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文献 3『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』。
Side-by-Side Translations of Shelley’s Poems (Ref. 3).はじめに 先に
The Intellectual Devotional(文献 1)でパーシー・ビッシュ・シェリー作の詩「オジマンディアス」を読み、インターネット上にあった和訳(文献 2)の誤りなどに気づき、自ら訳してみたことを記した(
こちら)。先日、大阪・梅田に用事があって出かけたついでに、紀伊国屋書店で『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』(文献 3)を見つけて買ってきた。その中にも「オジマンディアス」の和訳があるからである。文献 3 の前書きによると、訳については「様々な先行文献を参照した」とあって、編者自身の訳と言ってよいかどうか分からないので、ここでは文献 3 の出版社の名をとり、「岩波訳」としておく。
まず、先に掲載した原詩と拙訳、そして岩波訳を記し、そのあとで岩波訳と拙訳の比較を試みる。二つの和訳の相違はそれほど大きなものではなく、比較の論はかなり細かい話になる。しかし、詩人は言葉をよく選ぶものであろうから、その作品を訳すには細心の注意が必要であろう。
後日の追記:本記事の内容を論文、リポート等の参考にされる方は、必ず本記事を参考文献として引用して下さい。書き方は次の例を参考にして、論文等の体裁に合わせて下さい。
多幡達夫「『オジマンディアス』の岩波訳と拙訳を比較する 」、ブログ "Ted's Coffeehouse 2"(2018年)https://ideaisaac2.blogspot.com/2018/12/comparison-of-japanese-translations-of.html。
特に学生諸君へ:本記事は英文学が専門の先生方の目にも入っていますので、無断引用があれば、盗用として厳しく減点されることに留意して下さい。原詩と二つの和訳 原詩は次の通り(文献 4)。
拙訳は次の通り。
私は古代に栄えた地から来た旅人に出会った。
その人は言った:胴のない二本の巨大な石の脚が
砂漠に立っている。その近く、砂の上に、
半ばうもれて、砕けた顔があり、その渋面、
しわ寄った唇、そして冷酷に威圧する嘲笑は、
告げている、その彫り師がこうした情感をよく読み取ったことを
その情感はいまも生き延びている、この命のないものに刻まれ、
それを写し彫った手と、それを生んだ心を超えて。
そして台座には、次の言葉がある。
「わが名はオジマンディアス、諸王中の王、
わが業を見よ、汝ら力強い者よ、そして絶望せよ!」
傍には何も残っていない。この巨大な残骸の
断片の周りには、限りなくむなしく
寂しく平坦な砂地が遥か遠くまで広がっている。
注:13 行目の「むなしく」は、先に掲載した時に「がらんとして」だったが、『広辞苑』(第七版)によれば「がらん」は「一定の空間に何もなく、広くて空虚なさま」(下線は筆者)であり、前にある「限りなく」という空間の形容と合わないので修正した。
岩波文庫訳(文献 3)は次の通り。
古(いにしえ)の国から来た旅人に会った
彼は言った——「二本の巨大な胴を失った石の脚
沙漠に立ち……その近くに、沙(すな)に
半ば埋(う)もれ崩れた顔が転がり、その渋面
皺(しわ)の寄った唇、冷酷な命令に歪(ゆが)んだ微笑
工人その情念を巧みに読んだことを告げ
表情は今なお生き生きと、命なきものに刻まれながら
その面持(おももち)を嘲笑(わら)い写した匠(たくみ)の手、
それを養った心臓より生き存(なが)らえて
そして台座には銘が見える。
我が名はオジマンディアス、〈王〉の〈王〉
我が偉勲を見よ、汝ら強き諸侯よ、そして絶望せよ!
