高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年11月3日(月)快晴
"A Place in the Sun" の解釈は間違っていた。北国新聞夕刊の映画評に上流の社会を指すと書いてある。*
これだけの歓声の中で、あれだけのプレーをするのは、さぞ愉快なことだろうと思いながら、菫台対桜丘の北信越高校野球大会決勝戦を見た。内野スタンドがすでに満員だったので、三塁ベンチの左端がちょうど一塁ベースの真向こうに見える位置の土手に腰を下ろした。7、8回に1点ずつ奪われて、試合は逆転し、そのまま2対1で敗れてしまった。[1]
*[Tedの欄外注記]ぼくは社会問題に対する考察に慣れていなくて、何でも心理的な問題にしてしまいがちなので、こういう間違いをしたのだろう。
引用時の注
上のイメージは、この日の日記の終りに「録音を聞いて記す」として書き込んであった、北信越高校野球決勝戦8回裏1死から試合終了までの攻防の、スコアブック式記録である。さる6月の小学校同級会で、このとき菫台チームの三塁手だった KW 君が、この試合で3失策をしたことを大いに残念がっていた。なるほど、この記録を見れば、8回裏1死から桜丘の3番打者能口が三塁ゴロエラーで出塁、投手の暴投で二進、6番打者林の左翼左への安打で生還し、これが決勝点となっている。[後日の注:KW 君が話していたのは、翌年夏の甲子園大会北陸予選で優勝した泉丘高校との対戦だったかもしれない。]
優勝した桜丘高校は翌年春の選抜大会出場校に選ばれた。わが菫台高校は惜敗といっても、9回表に3~5番打者が相手の大根投手に完全に牛耳られている様子を見れば、負けても仕方がないともいえよう。わが校の4番打者・一塁手の上井(うわい)は私と同期である。彼は小学校時代には大根と好投手ぶりを競い合い、対戦成績は2勝2敗だったのだから、このときその大根を擁するチームと最後まで甲子園行きの切符を争って敗れたのは、さぞ悔しかったことだろう。(「非運のU君」参照)。
なお、この1952年度の北信越高校野球(新潟、富山、石川、福井、長野の5県の代表による)では、準決勝に残った4校がすべて、この大会の地元石川県の代表である金沢市内の普通高校という稀な現象が生じた。大根や上井は、ともに生粋の金沢っ子ではなく、戦時中に神戸方面から疎開して来て、金沢に住み着いた児童だったと聞く。他にもそのような「野球先進地」から来た選手たちがいたことだろう。それに加え、戦災を免れた金沢で、戦後いち早く小学校の野球大会が復活したという事情もあって、いわば、戦争の事後効果として、この珍現象が起こったといえるかも知れない。
桜丘の大根・能口のバッテリーは、小学校以来の名コンビで、翌春甲子園出場を果たしたものの、1回戦でいきなり大阪の当時の強豪、浪商(後の巨人の外野手・坂崎がいた)と対戦し、4対1か4対0で敗退したのだったと思う。——この日の私の日記は意外に短いが、振り返れば、いろいろな関連事項が思い出される。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
四方館 08/27/2005 21:50
浪商-巨人の坂崎とは懐かしい名前ですネ。巨人の五番打者でしたか。
Ted 08/28/2005 07:20
坂崎選手を覚えておられましたか。私の記憶している巨人のバッティングオーダーは、千葉、白石、青田、川上、…という古いもので、坂崎が五番打者だったかどうかは、覚えていません。しかし、巨人ファンでもない私が名前を覚えているところを見れば、クリーンナップトリオに入っていたのでしょう。
四方館 08/29/2005 20:50
王、長島がクリーンアップに定着した頃の初期は坂崎が五番だったように記憶しますが…。
Ted 08/29/2005 21:54
ああ、そうでしたか。「坂崎 外野手 巨人」でグーグル検索をしたところ、ここにプロ在籍中の成績等が掲載されていました。検索結果の2ページ目トップに私のこのブログ記事[注:最初に投稿した Echoo! サイトのもの]が出ていて、びっくりしました。
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