以下に引用する日記中の「高師附属」というのは、旧制金沢高等師範学校の附属高校で、附属中学校もあった。旧制金沢女子師範学校の附属中学校も別にあり、のちに両者は金沢大学附属として統合されたが、女子師範附属中学校の方が当時すでに金沢大学附属中学校(金大附中)を名乗っていたようである。地区の菫台高校へ行っていた私は、東大への合格者を多く出していた高師附属での勉強ぶりを知りたいと思い、小学校の同級生で、金大附中を経て高師附属へ進んでいた HY 君の家へ、この日、いわば偵察に行ったのである。『蛍雪時代』は、いまも続いている、旺文社発行の大学受験生向け月刊誌。HY 君がすでに購読していることを知り、私も早速購読を始めたと思う。
「象の花子さんの旧名があだ名であった」女生徒とあるのは、HY 君と同じく小学校の同級生で高師附属へ行っていた H・I さんのことである(当時、高師附属には女生徒が 1 学年 10 名前後しかいなかったとか)。彼女の父親が金沢市文化賞を受賞したことを記しているが、朝日賞、学士院賞受賞者でもある。なお、2004 年 12 月 10 日付け記事「A 先生の計らい」に登場する H 子が H・I さんである。
末尾の数行中にある「編集室」は、新聞クラブの部室。家庭科の実習用の小部屋を利用させて貰っていた。新聞クラブは、部室を持つ数少ないクラブの一つだったかと思う。イデオロギーについての友人たちの議論のことを書いてあるが、私はこのような議論は苦手で、まったく聞いているばかりだった。いまでも、その傾向に変わりはない。文に書くのなら別だが。
なお、[ ]内は引用時の注。
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952 年 1 月 19 日(土)曇り
おう。(いま読んでいる本の中のキャシィやネリィがよく発する感動詞が思わず飛び出る。)何を得たか? すばらしい刺激を得た。さすがに高師附属へ行っているだけのことはある。少なくとも、HY 君が座右に据えていた参考書類は、ぼくを刺激するに十分だった。家を出たのは 2 時過ぎだった。一度はちゅうちょして通り過ぎた。帰宅しているかどうか、はなはだ疑問だったが、帰っていて、「おー、何や」といって出て来た時のことも心配だった。戻って、再び彼の家の前に立った。雨が降り続いている。
「HY 君!」と玄関前で声をかける。あまり力を入れないで、ちょうどよい声が出せた。次の瞬間のことを考える暇もなく、中から人が出て来た。小学生時代よりいくらか落ち着きを持ち始めたような彼だった。いま何をしていたかと聞き、遊びに来た、といったら「入らんか」といわれた。靴、手袋、帽子を脱いで、衝立をよけてズカズカと前進しようとすると、すぐそこに彼の机があったので驚いた。他方の隅に老人が座っていた。立ったままでは悪いと知りながら、そのままの姿勢で礼をするほかなかった。
椅子にかけて向かい合うと、彼は「菫台、面白いけ?」と尋ねた。「面白い」とそっけなく答えた。彼は、クラブ活動では馬術ともう一つ何かをやっているといった。小学校の時の野球のフォームがぼくよりずっとさまになっていなかった彼が、体操の時間が面白いというから、何をするかと聞けば、雪合戦と答えた。KZ 君が髪を伸ばしつつあることを彼に伝えた。彼は、われわれの学校の 2 学期始めのスタンダード・テストの結果をなぜか知っていて、Vicky は金大附中でもよく出来たとか、「SN は、かじっとるやろ」[よく勉強しているだろう、の意]などといった[Vicky も SN 君も金大附中から菫台高校へ来たのである]。
英語の教科書はわれわれのよりずっと面白そうだった。赤インクでたくさん書き込んであった。トム・ソーヤーの「土曜日の朝になった。至る処に夏が来て輝かしく生々と、活気に充ち溢れていた。すべての人の胸の中に歌が湧き、その胸が若い胸である時には、その歌は唇を衝いて迸り出た。…」(岩波文庫版による)というところがあったのを、読んですらすらと分かったので、「翻訳で読んだのといっしょやな」と、つまらないことをいってみた。しかし、その他のページには多くの未知の単語がぎっしりつまっていた。彼の机の上には、独日辞典と英英辞典、左横の本棚には、『英文法綜合的研究』、『蛍雪時代』等が積まれていた。彼は英英辞典を手に取り「Paraphrase を見るがに便利やわな」と、paraphrase の語をきれいに発音しながらいって、見せてくれた。
