歩道橋で
写真は八田西町の歩道橋の上から北向きに泉北2号線を撮ったもの(2005年8月29日)。わが家からここまでで、3000歩余りになる。左手の団地の前の並木は、この春に何度か紹介したサクラの木々を含む。
にぎにぎしい選挙運動
高校時代の交換日記から
(Sam)
(続)1952年11月3日
校内の各所にポスターが張られ、校内放送は幾回となく候補者の名を叫んでいた。幾枚かのガリバン刷りの名刺も貰った。にぎにぎしい選挙運動が行われ、土曜日の第四限はアセンブリーとなって、各候補の立会演説会が行われた。拍手や笑声やヤジや怒声が盛大で、活発な演説会だった。立候補者と推薦者の言葉は真に迫るものがあった。――笑顔などみせたことのない校長の顔が笑っていた。――
柔道場のあとの図書館の一隅に新聞部室があった頃 [1] の紅一点だった女生徒 [2] の応援演説には、彼女の所属している15Hの代表ばかりでなく、新聞部の UE 君も、前期生徒会長のトンチ君も、彼女を支持する演説を行った。
うちのホームの代表のときは、その選出の際に彼を指名した YS 嬢や馬術部員やその他七人もが応援演説を行った。編成としては最多数のものだった。壇上に立った彼らの動作その他も、なかなかおつなのが沢山あった。
今度の選挙には、三年生は全然立候補者を出していない。だから、三年生のいわゆる浮動票如何では、誰が会長にならないとも限らないのである。が、やはり三年生は賢明だったらしい。聞くところによると、会長には GD 君、副会長には前期もそうであった NG 君が決まったらしい。GD 君は金石(かないわ)中の出身で、そこでは生徒会長として大いに活躍して来たのだそうである。一時野球部に属していたこともあったらしいが、体をこわして、今ではやめているそうである。彼ならば心配は要らない。しかし、ぼくが彼と同調していけるかどうか問題である。まだ一度も親しく会って話をしたことがないのだから――。
ここ二、三日、祖母がちよっと患っていて、ぼくは思わぬいろいろな仕事をしなければならない。
金ちゃんと二人で Neg のところへ行ったのだが、べつに新しいことはなかった。Neg が闘病生活のつれづれを如何にして暮らしていたかがよく分かった。それは、Neg からの手紙で知り得たことを、はるかに超えたものだった。[3]
引用時の注
- Samと私が中学3年生だった頃を指す。
- この女生徒は、私の日記に Tom の名で登場する友人が中学生時代からたいへん親しくしていたので、私は、彼らは将来結婚するものと思っていたが、そうはならなかった。その後 Tom に聞いたところでは、彼女は若くして死亡したとのことだった。佳人薄命。
- Neg はこの頃病気のため高校を中退したのだった。私は彼とホームルームが同じだったにもかかわらず、あまり親しくはしていなかったので、そのことに気づかず、見舞いにも行かなかった。ところが、近年、新盆に合わせて金沢へ墓参に行くと、野田山墓地の入口の墓守さんの家へ手伝いに来ている彼に会い、親しく語り合うのである。彼の奥さんが墓守さんの奥さんの妹だそうだ。
[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]
四方館 09/01/2005 01:15
校内選挙で手作りの名刺までが飛び出しましたか。わが校の場合、中学も高校も、そういった賑やかさや派手さとはとんと無縁でした。
Ted 09/01/2005 07:44
先に記載したこの日の前編のSamの記述によれば、「立候補届出期間が三回も延期され、…しびれを切らした選挙管理委員会が、各ホームから一名ずつ強制的に候補者を選出」させるという事態だったとのことですが、それにしては、候補者が出た後は、ずいぶん盛り上がったものです。
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