2005年7月12日火曜日

カプリ島の街路(写真)/ 禁止令が出た



イタリア、カプリ島の街路。2003年5月13日撮影。
(前回の写真と掲載順が逆になった。)

禁止令が出た

 高校時代の交換日記から

(Ted)

1952年9月30日(火)晴れ

 理想的なのと実際的なのと精神的なのと肉体的なのと、それらが合一しなければ、本当のものではあるまい。そして、それは、希求すべきときに希求すべきものの一つであるのみである。

 新聞クラブの1年生で逸山氏 [1] の子息である SM 君が、昨日、校歌を練習中の合唱クラブ員たちの写真を撮ってくれたが、2枚とも失敗だったそうだ。放課後、「テナーのうまい人」たちが練習しているところへ行って、また撮らせて貰った。すべては、あと4日のうちに。

(Sam)

1952年9月30日(火)曇り

 風邪を引いたようだ。しかし、疲労は感じない。演劇部の連中に感謝された。

 禁止令が出た
[2]。「学校は学問をするところである。娯楽の場でない。たとえ、休憩時であり、放課後であっても同じである」と。

 引用時の注

  1. 金沢生まれの写真家、島田逸山(しまだいつざん、本名島田憲吉、1897–1959)。俳句にも造詣が深く、俳句誌『沢の光』を主宰した。顕彰碑が金沢市・卯辰山にある。(以上、ウェブサイト「卯辰山のいしぶみ(碑)」による。)

  2. 校内での将棋に対して、だろうか。

 [以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

Y 07/12/2005
 面白い日記ですね。Ted さんの一文目、理想的・実際的・精神的・肉体的と、当時のTed さんが生きる領域をよく概念化されましたね。現代の学問的な文化論でもこうだと思います。私の立場は、精神的なものと肉体的なものとを一元的に考える点のみ、多少特殊なのですが。「それらが合一しなければ」、しかし、なかなか合一はしませんね。現実の生は整合性と異なる原理で動くことが多いですから。「本当のものではあるまい」の「本当のもの」とは、「理想的なもの」であると同時に「わたし本来のもの」という意味も含まれているかと読み取れました。
 二文目は、「希求すべきときに希求すべきものの一つであるに過ぎない」という意味ですよね。私も、希求精神があっても、「希求すべき」と、「~べき」でたえず考え、動いている人間です。また「○○はあくまで~の一つである」と、自分の生き方や考えかたが幅広い視野の中の可能で必然性のあるひとつである、という考え方が若い人にできるようになることは、とても重要なことだと思います。
 Sam さんのほうについて。私は学問と縁のなかった状態で、それが何かも知らずに大学に入り、学問の面白さを知りましたが、高校までの学校で学ぶことも、十分学問性がある内容は含まれていると思います。ですから学問という言葉をこのように日常的なものと感じられるような言葉は歓迎しますね。

Ted 07/12/2005
 私の日記の第1パラグラフは、あえて注を付けませんでしたが、「恋人にしたい女性」について書いたのでした。「ある面で惹かれる女生徒は何人かいるが、誰が私の恋人として望ましいかと考えると、みな四つの面の合一性に欠ける。しかし、恋人は、いまはまだ求めなくてもよいのだ」という意味です。いま書いたような形で、はっきり書くことを恥じる年頃だったので、抽象的に記したのです。

Y 07/12/2005
 そうでした、Ted さんは、具体的な何か、とくに恋愛について、理論的なまでに考えられることが多いですものね(今まで読ませていただいて)。けれども実際に、恋愛でものすごく人間について大事なことがわかることは多いと思います。文化論から除外される領域ではありえないでしょう。それから直接には書けないことを、比喩や抽象度を高めることで書かれる力も、Ted さんのひいでたところだと思います。

Ted 07/12/2005
 恐れ入ります。

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