他は跡形なし。その巨大な〈遺骸〉の
廃址の周りには、極みなく、草木なく
寂寞たる平らかな沙、渺茫と広がるのみ。」——
訳の比較:前半部 1 行目、岩波訳では日本語らしく原詩の "I" を省略しているが、拙訳では原詩が英語であることを尊重して、"I" の訳「私は」を入れた。"a traveller from antique land" は岩波訳にある通り、「古(いにしえ)の国から来た旅人」であるが、この表現では、過去から時間を超えやって来た旅人をも想像しかねない。ただし、旅人が語った以下の内容を読めば、その地の現在を見て来た人と分かる。そこで、拙訳では文献 5 の「いにしえに栄えた地から来た旅人」に倣って、「古代に栄えた地から来た旅人」とした。
2 行目、関係代名詞 "Who" は、岩波訳の「彼は」を誰でも思いがちだろうが、性別が明らかでない who を男性とみなすのは偏見になると考え、拙訳では「その人は」とした。旅人が述べた言葉の引用を示す岩波訳のホリゾンタルバー(——)と始まりのかぎ括弧(そして14 行目の末尾にある終わりのかぎ括弧とホリゾンタルバー)は、同じ目的の記号の重複である(原詩の引用において、岩波の本には「—“ 」と、重複式で始まり、「 ” 」だけで終わる非対称な形をとっている。これは、例えば、文献 6 に見られる表記である。なお、岩波訳 3 行目の「......」も文献 6 に見られるものである)。他方、拙訳のコロンでは引用の終わりが不明瞭だが、上掲の原詩(文献 4)の形を尊重した。
同じく 2 行目、"Two vast and trunkless legs of stone" を「二本の巨大な胴を失った石の脚」とした岩波訳では、「脚」に至って初めて、「二本の」、「巨大な」、「胴を失った」のいずれもが「脚」を形容していると分かる。「巨大な胴」とつながっていると思われないように、原詩の "and" を生かして、「二本の巨大で胴を失った石の脚」とする方がよいと思われる。拙訳では形容関係を分かりやすくするため、あえて語順を変え、「胴のない二本の巨大な石の脚」とした。
4 行目、"sneer of cold command" の "command" を岩波訳は普通名詞の「命令」と解釈しているが、冠詞がついていないところを見ると、"control" と同義の抽象名詞と見るのがよいと思われる。そこで、拙訳は "of" 以下を「冷酷な制御の」つまり「冷酷に威圧する(ような)」という形容句と考えた。"sneer" は「冷笑」という意味だが、これを使うと「冷」が重なるためか、岩波訳では「微笑」としたが、結果的に「冷酷」を半ば打ち消している。拙訳では「嘲笑」を使い、そうなることを避けた。
6 行目、"sculptor" を岩波訳は「工人」とした。『広辞苑』(第七版)によれば、工人とは「中国で、労働者のこと」と説明されており、これでは "sculptor" の意味が出ない。拙訳の「彫り師」は、文献 2 の「彫師たち」を参考にしたが、原詩では単数形であり、誤りを正して使った。
同じく 6 行目、"passions" を岩波訳は「情念」とし、拙訳は「情感」とした。
Random House English–Japanese Dictionary に "passion" の複数形用法の訳語として「情感」が「感情」と並んで記されていて、この両者はほとんど同義であり、内容的には熱い心から冷たい心まで、いずれにも当てはまる中立的な言葉である。他方「情念」は、『岩波国語辞典』(第五版)の説明が「心にわき、つきまとう感じと思い」と分かりやすく述べているように、感情を表す言葉としては、ねばねばした、あるいは熱いものを連想させる傾きがある。したがって、「情念」はこの彫像の顔の冷酷さとはいささか相いれないように思われる。
7 行目、"Which" は前行の "passions" を受けており、8 行目の "them"、そして同行目末尾に省略されている目的語も "passions" である(文献 7 の Note 6)。岩波訳は前二者を「表情は」、「その面持(おももち)を」と表現を変えているが、拙訳では「その情感は」と、これを受けた「それを」を使い、「情感」という解釈で通した。この相違が "the heart that fed" の訳の相違につながる。岩波訳では「[その面持を]養った心臓」となり、拙訳では「[その情感を]を生んだ心」となる。なお、岩波訳では 8 行目の "mocked" に「imitated と derided と二つの意味がかけてある」(同訳の脚注)として、「嘲笑(わら)い写した」と二つの動詞を使って訳している。私はそこまでは気づかなかった。「戯画」という言葉があるが、「戯彫刻」あるいは「戯刻」という成語があれば、「戯刻した」と一つの動詞で表せるのだが。
