[大連嶺前小学校同窓会会報『嶺前』第30号(2009年12月発行)に掲載した文を転載する。]
先号まで2回にわたって、私が初めて上海と北京の大学・研究機関を訪れて交流したときの記録を紹介した。その翌年の春には、上海と北京でそれぞれ世話になった F、C 両先生が京都で開催された会議にそろって来日され、会議のあと、私が当時務めていた大阪府立放射線研究所へ寄ってもらうことができた。今回はまず、その記録を紹介する。
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C、F 両教授を招いて:放射線談話会報告(1989年)
さる4月17日、北京師範大学の C 教授が来所し、新装なった講堂で、同大学の簡単な紹介に続き、「ポリプロピレンの放射線耐性にかかわる因子」と題する講演を行った。また、同時に来所した上海科学技術大学の F 教授が、好意により、「社会に利益をもたらす放射線プロセシング」と題する賛助講演を行った。
放射線談話会の講演要旨を本紙[引用時の注:『大放研だより』]で紹介することが習わしになっているが、今回は、その主講演の内容が談話会の世話をした筆者の専門分野と異なっていたので、C 先生に要旨の送付を頼んでおいた。しかし、最近の中国国内情勢[引用時の注:同年6月、天安門事件があった]のためか、C 先生からは、帰国後なんの音信も届いていない。そこで、例外的に演者たちのプロフィルを少し詳しく紹介し、談話会報告に代えることにしたい。
昨年筆者が両先生に招かれて講演し、歓待にあずかってきたところであるが、さる4月10日から15日まで京都で開かれた日中放射線化学シンポジウムのため両先生が来日し、お返しの招待をする絶好の機会ができたのである。
C 先生は、1953年に Fuzon 大学を卒業し、以後、北京師範大学化学系において研究と教育を続けている。この間、1982年から1983年までアメリカのメリーランド大学へ留学した。主な研究テーマは、化学線量計の開発と、放射線耐性を持った高分子の開発である。国際会議や IAEA の会合などのため、これまでにも4回、日本を訪問している。F 先生と同様に、国際的な研究協力に強い関心と熱意を持っている。同じく北京師範大学化学系の教授で無機化学が専門の夫君との間に、一男一女がある。
F 先生は1953年にアメリカのウィスコンシン大学を卒業し、1958年頃、ハーブ教授の下でぺレトロン開発のリーダーとして活躍した。1959年に中国へ帰り、以後、上海科学技術大学において、放射線物理学、放射線技術の分野で活躍して来た。現在、IAEA の放射線技術とその応用に関する地域専門家会議において指導的な役割を果たすとともに、上海放射線線量測定委員会委員長、上海放射線センター顧問などを務めている。将来に向けての主な関心はマイクロドシメトリーとのことである。夫人との間に一男がある。
4月15日の午後、両先生を京都の宿舎へ迎えに行き、筆者の家に二晩泊まって貰った。翌日曜日にどこかへ案内しようかと思ったが、F 先生はシンポジウムで疲れたので家でくつろぎたいと言い、C 先生も翌日の講演の準備をしたいとのことだった。午後、F 先生は筆者の娘に少し手伝わせて、4品の中国料理を作り、もてなしてくれた。その手際のよさと、美しく味のよいてきばえに感心した。彼はビールをたいへん好み、酔いがまわると、自慢ののどでアメリカの歌をいくつも聞かせてくれた。C 先生はやさしい性格の持ち主で、筆者の家のネコが、よくなついた。
追記:7月始め C 先生から要旨が届いた。
[大放研だより Vol. 30, No. 1, p. 23 (1989) から引用]
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さらに、その翌年、私は上海科学技術大学の F 教授の招きに再度応じることになった。以下はその記録である。
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上海再訪(1990年)
さる10月22日から出入りを入れて5日間、2年前に続いて2回目の上海訪問の機会を得た。ちょうどその週、NHK テレビのモーニングワイドの時間に、最近の上海の様子を紹介する特別企画があった。それをご覧になった方がたは、それを見ないで現地のごく一部を覗いてきた私よりも上海について多くをご存じかも知れない。しかし、なまの見聞からは、また別の印象も伝えられるかと思い、あえて上海再訪記をつづることにした。