What is "revolution?" It is "to love ruin". こういう英単語解体再生の冗談が彼の『英語ハンドブック』にあったのを覚えて来た。A bad cat died entirely. という文を作ったり、また、たとえば "English" と一つ出された単語の中の文字を拾って、he、she、shine、…と出来るだけ多くの単語を作る遊びも書いてあった。
「学生日記」という厚いノートが本を並べた上にのせてあったので、指さして、日記をつけているのかと聞いたら、彼は「見んといてくれ」といって机の中へ入れてしまった。小学校 6 年の冬休み、クラス内のクリスマス演芸会を前にした日曜の午後、学校の横の大学病院前の通りで二人っきりで雪合戦をしたことのある女生徒(上野動物園の象の花子さんの旧名があだ名であった。彼女の父親は昨年、がんの研究で金沢市文化賞を受けている)のことを聞こうと思ったが、気が引けてやめた。
HY 君の弟らしい人(たくさんの家族がいる家なのではっきりしない)の勉強を見ていた彼の母親に、ぼくはあまりよい印象を与えなかったかも知れない。印象は、どこへ行ったあとでも気になる。
学校で放課後、SN 君、TKS 君、MRK 君らが編集室において、社会主義と資本主義について、かなりうがった議論をはなばなしく戦わせていたことも、記しておくに足るだろう。議論が白熱しても、SN 君が顔色一つ変えないで平然として言い放つことばの鋭さと巧みさに、彼の相手たちは、少なからず辟易していた。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Nadja 01/19/2005 15:15
↑…あ? 訂正したはずなのに消えていない箇所が…うわ。すいません、この際、発言ごと消しておいてくださいませm(_)m
Ted 01/19/2005 19:50
Your were right in your first comment. Sure, I was reading "Wuthering Heights" at that time. Don't mind about a minor error. But I follow your request to delete your first comment. The second one is retained to appreciate your good guess.
M☆ 01/19/2005 19:19
周囲に議論を交わすような環境がなかった学生時代(T▽T)。ちょっと羨ましい・・・(笑)
Ted 01/19/2005 19:54
Let's enjoy discussion at this blog site!
「象の花子さんの旧名があだ名であった」女生徒とあるのは、HY 君と同じく小学校の同級生で高師附属へ行っていた H・I さんのことである(当時、高師附属には女生徒が 1 学年 10 名前後しかいなかったとか)。彼女の父親が金沢市文化賞を受賞したことを記しているが、朝日賞、学士院賞受賞者でもある。なお、2004 年 12 月 10 日付け記事「A 先生の計らい」に登場する H 子が H・I さんである。
末尾の数行中にある「編集室」は、新聞クラブの部室。家庭科の実習用の小部屋を利用させて貰っていた。新聞クラブは、部室を持つ数少ないクラブの一つだったかと思う。イデオロギーについての友人たちの議論のことを書いてあるが、私はこのような議論は苦手で、まったく聞いているばかりだった。いまでも、その傾向に変わりはない。文に書くのなら別だが。
なお、[ ]内は引用時の注。
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952 年 1 月 19 日(土)曇り
おう。(いま読んでいる本の中のキャシィやネリィがよく発する感動詞が思わず飛び出る。)何を得たか? すばらしい刺激を得た。さすがに高師附属へ行っているだけのことはある。少なくとも、HY 君が座右に据えていた参考書類は、ぼくを刺激するに十分だった。家を出たのは 2 時過ぎだった。一度はちゅうちょして通り過ぎた。帰宅しているかどうか、はなはだ疑問だったが、帰っていて、「おー、何や」といって出て来た時のことも心配だった。戻って、再び彼の家の前に立った。雨が降り続いている。
「HY 君!」と玄関前で声をかける。あまり力を入れないで、ちょうどよい声が出せた。次の瞬間のことを考える暇もなく、中から人が出て来た。小学生時代よりいくらか落ち着きを持ち始めたような彼だった。いま何をしていたかと聞き、遊びに来た、といったら「入らんか」といわれた。靴、手袋、帽子を脱いで、衝立をよけてズカズカと前進しようとすると、すぐそこに彼の机があったので驚いた。他方の隅に老人が座っていた。立ったままでは悪いと知りながら、そのままの姿勢で礼をするほかなかった。
