2009年6月28日日曜日

中国との交流記 (2) (Academic Exchanges between China and Me 2)

 大連嶺前小学校同窓会会報『嶺前』第29号(2009年6月発行)に掲載された文の原稿をここに載せる。なお、『嶺前』に掲載されたものは、文と字句の脱落や多くの改行の追加があり、原稿に忠実ではなかったので、次号に訂正を載せる予定である。




 以下は、前回引用した引揚げ後の私の最初の中国訪問記の続きである。執筆したのが1989年で、訪問はその前年だった。ちなみに、ネイチャー誌の2008年10月2日号に、トリエステにある第3世界科学アカデミーのモハメッド・ハッサン氏が書いた「北京1987年」という文が掲載されていた。それには、この年に中国が初めて国際会議を開催し、鄧小平が北京で各国からの参加者たちを歓迎し、中国科学界の国際化が始まったとある。私が中国の科学者たちと接触を始めたのが同じ1987年で、日中国交回復の年から見て遅かったように思ったが、それは中国科学界の「国際化元年」で、むしろ、大いに早かったのである。

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続・上海と北京を訪れて(1989年)

 11月4日の夕方、上海から北京へ飛んだ。北京空港には、チェン先生の代わりに、先生の研究室のルーさんが迎えに来ていた。彼女は3年前に東京都立アイソトープ研究所に留学していたとのことで、私たちの研究所へも一度見学に来たそうだ。彼女が大学の車で送り届けてくれた北京師範大の宿舎も、上海科技大のもののように寝室と書斎が別室にこそなってはいなかったが、部屋はゆったりとしており、立派な書斎机が備わっていた。

 翌11月5日の午前は、北京師範大低能核物理学研究所(「低能」は低エネルギーの意)の線形電子加速器とチェン先生の放射線化学研究室を見学した。線形加速器は、高周波の供給に磁電管を使ったエネルギー3百万~5百万電子ボルトの小型のもので、加速管は水平面に対して約30度傾けて設置されていた。先端に取りつけられたスキャナーで、半導体素子を照射しているところだった。チェン先生の研究室ではフィルム線量計、耐放射線性のプラスチックと接着剤などの開発研究をしていて、作成・テストした試料が説明を添えてきれいに陳列されていた。

 昼には大学の食堂の一室において、化学系主任教授のウー先生の主催で、チェン先生、ルーさんも交えて、歓迎の会食にあずかった。午後2時から、上海科技大のと同じような小さなセミナー室で、上海計量研でしたのと同じ内容の講義を行った。1時間の予定だったが、始めのうちチェン先生が中国語に通訳していたのと、英語での講義にもようやく慣れて、予定になかった詳しい説明を時どき挾んだりしたため、2時間近くかかった。

 11月6日の日曜日は、前日来の腹の不調が治らなかったので、チェン先生の研究室の講師の リウ氏に観光案内をして貰う予定だったのを変更し、帰りの切符の再確認のため中国民航の事務所へつれて行って貰うだけにした。このときリウ氏が、拾ったタクシーの運転手に頼んでくれて、翌日の観光と翌々日早朝の空港までの移動にも同じタクシーの世話になることになった。

 リウ氏は外国語としてはロシア語を主に学んだとのことで、彼との英語での会話はしばしば困難をともなった。しかし、渡欧を控えての準備に忙しかったチェン先生に代わって、彼は故宮博物院や、天安門、友誼商店などを誠意のこもった温かさで案内してくれ、北京を去る日も、宿舎出発が朝5時半という早い時間だったにもかかわらず、空港まで同行して見送ってくれた。この日には、腹の調子も完全に回復し、よい思い出とともに中国をあとにした。

[以上、『大放研だより』Vol. 29, No. 4 (1989) から転載]

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 次に、ここまでに引用したのと同じときの中国訪問から、上海で見聞した、中国の文化事情に多少なりともかかわることがらについて、別のところに記した文を引用する。前回引用の文と重複するところは削るようにしたが、一部、前後関係から削り難いところもあり、重複が残っていることをお許し願いたい。

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中国訪問記(1989年)

 13時15分に大阪空港を飛びたった中国民航機は約2時間後には、もう上海上空にさしかかっていた。乗っている時間だけでいえば、新幹線で東京へ行くよりも早い。一面の農地の所どころに白壁、黒屋根の長方形の家いえが、適当な間隔をおいて整然と並んでいるのが見え、学校や工場らしいものがいくつか小さく見えたと思っているうちに空港へ進入していた。密集した人家の上にごう音をまき散らしながら大阪空港へ滑り込むのとはだいぶん様子が違う。