2回の訪間の間には1989年6月の天安門事件があった。しかし、私たちの職場では、すでに89年10月、こんども私を招いてくれた F 教授のほか2人の放射線専門家を招いて、科学・技術の交流を行なっている。そのとき、高齢者に属する F 先生は、その頃一英文誌に掲載されていた天安門事件の記事も一べつした上で、中国の若者たちがあまりにも急激な変化を求め過ぎるので、強く取りしまられるのも仕方がないとの見方を述べていた。しかし、今回の帰国前夜に一時間あまり話し合った F 先生の助手の、まだ若い X 博士は、中国政府が軍隊を使って弾圧をしたことに対しては批判的であった。ひとつの研究室内に中国の縮図を見る思いがした。
私の乗った中国東方航空の便は、出発から到着まで予定よりかなり遅れていたが、出迎えの F 先生の到着のほうが遅かった。中国語の話せない私は、英語で話し合える F 先生をみつけたときは、本当にほっとした。私たちの研究に最も関心を持っているのは F 先生のところの W 副教授だが、彼女は北京へ出張中で、翌日はまだ帰らないとのことだった。それで F 先生は、私が第一夜を市街部の北西にある金沙江大酒店というホテルで過ごし、翌23日に市内見物をしたあと、夕方、郊外にある上海科学技術大学の室舎に移るよう計らってくれた。
金沙江大酒店の付近は高層アパートの建ち並ぶ住宅地で、夜はたいへん静かだった。F 先生は、日本のある女優が結婚後、夫とともにこのホテルに泊まったと話し、独身時代にはみな、もっと賑やかな場所のホテルを好む、とつけ加えた。朝、窓外を見ると、団地の向こうに中山公園と思われる緑地帯が望まれた。
市街には相変らずたくさんの人びとがうごめいていたが、前回の訪問時よりも服装の現代化がかなり進んで、若い人たちのほとんどは日本の町で見かける人たちと変わらない格好をしているようだった。そういえば、前回、人民服に似た紺色の上着とズボンを着用していた W 先生も、今回は青い上着の内側に真っ赤なジャケットをのぞかせていた。また、X 博士は私に「ひとつお願いがあるのですが」といって、彼の夫人のために日本のドレスメーキングの本を2、3冊送ってほしいと頼んだ。
24日は土砂降りの雨となった。宿舎の窓から見ると、自転車で通勤通学する人びとが、みな一様に、帽子つきのうす青色の雨ガッパを着て、ゆう然と進んで行く。自転車に乗った人たちが片手で傘をさし、足早にペダルを踏んで、あっという間に駆け抜けて行く日本の雨の朝の光景とは、だいぶん趣きが異なっている。
この雨の中を私に研究室まで来て貰うのは気の毒だといって、その日の午前は F 先生、W 先生、それにもう一人の女性の副教授が宿舎の私の部屋へ研究の討論に来てくれた。宿舎の部屋には、寝室のほかに、書斎用の机・いすと応接セットの備わった別室が付属しているので、そこでゆっくり討論することができた。午後は、いくらか小降りになった雨の中を F 先生の研究室へ出かけ、一時間半ばかりの講義をした。
翌25日は、市街部にある上海輻射中心(日本風にいえば、放射線センター)と上海計量研究所の放射線部門を再訪した。前者では、貯蔵期間を延ばすためにガンマ線を照射した果物の試食にあずかった。ここでは、食品保存の研究がおおむね目標達成に近づいたので、新しく低エネルギー電子線加速器を設置して、放射線化学的技術の開発に向う予定とのことだった。
日本では企業の研究所で行なっているような開発研究も、中国では大学や国の研究機関で進めなければならず、F 先生は大学間の交流に加えて、今後は日本の企業の技術的指導や援助を大いに期待したいといっていた。私は、わが国では政府の進める「産官学共同」の科学技術政策のもとで、基礎研究の枯渇の恐れがあることや、わが国の企業はその豊かさにもかかわらず、長期的視野での投資を好まない傾向にあることの具体的な例を話した。あとの話に対して F 先生は「いつどこでも、金持ちは近視眼的なものだ」といって笑った。
敗戦後しばらく中国に残留した私の知人[引用時の注:嶺前小で2年先輩の I さん]が中国の大学で学んで帰国し、そのすぐあとで、同じ経験をした人たちとともにその思い出を執筆し出版したことを、私は最近知った。その本の中で、執筆者たちは異口同音に、少し前まで敵国民であった自分たちに対して、中国の先生や学生たちがいかに温かく親切であったかを印象深く記していた。それを読んだ私は、中国の人たちが困っているときには、われわれ日本人はできる限りの援助をしなければならないと強く感じたということを、25日の上海輻射中心主催の昼食会の席で話した。
到着した日の夕食時、F 先生は東欧の政治的変化に触れ、「それは決して社会主義の崩壊を意味するものではない。伝統あるものがたやすく崩壊しはしない。人類の太古の暮らしは社会主義的だったのだから」との彼の考えを語った。中国の政治が、人類のよい伝統を正しく発展させる方向に進むことを心から望みたい。
[『堺文化会ニュース』No. 85 (1990年11月) から転載]
(つづく)