訳の比較:後半部 10 行目、"king of kings" は岩波の本や文献 6 の原詩の表記では "King of Kings" と大文字で始まっており、岩波訳の「〈王〉」の山かっこはこれに対応させたものであろう(同じ山かっこの使用が 13 行目に原詩の同上表記に大文字で "Wreck" と始まっている語の訳にも見られる)。拙訳では "of kings" に複数形が使われていることを尊重した。なお、岩波訳では台座の銘が 10、11 行目の 2 行であることが分かりにくい。
12 行目、"Nothing beside" について、岩波訳は beside が Nothing を形容していると捉えたが、拙訳では文献 7 の Note 12 に シェリーの原稿に "No thing remains beside." となっている、とあるのを参考にした。
12 行目の岩波訳にある「草木なく」について言えば、草木のないのは確かに "bare" であるが、"bare" は草木がないだけに限らないであろう。この懸念を避けるには「草木もなく」とする手もあろうが、「草木」という具体的な名詞がいったん提示されると、砂漠にありそうなわずかの草木が脳裏に浮かび、「なく」と否定されても、残像のように脳裏に残って、完全には消し難いという欠点がある。拙訳の「むなしく」は、オジマンディアス像の残骸以外には草木はおろか何の跡形もないことを簡潔に表している。
むすび 以上、岩波訳と拙訳を比較して、拙訳に多くの点で長所があることを述べた。英文学者でもない私であるが、理系研究者として論文を書く際の一つの重要な心構えに、自分の考えが正しいはずという根拠があれば、たとえ従来の考えと異なっていても、それを気後れすることなく述べるべきだということがあるのを実践したまでである。
文 献
- D. S. Kidder and N. D. Oppenheim, The Intellectual Devotional: Revive Your Mind, Complete Your Education, and Roam Confidently with the Cultured Class (Rodale, New York, 2006).
- 壺齋散人(引地博信)「オジマンディアス OZYMANDIAS」
(https://poetry.hix05.com/Shelley/shelley02.ozymandias.html)。
「『オジマンディアス』とは、古代エジプト王ラムセス 2 世のこと【タイトルの意味】」
(http://breakingbadfan.jp/trivia/cranston-ozymandias/)にも引用されている。
後日の追記:ただし、上記の壺齋散人氏による文献は原詩の句読点を全く無視しているなどの欠点があり、参考にされないことを望む。この点については、2020 年 10 月 27 日付けの匿名さんのコメントでご指摘いただいた。
- アルヴィ宮本なほ子編『対訳 シェリー詩集――イギリス詩人選(9)』(岩波文庫、2013)。
- Percy Bysshe Shelley, "Ozymandias" in Miscellaneous and Posthumous Poems of Percy Bysshe Shelley (W. Benbow, London, 1826) p. 100
(https://play.google.com/books/reader?id=MZY9AAAAYAAJ&printsec=frontcover&output=reader&hl=en&pg=GBS.PA100).
- 岡村眞紀子訳「オジマンディアス」、武田雅子「英詩入門―いろいろな詩の技法―」
(https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181116195723.pdf?id=ART0009622599)中に引用。
- "Ozymandias By Percy Bysshe Shelley", Source: Shelley’s Poetry and Prose (1977). Poetry Foundation (https://www.poetryfoundation.org/poems/46565/ozymandias).
- "Ozymandias" (http://rpo.library.utoronto.ca/poems/ozymandias), in Representative Poetry Online.
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