椅子にかけて向かい合うと、彼は「菫台、面白いけ?」と尋ねた。「面白い」とそっけなく答えた。彼は、クラブ活動では馬術ともう一つ何かをやっているといった。小学校の時の野球のフォームがぼくよりずっとさまになっていなかった彼が、体操の時間が面白いというから、何をするかと聞けば、雪合戦と答えた。KZ 君が髪を伸ばしつつあることを彼に伝えた。彼は、われわれの学校の 2 学期始めのスタンダード・テストの結果をなぜか知っていて、Vicky は金大附中でもよく出来たとか、「SN は、かじっとるやろ」[よく勉強しているだろう、の意]などといった[Vicky も SN 君も金大附中から菫台高校へ来たのである]。
英語の教科書はわれわれのよりずっと面白そうだった。赤インクでたくさん書き込んであった。トム・ソーヤーの「土曜日の朝になった。至る処に夏が来て輝かしく生々と、活気に充ち溢れていた。すべての人の胸の中に歌が湧き、その胸が若い胸である時には、その歌は唇を衝いて迸り出た。…」(岩波文庫版による)というところがあったのを、読んですらすらと分かったので、「翻訳で読んだのといっしょやな」と、つまらないことをいってみた。しかし、その他のページには多くの未知の単語がぎっしりつまっていた。彼の机の上には、独日辞典と英英辞典、左横の本棚には、『英文法綜合的研究』、『蛍雪時代』等が積まれていた。彼は英英辞典を手に取り「Paraphrase を見るがに便利やわな」と、paraphrase の語をきれいに発音しながらいって、見せてくれた。
What is "revolution?" It is "to love ruin". こういう英単語解体再生の冗談が彼の『英語ハンドブック』にあったのを覚えて来た。A bad cat died entirely. という文を作ったり、また、たとえば "English" と一つ出された単語の中の文字を拾って、he、she、shine、…と出来るだけ多くの単語を作る遊びも書いてあった。
「学生日記」という厚いノートが本を並べた上にのせてあったので、指さして、日記をつけているのかと聞いたら、彼は「見んといてくれ」といって机の中へ入れてしまった。小学校 6 年の冬休み、クラス内のクリスマス演芸会を前にした日曜の午後、学校の横の大学病院前の通りで二人っきりで雪合戦をしたことのある女生徒(上野動物園の象の花子さんの旧名があだ名であった。彼女の父親は昨年、がんの研究で金沢市文化賞を受けている)のことを聞こうと思ったが、気が引けてやめた。
HY 君の弟らしい人(たくさんの家族がいる家なのではっきりしない)の勉強を見ていた彼の母親に、ぼくはあまりよい印象を与えなかったかも知れない。印象は、どこへ行ったあとでも気になる。
学校で放課後、SN 君、TKS 君、MRK 君らが編集室において、社会主義と資本主義について、かなりうがった議論をはなばなしく戦わせていたことも、記しておくに足るだろう。議論が白熱しても、SN 君が顔色一つ変えないで平然として言い放つことばの鋭さと巧みさに、彼の相手たちは、少なからず辟易していた。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Nadja 01/19/2005 15:15
↑…あ? 訂正したはずなのに消えていない箇所が…うわ。すいません、この際、発言ごと消しておいてくださいませm(_)m
Ted 01/19/2005 19:50
Your were right in your first comment. Sure, I was reading "Wuthering Heights" at that time. Don't mind about a minor error. But I follow your request to delete your first comment. The second one is retained to appreciate your good guess.
M☆ 01/19/2005 19:19
周囲に議論を交わすような環境がなかった学生時代(T▽T)。ちょっと羨ましい・・・(笑)
Ted 01/19/2005 19:54
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