高校時代の交換日記から。
(Ted)
1952 年 1 月 26 日(土)曇り時どき雪
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………(これらの点々も感情をこめて — con mote — 書いているのだから、読んでくれなくてはいけない)………………………………。自分の心に沿った、完全に近い行動を一日でも取ることは、何と難しいことか。明日の新聞の春場所星取り表で見る羽黒山[引用時の注 1]の 15 の星のような毎日を送るように努めるのだ!
「二十の扉」の解答者に、マケドニヤ王フィリップの子で、ギリシャ、ペルシャ、エジプトを征服し、インドに入ってバビロンに凱旋した大王が出て来たのかと思ったら、有木山太という人だった。源氏啓太がゲーテをもじっている類いだ。おやおや、Sam のお母さんのような「動物の状態」に、危ないところで正解が出た[引用時の注 2]。
(Sam)
1952年1月26日(土)雪
一つの部屋に五人五様の人間がいる。そのうちの四人は、おのおの火鉢の一辺を占領して、思い思いの身体の部分を暖めながら仕事をしている。一人は『ポケット英和辞典』を出して、一生懸命に覚えようとしている。もう一人は世界史の本を見ている。他の一人は雑談の発電所をやっている。以上は三年生だ。ぼくは生物のノートを出して、忙しくページをめくっている。五人目は、他の誰からも無視された状態で、部屋の隅の椅子に腰かけて外を見ている。彼はとても勉強家だということだ。火鉢のまわりにいる人種にいわせると、泣いているのだそうだが、その理由はないらしい。皆がばらばらで、別のことを考えているが、とにかく無事に部屋の中にいる。——ブランクの時間のことだ。
「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau のことばには、たしかに一面の真理がある。
さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
[引用時の注]
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 01/26/2005 20:23
本当に Ted さんの文章、思考は、将来の物理学者さんを予想させるような、すっきりとした意思が感じられて好いですね。
Sam さんはよい本を読んでおられますね。私は、友人は限定版でしか付き合いをしていなくて、その場限りのおしゃべりには、私も高校時代に飽きてしまったので、ネットでもいろいろ模索した末、たどり着いたエコー!も実は基本的にそのような方針なのですよ。
遠く離れていることの意味…、大切な人と、遠く離れて容易に連絡も取りづらくなると、よくわかることがありますね。ただ、多分、四方館さんだったら、めいめいの心の奥に秘められている大切なものは、むしろ「身体論」の領域に持っていかれるのではないかな、と思います。もちろん「身体」というものの境界を、皮膚境界などに置いていてはいけないのですが。身体さえ、あれば(向き合えれば)よい、方便のための談話は要らない、といったことが、離れている個人どうしにも、それこそ心の奥の大切なものを尊重する仕方として、…つまり、その人の存在そのものを「身体」と表現するということですね…適用されるといいんですが。いささか哲学の話になりすぎてしまいました…。
Ted 01/26/2005 21:57
ソローの言葉を字義通りに捉えようとすると難しい面がありますが、本当に理解し合える間柄では冗舌は不要とか、思いは真心のない言葉だけでは伝わらないという例を考えれば、納得できそうに思われます。なお、Sam は意外に読書をすることが少なく、Thoreau のことばを知ったのは、独自の読書からでなく、教科書からだと思います。彼と私は高校が別で、多くの科目の教科書も異なっていました。
(Ted)
1952 年 1 月 26 日(土)曇り時どき雪
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………(これらの点々も感情をこめて — con mote — 書いているのだから、読んでくれなくてはいけない)………………………………。自分の心に沿った、完全に近い行動を一日でも取ることは、何と難しいことか。明日の新聞の春場所星取り表で見る羽黒山[引用時の注 1]の 15 の星のような毎日を送るように努めるのだ!
