先にも紹介したが、こんどは一度に三つも花が咲いたので、
再度写真を撮った(2005年6月28日)。
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年9月24日(水)晴れ
生徒会長 OK 君が開校記念行事の運営に忙しくて、『菫台時報』の論説を書けないという。では、一体誰が書くか。
秋の旅行が、また片山津か。片山津対和倉対宇奈月が12:10:10だったのに、そのまま決まってしまった。1/3にも満たないから、「上位の三つで決戦挙手を」といいたかったが、一人で意気込んでも仕方がないから止めた。これを決定した後、「いままでスポーツと自由ばかりでしたから、きょうは先生にお話をお願いします」とホームルーム委員のHT 君が一人で決めて、初めて HH らしい HH を持った。NW 君が先生がおられた頃の中国の話を要求したので、MY 先生はその話をされた。話は、中国の国際都市における英人や仏人の態度のことから、日本人がいかに敏活でなく、合理的な生活をしていないかにおよび、先生の好んで用いられる「わしに言わしゃ」という言葉で終った。
宏子が「21問題、分かりました?」とわれわれのそばへ来ていった。――と書けば、君は「夏空に輝く星」の登場人物がなぜこんなところに出て来るのかと不思議がるに違いない。ちょっと身近にいない名前だからと思って使った名前を実際に持っている人物が、意外に近くにいるとは、あれを書いているときには気づかなかった。オウムを肩に乗せた『宝島』の登場人物シルバーが持っている器具をつねに持って歩かなければならない KT さんがこういう名前だ(漢字は異なるかも知れないが)。[1]
KT さん以外で物理を取っているただ一人の女生徒は、篭球クラブへ入っていて、おうような性格の、関西弁で話す人物(KZ 君が以前、大津から来たからだと教えてくれた)で、妙に低い声での英語の朗読は巧みだが、物理のプリントの難問題にしがみついて解こうとするようなところは見られない。だから、KT さんが、われわれがその問題を前にして話し合っているところへ来て尋ねるのも不思議ではない(以前にも同様のことを書いたようだ)。
KT さんは奇麗な言葉遣いをしているらしいが、声が小さくて、Jack に聞かせて貰った携帯用ラジオを聞くように、少し耳を傾けなければならない [2]。Jack は彼女の問いに応じて21問題を解きかけた。彼は独り合点して式を書き続けていたので、ぼくが、どうしてそうなるのかと尋ね、「そんなのでは駄目だろう」と始めからやって見せたが、結局たどり着いたところは、Jack が導いたのと同じ形の式だった。どうしてもプリントの問題の後にあるような答にならない。
(Sam)
学校へ行く前に一本の柱を四分する仕事をした。直径は五寸ぐらいだろう。ノコギリを三百五十回往復させて、やっと二つの新しい面を作ることが出来た。
体操は残りの班とゲームをやった。ボールはゴムのもので、打つと変形してとても処理しにくくなって困った。先の二試合には勝っているので、こんども勝たなければ、と勝つことばかりに気をとられて硬くなり、凡打や凡失であたらチャンスを逸して六A対四で惜敗した。
創立記念行事の立案は遅々として進まず、はなはだ心細いものがある。
引用時の注
漢字は異なっていた。KT さんの父君は金沢大学の化学の教授だった。盲学校の教員をしていた私の母が、点字を打った紙を生徒が何度も手で読むと字がつぶれてくるのを防止するため、紙を硬化させる薬品を KT 教授に教えて貰いに行ったことがある。卒業数十年後に、高校の新聞部同窓会で KT さんに再会した。彼女はその後、脚の手術をして松葉杖は不要となり、福祉関係の勉強をして、その方面の仕事をしていたようだ。
当時、携帯用ラジオはまだ珍しく、あまり大きな音も出なかったようである。Jack に聞かせて貰ったのは、彼の兄のものだった。
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