新年おめでとうございます。
"Ted's Coffeehouse"へご来訪の皆様のご多幸をお祈り申し上げますとともに、本年もよろしくごひいき下さいますよう、お願いいたします。
(写真は大みそかの午前、堺市で少しばかり積もった初雪)
高校時代の交換日記から
1952 年 1 月 1 日(火)雨
(Ted)
変わったことといっては何一つないのに、無理に変えようとするのだから、空虚な一日となってしまった。
昨夕、KJ 君の家へ KB 君と行って、生物の宿題を貸してあったのを返して貰い、帰宅して障子を開けると、「早いお帰りだね!」と母にどなられた。ぞうきんで身体をふきまわしているうちに、頭が痛くなり、それがけさまで続いた。ラジオで初めて聞いた除夜の鐘は、重く垂れ下がっては来るが閉じてしまわないまぶたを、妙な哀愁で執拗に揺すったに過ぎなかった。
北国新聞の第 10 ページに載っている創作は、「もしこの短編に何か教訓じみたものを探す読者があったら、それは年始状といふ新年にドッサリ来る郵便物の中には…(略)…。ある人の句に、賀状来ぬ昔の恋はさりげなく(注 1)」と結んである。この創作が題名としているものについて、少し書いておこう。[…(注 2)]
夜、「赤と黒(下)」の文字を拾い、頭に 19 世紀フランスの像を描くとともに、高邁な思想に触れる悦びを味わう。第 32 章の始めに引かれている「あゝ! 何故これでなければならないのだ。何故ほかのものではいけないのだ。 ボーマルシェ」という 2 行へ来たときは、それが踏み心地よい白雪ででもあるかのように、もう一度踏みしめてみた。
引用時の注
後日の追記:M.Y.君からメールで下記の感想が寄せられた。
【高校時代の日記、美しき青春です。「赤と黒」中のボーマルシェの啓蒙的な言葉に関する記述、高校時代に感銘を受けられたとは感心しました。実はボーマルシェについては、私は昨年 12 月オペラ「フィガロの結婚」をみるために、文庫版の同書を読んで、たいへん面白く思い、また、感銘を受けました。訳者の辰野隆の解説に「ボーマルシェはけた外れの変わり者でフランス革命前のごとき乱脈な世相からでなければ決して生まれぬ鬼才中の鬼才であった」とあり、スタンダールが『赤と黒』で引用するのもぴったりだと思った次第です。】
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
RIN 01/01/2005 14:37
明けましておめでとうございます。
昔の日記を現代版日記ツール「ブログ」に掲載されるという試み、とても画期的な試みだと感じました。米国で流行していたブログ (Weblog) という新しいツールが、昨年頃から日本でも急速に流行し始めて、私の周囲でも日記を始めた友人が何人もいます。「手段」は変わっても昔から「人」はそれ程、変わっていないような気がしました。
Ted 01/01/2005 17:15
私は、エコーとほとんど同時に、アメリカのブログの老舗、Blogger.com にもアカウントを取りました。そこでは、投稿の日付を 1999 年以降の任意の日に設定できます。Blogger.com の創業が多分 1999 年なのでしょう。もっと昔にさかのぼって日付を設定できるブログサイトがあれば、昔の日記のディジタル化にさらに便利なのですが。
*maho
01/01/2005 15:55
A HAPPY NEW YEAR!
How is your New year holiday? Hope you having good time. I ate mooch with daikon oroshi, yumyum.
I thought 来ぬ=kinu. You are bright with Japanese too, cool!
Ted 01/01/2005 17:34
Today I had my first visit of the year to a shrine. It was not to 大鳥大社 shrine, but to a smaller and nearer one, Kusabe-jinja.
You're right to think 来ぬ=kinu in this short poem (senryu or haiku). I had been wrongly thinking 来ぬ=konu for many years. So I'm not wise enough about Japanese, to say nothing of English.
poroko 01/01/2005 21:25
「夏はきぬ」の来ぬですね。さりげなくでも匂わすような字句があれば細君は間違いなく気付いているでしょう。その奥様の態度もなにか「さりげなく」なのでしょうかね。
何日分にでも書けるブログは複数存在するようですが、一旦投稿してから日付を変更する必要があったり、投稿時設定手順が増えたり少々面倒なようです。
Ted 01/02/2005 09:07
そう、「さりげなく」なのでしょうね。などといって、わが家でもそうなのでしょうか。
Echoo! で簡単に過去や未来の日付けを選べる機能を付加して貰えるとありがたいですね。未来というのは、Blogger.com で年末に新年の挨拶を 1 月 1 日づけのブログとして掲載して、親元へ帰った人がいたのを見ましたので、そのような目的に好都合か、ということです。
Nadja 01/01/2005 22:28
I wish this new year will be the happiest and best for you!
