ポンペイの遺跡の公共広場(フォーロ)(2003年5月14日撮影)。
高校新聞の私的採点
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年10月9日(木)曇りのち晴れ
帽子をまっすぐに被った旗艦(大将といったかも知れない)が一人いて、彼は帽子を横向きに被った駆逐艦を捕獲でき、駆逐艦は帽子を後ろ向きに被った潜水艦を捕獲でき、潜水艦は敵の旗艦を沈め得る(捕獲された船は敵陣につながれ、見方の旗艦が助けに来るのを待つ。旗艦が沈んだ方が負け)というルールで二組に分かれて行う遊びが、戦争中にあった。その遊戯で自らが一軍の勝敗の鍵を握る旗艦になったときや、あるいは、騎馬戦で馬上の人になったときに感じる感じを、何かのことでそのことを統率しなければならない立場にある者は抱くだろう。そして、その感じは、自信と責任感を含んだものでなければならない。
コンクール参加の県下各高校の新聞15紙が集まり、各一部を IT 先生から借りて来た。新聞名とぼくの私的採点結果(10点満点)をここに記しておく。[1]
1 (1) 「いずみの原」27~29号(石川県立金沢泉丘高等学校)9.7
2 (2) 「金大附高新聞」6~8号(金大教育学部附属高校新聞委員会)9.4
3 「二水新聞」18~21号(石川県立金沢二水高校新聞班)8.4
4~6 [略]
7 「菫台時報」14、15号(石川県立金沢菫台高校生徒会)7.8
8 [略]
9 (佳作)「北泉新聞」25、26号(金沢市立工業高校新聞班)7.5
10 (2) 「小松高校新聞」13、14号(石川県立小松高校生徒会新聞局)6.9
11 [略]
12 (佳作)「羽松ケ丘」18、19号(石川県立羽咋高校)4.8
13~15 [略(15位の得点は4.0)]
急いで採点したので、いくらか直感的になっているだろうが、一応見てくれ給え。平均点が同じ場合は、提出部数によって順位に差をつけた。編集方針を斟酌しないで、「感じが悪い」というぼくの主観で点を下げたものもあったかも知れない。「二水新聞」の点は辛過ぎたようだ。H・I さんが「C活」(君が「クラ活」と書いたものに対して、ぼくが使ってみた表現が、ちゃんと見出しに使われていたので驚いた)の現状について述べた感想が8号に掲載されている「金大附高新聞」は、最も新聞らしい感じがするとともに、垢抜けもしていたが、他方で欠点も目立ち、採点の結果は2位になった。
引用時の注
数字は私の採点順位。朱書は、後日発表されたコンクールの結果。号数の後の括弧書きは、新聞に記載の発行団体名。採点は各号に対して、編集と内容について行って平均し、日記にはその詳細と、備考欄にコメントも記していたが、ここには平均点のみ引用する。1位と2位の一つを的中させた私の採点では中程度以下だった新聞が、コンクールでは、もう一つの2位や佳作に選ばれているのは、普通高校以外の高校や、金沢市以外の文化的辺境にある高校の努力をたたえる意味もあったであろう。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
四方館 07/18/2005
Ted さんの書いている遊びは水雷艦長=母艦水雷(ここに説明がありました)というのだと思います。 私の小学時代も高学年になると男の子はみんなしていましたね。ところが中学へ入るともうまったく見かけませんでした。私の中学入学はS32年ですが、ちょうどそういう端境期だったのかもしれませんね。
Ted 07/18/2005
敗戦後もこの遊びが続いていましたか。私は大連で戦争中にこの遊びをしましたが、引き揚げ後の金沢では、全く見かけませんでした。ご紹介のウェブページは、87歳の方が作っておられるようで、感心しました。(後日の注:2011年12月1日現在、そのウェブサイトは「94才のホームページ」の名に変って、なお健在です。)
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