2005年7月13日水曜日

ヴェスヴィオ山(写真)/ 『こゝろ』の感想

ナポリ湾岸の道路から見たヴェスヴィオ山(2003年5月13日撮影)。

『こゝろ』の感想

高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年10月1日(水)晴れ

 開校記念式。校歌を印刷した紙が配付される。これは『菫台時報』にとって邪魔物の他の何物でもなかった。そう感じるならば、新聞をきょう発行するように努力すべきだったが、それが出来なかったため、校歌の印刷物に何かケチをつけたいという、卑屈さと排他性の混合物のような気持が起こって、隣に腰かけていた Octo に、「新旧仮名遣いがまじってるな」といってみた。歌詞だけを漢字交じりで書いたところには、新仮名遣いで書かれたものとすれば四つ、旧仮名遣いで書かれたものとすれば三つの間違いがあり、楽譜に書き込んである仮名の歌詞には、新としても旧としても八つにおよぶ誤りがある。ぼくの相変わらずの誤字発見趣味を、Octo はどう思っただろう。
 校歌は、真理の探求、知性を携えての道義の道のまい進、理想の保持、の三つを謳っている。これらは、決まり文句のようではあるが、われわれが根本的に必要とするものばかりだ。
 式に続く記念講演は、前号の「門をたゝく」で KN 君が訪問した明星学苑創立者・北陸新聞社社長の赤井米吉氏の「恐れなき生活」と題するものだった。氏は、「実力を養い、技術を身につけ、確固たる信念で前進せよ」と叫んで結ばれた。

 罪もしくは自分で罪だと感じたことの遂行の後にやって来た呵責に追いつめられて、「先生」は自殺した。混乱の中にあって人の心にまず生ずるのは、利己主義と猜疑と欺瞞であり、その後に消極的な形においてではあるが、必ず襲って来て心をじりじりとむしばむものが後悔であり、これらが多くの人間に起こりがちな、悪心と良心のまずい葛藤の正体である、ということが表現されているように思う。――読後感というほどにははならないが、漱石の『こゝろ』を読み終ったので、これだけ書いておく。

(Sam)

 午後の授業が終るとすぐ校門を出るつもりだったが、そういうわけにもいかず、鳴和病院に着いたのは三時を少し過ぎた頃だった。血沈を調べ、それからレントゲン撮影をする。その後で診断を受けた。
 「健康」という判定を得たが、濃厚感染なのだという。相当やられているが、ごく最近になって治った形跡が見えるということである。体の抵抗力が強かったため、大事に至らなかったのだという。誰か重い患者のが感染したのだろうとのことだった。
 とにかく、もやもやは晴れた。病院を出たとき、ほんとうに空気がうまいと思った。

0 件のコメント:

コメントを投稿