 上海の空港は、市街部の南西のはずれにある。上海科学技術大学のフェン教授が同僚の ワン女史とともに、大学の古びた公用車で出迎えてくれた。大学は市街部の北西のはずれ、嘉定県というところにある。大学までの道中、機上からみた農村風景が車窓に展開する。江南の穀倉地帯を形成する広びろとした田は、刈り入れ期であった。農家は日本の小さな建て売り住宅を2、3軒合わせたほどの大きさの2階建てで、大きいものは12部屋からなるそうだ。

 沿道には、ずっと並木が続いている。自転車に乗った人びとがたくさん行きかう眺めは和やかだ。さらに工場地帯などを走って、約1時間後に大学の近くまで来た。ところが、当日は上海に初めてできた高速道路の開通日で、その入口付近の交通渋滞をさけるための回り道をして、大学の宿舎に到着したのは、空港出発から約1時間半後だった。後日フェン教授と市街部へ出るときに高速道路を通ったが、何台もの自転車が高速道路をゆう然と走っているという、のんびりした情景を目にした。

 上海科学技術大学の外来者用宿舎の寝室には、日本製らしい電気蚊取り器があった。トイレツトペーパーはどこへ行っても粗末なものだった。上海の最後の夜は、国際飯店という古くからある一流ホテルをあてがって貰ったが、そこに備わっているトイレットペーパーも同じである。ティッシュペーパーをたくさん持って行くといいといってくれた友人の忠告に従ってよかった。

 宿舎での食事は豊富で、たとえば上海での最初の夕食には、小エビとカリフラワー、肉、白菜それぞれの油いため各一皿、キノコのスープ、ライス、かんづめのナシ、それにジュースが出た。全部は食べきれず、「私には多過ぎました」と料理人に英語で伝えると、彼はそれに相当する中国語を教えてくれた。翌朝は、かゆ、だんご、たまご、つけもの、かんづめの果物、牛乳、コーヒーであった。ボール箱ごと食卓におかれた角砂糖の上を、アリが一匹はい回っていたのも、おおようで自然な感じがした。

 しかし、4日目にフェン教授とシー講師の案内で観光させて貰ったユイユアンという庭園の近くの食堂にハエがたくさんいたのは、ややうるさかった。とはいっても本場のギョーザやシューマイの味は格別であった。シー講師に「お宅には車が何台ありますか」と尋ねられ、車を持たない日本人もいることを知って貰うことができた。それと引きかえに私の方は、革命後の中国にはハエやカがいなくなったとの話が伝説に過ぎないことを知ったわけである。

 中国では土曜日もまる一日労働日であるが、昼の休憩時間が11時から1時までと長い。昼食後、午後の労働時間まで昼寝をする人たちもいる。男女平等は徹底しており、大学の教官、研究所職員もほぼ男女同数である。

 上海科学技術大学のほか、上海の市街部にある上海計量研究所でも講義を行った。計量研究所のことを、私はうかつにも前日まで気象研究所と思い込んでいた。フェン教授からの手書きの英文手紙にメトロロジーとあったのを、その言葉になじみがなかったため、メテオロロジーの書き間違えだろうと早合点していたのである。私が計量学という言葉の英語になじみがなかった理由のひとつに、日本の国立研究機関では、放射線の計量についてだけ電子技術総合研究所の担当になっているということがある。訪問の前日「気象研究所がなぜ放射線の線量測定に興味を持っているのですか」とフェン教授に尋ねて、ようやく思い違いが判明した。

 フェン教授はアメリカの大学で学んだ人なので、「租界」時代の西欧風建築物の並ぶ上海の街を、彼の流ちょうな英語に耳を傾けながら歩いていると、アメリカヘ来ているような錯覚におちいりそうになる。しかし、彼の上海や中国の歴史についての的確な説明や、路上の多くの人びとの流れが、すぐにその錯覚から引き戻してくれる。

 彼はふと、「街のたたずまいや人びとの服装、さらには顔かたちも時代とともに変わる。しかし、歴史は変わらない」という言葉をもらした。この言葉は私に、最近日本の歴史の教科書から第2次世界大戦中の日本の悪事についての記述が消されつつあることを連想させたので、それについて話し、これはたいへん具合の悪いことだと思っていると述べた。フェン教授は「大切なのは、各国の人びとがお互いに理解を深め、協力し合って行くことだ」と答えて、慰めてくれた。

 上海の街は、交通や産業構造の面で難問を抱えているように見うけられた。しかし、そこにあふれうごめく無数の人びとのエネルギーが、街角でよく見かけた国策のいろいろな標語の実現に向かって結集されて行くならば、その将来の発展は目覚ましいものになりそうな気がした。おびただしい数の自転車の流れが、車の流れに変わるようなことのないように望みたい。

[『堺文化会ニュース』No. 74 (1989) から転載]
(つづく)

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