戦後、GHQが日本にあった四つのサイクロトロンを廃棄した。京都大学にもそのうちの一つ、荒勝文策(1890–1973; この文に登場する各教授は私の間接・直接の恩師であるが、故人となって久しいので、歴史上の人物扱いとして敬称を略す)らによって建造中のものがあった。ところが、京都大学の総合博物館には廃棄をまぬがれたサイクロトロンの部品、ポールチップが残されていた。
どのような経緯でポールチップが廃棄をまぬがれ、誰の手によって京都大学の総合博物館に移設されたのかを調査したドキュメンタリー『よみがえる京大サイクロトロン』の上映会が、2008年3月26日に京都大学附属図書館で行われた [1, 2]。私は、戦後そのサイクロトロンの再建チームを率いた木村毅一(1904–1992)の研究室で学んだ関係で、その上映会に参加したかった。しかし、残念ながらその日は上京の予定があって行けなかった。
思えば私が木村研究室の大学院修士課程に在学したのは、京大サイクロトロン再建完成の1954年から間もない1958–1960年であり、同装置を使って実験を行う諸準備を手伝うため、実習を兼ねて何日か蹴上のサイクロトロン室へ通ったのだった。私は修士課程の修了も近い頃、サイクロトロン室の柳父琢治から、間もなく始める重陽子ビーム使用の実験チームに入らないかと誘われたが、すでに木村の建設した研究所 [3] に就職を決めていたので、断らなければならなかった。(柳父は私が博士課程に進学するものと思っていたようだ。のちに柳父は、私の学位論文を審査する副査の一人となった)。
荒勝、木村らは、これより先、1934年に台湾にあった台北帝国大学において、アジアで最初の加速器(コッククロフト・ウォルトン型)の建造に成功していた。私は二、三日前、インターネットのフリー百科事典『ウィキペディア』に「木村毅一」の項 [4] を執筆し、その中に「台北帝国大学」の名前を記した。その現在の名称が「台湾大学 (National Taiwan University)」であると知り、さらに同大学にはコッククロフト・ウォルトン型加速器が展示されていると聞いた。そこで、その詳細を知りたいと思い、インターネットで「台湾大学 荒勝文策」の検索を試みた。その結果、[5]、[6] のウエブページを見つけた。
どちらも展示館を実際に訪れた人が書いたもので、さらに [6] は『よみがえる京大サイクロトロン』の制作者・中尾麻伊香さんが、ここと同じ Blogger に開設しているブログサイトの一ページだった(同サイト内の [7, 8] も読んで、コメントを残した)。台湾大学に陳列してあるのは、荒勝らが部品を解体して日本へ持ち帰ったあと、戦後間もない1948年に台湾の研究者たちが再建した加速器である。荒勝、木村らの写真や関連史料もおかれているという。
なお、[6] には展示館パンフレットに載っている英文の説明文が引用されている。その中にコッククロフト・ウォルトン型加速器を "Cockcroft-Walton Linear Accelerator" と書いてあるのは、いささかおかしい。普通 "Linear Accelerator" と呼ばれるのは、高周波電場を使って加速するものであり、静電型のコッククロフト・ウォルトン型とは加速方法が基本的に異なる。
文献
- 京都大学イベント情報:「よみがえる京大サイクロトロン」上映会.
- 中尾麻伊香, 京大サイクロトロンの物語.
- 大阪府立放射線中央研究所, フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』.
- 木村毅一, ibid.
- 台北のハイテクビル, 金子務の科学史の街角, 第1号 (2006年1月31日).
- 台湾訪問, ブログサイト『よみがえる京大サイクロトロン』のページ (2008年11月3日).
- 日本の原爆研究, ibid. (2008年11月21日).
- 科学技術映像祭入賞, ibid. (2009年3月11日).
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