評は細部にのみ着目して、要諦を押さえていないものが多いようです。彼としては、そうした、やぶにらみの書評で特徴を出そうとしているのかも知れませんが、真面目に読む読者には迷惑でもあります。