「二十の扉」の解答者に、マケドニヤ王フィリップの子で、ギリシャ、ペルシャ、エジプトを征服し、インドに入ってバビロンに凱旋した大王が出て来たのかと思ったら、有木山太という人だった。源氏啓太がゲーテをもじっている類いだ。おやおや、Sam のお母さんのような「動物の状態」に、危ないところで正解が出た[引用時の注 2]。
(Sam)
1952年1月26日(土)雪
一つの部屋に五人五様の人間がいる。そのうちの四人は、おのおの火鉢の一辺を占領して、思い思いの身体の部分を暖めながら仕事をしている。一人は『ポケット英和辞典』を出して、一生懸命に覚えようとしている。もう一人は世界史の本を見ている。他の一人は雑談の発電所をやっている。以上は三年生だ。ぼくは生物のノートを出して、忙しくページをめくっている。五人目は、他の誰からも無視された状態で、部屋の隅の椅子に腰かけて外を見ている。彼はとても勉強家だということだ。火鉢のまわりにいる人種にいわせると、泣いているのだそうだが、その理由はないらしい。皆がばらばらで、別のことを考えているが、とにかく無事に部屋の中にいる。——ブランクの時間のことだ。
「礼儀作法の規則を定めなければならなかったのは、普通あまりにも安っぽすぎる世間の社交のひんぱんな会合を我慢ができるようにし、おおっぴらにけんかをしないようにするためだ」「他人とつきあっていては、最善の人と交わるにしても、やがて飽きがくるものだ」といった Henry David Thoreau のことばには、たしかに一面の真理がある。
さらに、「まして私たちは、めいめいの心の奥に、ことばなどでは表現できない深いものを秘めているのだ。そういうものと親しく触れあいたいと思うなら、私たちは沈黙するだけでなく、とても声が聞こえないくらいに、からだとからだとが遠く離れていなければならないのだ。これを標準とすれば、談話というものは、要するに耳の遠い人たちのための方便なのである」とあるのを読むにいたっては、ほとほと恥ずかしくなった。Ted にもっとしゃべるようにといったことが、いかにもぼくの無思慮を暴露したみたいだ。
だが、なかなか難しいよ。ぼくはまだまだ方便に頼らなければならない。
[引用時の注]
- 羽黒山(1914–1969)は、新潟県出身、立浪部屋の力士で、このとき東張出横綱として全勝し、3 度目の優勝を果たした。1942 年から 1953 年まで、12 年間横綱に在位した。私が七尾市に住んでいた小学生時代、巡業で直接目にして覚えていた力士だったので、当時、私は彼のファンだった。
- 「盲腸炎」が問題だったのである。
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
Y 01/26/2005 20:23
本当に Ted さんの文章、思考は、将来の物理学者さんを予想させるような、すっきりとした意思が感じられて好いですね。
Sam さんはよい本を読んでおられますね。私は、友人は限定版でしか付き合いをしていなくて、その場限りのおしゃべりには、私も高校時代に飽きてしまったので、ネットでもいろいろ模索した末、たどり着いたエコー!も実は基本的にそのような方針なのですよ。
遠く離れていることの意味…、大切な人と、遠く離れて容易に連絡も取りづらくなると、よくわかることがありますね。ただ、多分、四方館さんだったら、めいめいの心の奥に秘められている大切なものは、むしろ「身体論」の領域に持っていかれるのではないかな、と思います。もちろん「身体」というものの境界を、皮膚境界などに置いていてはいけないのですが。身体さえ、あれば(向き合えれば)よい、方便のための談話は要らない、といったことが、離れている個人どうしにも、それこそ心の奥の大切なものを尊重する仕方として、…つまり、その人の存在そのものを「身体」と表現するということですね…適用されるといいんですが。いささか哲学の話になりすぎてしまいました…。
Ted 01/26/2005 21:57
ソローの言葉を字義通りに捉えようとすると難しい面がありますが、本当に理解し合える間柄では冗舌は不要とか、思いは真心のない言葉だけでは伝わらないという例を考えれば、納得できそうに思われます。なお、Sam は意外に読書をすることが少なく、Thoreau のことばを知ったのは、独自の読書からでなく、教科書からだと思います。彼と私は高校が別で、多くの科目の教科書も異なっていました。
0 件のコメント:
コメントを投稿