昔の恋人から来る便りの子供の写真に、そっくりや~~ぎゃははは、と笑っているのは私です(笑)
Ted 01/02/2005 08:54
I wish the same to you!
私のところへも、昔つきあっていた人や憧れていた人からの賀状はありますが(それで、「賀状こぬ」と詠んだと勘違いした句の作者に対して、誤りの優越感を持っていたのです!)、子供の写真がついていたことは、残念ながらありません(どちらも男の子しかいなかったなぁ)。
四方館 01/02/2005 01:20
おもしろいもので、この記事のように、往年の日記など昔の文章に触れるほうが、現在の書かれたものを読むより、ずっとぬくもりを感じてしまうのはなぜでしょうね。これは Ted さんの記事にかかわらず、どなたの場合でもそうだと思うのですよ、きっと。その人の現在の姿—イメージ—がそれなりにあって、もちろんそれ自体、日頃の文章から此方が勝手に描いているに過ぎないものですが‥‥。時を隔てた、この場合 50 年以上も遡った過去の、その人の断片的なイメージがほのかに思い浮かんで、過去と現在が自然にオーバーラップしてくる。大袈裟にいえば、過去と現在が結ばれて、その人の来し方にまで想像がひろがってゆく…。その人の生そのものに触れてゆくような、あくまで想像のなかでのことですが、その生への感触がぬくもりの正体だと思いますが…。
Ted 01/02/2005 08:42
「ぬくもりを感じて」いただき、恐縮です。高校生時代の日記は、未熟なところはあるものの、現在の私が書くものと、すでにかなり似ているようです。言い換えれば、その頃以来の私の進歩がそれほど大きくなかったということで、恥ずかしい次第です。
Y 01/02/2005 11:13
四方館さん、その通りですね。Ted さんは昔の文章をそのまま残しておられて HP やブログに掲載されたり、また同窓生などのお話をブログでよくされるのですが、私は心地よいのです。私には子ども時代もなかった(空白)も同然なのですが、うらやましいと思わず、Ted さんの誠実さ(誠実な感性)がこのようにして長く人との関係でにじみでてきた人生を歩んでいらっしゃったのだなあと感じられるからです。
私は空白、断絶、断絶、喪失…の人生ですので、Ted さんのぬくもりと対照的なのですよね。こんな人間なものですから、今更「築いていきたい」という言葉は使いません。「作っていきたい」という程度ですね。
四方館 01/02/2005 13:27
Y さん、空白といえどもおそらくまったくなにもないということではない。断絶や喪失といっても、必ずそこにはなんらかの関係性があり、見えない糸もそこはかとなく感じられるものですよ。あなたの生も、私はきっと同じように築かれてきたものとして感じられる、と思っています。
Ted 01/02/2005 13:47
四方館さんのコメントに私も同感です。Y さんの子ども時代には辛いことが多かったのでしょうが、そこには今の Y さんのよさを育んだ何かがあったはずと思います。
Y 01/02/2005 13:48
四方館さん、ありがとうございます。温かいお言葉…。そうですね、断絶や喪失にも、また「続く関係性」があり、見えない糸もありますね。この人生をもちろん肯定していますし、30歳まで生きてやっとわかったことが余りに多い、ということは、やはり何かを築いてきたのでしょうか。四方館さんからみられて、そのように思われるのでしたら、そうなのでしょう、と思うことができます。
"Ted's Coffeehouse"へご来訪の皆様のご多幸をお祈り申し上げますとともに、本年もよろしくごひいき下さいますよう、お願いいたします。
(写真は大みそかの午前、堺市で少しばかり積もった初雪)
高校時代の交換日記から
1952 年 1 月 1 日(火)雨
(Ted)
変わったことといっては何一つないのに、無理に変えようとするのだから、空虚な一日となってしまった。
昨夕、KJ 君の家へ KB 君と行って、生物の宿題を貸してあったのを返して貰い、帰宅して障子を開けると、「早いお帰りだね!」と母にどなられた。ぞうきんで身体をふきまわしているうちに、頭が痛くなり、それがけさまで続いた。ラジオで初めて聞いた除夜の鐘は、重く垂れ下がっては来るが閉じてしまわないまぶたを、妙な哀愁で執拗に揺すったに過ぎなかった。
北国新聞の第 10 ページに載っている創作は、「もしこの短編に何か教訓じみたものを探す読者があったら、それは年始状といふ新年にドッサリ来る郵便物の中には…(略)…。ある人の句に、賀状来ぬ昔の恋はさりげなく(注 1)」と結んである。この創作が題名としているものについて、少し書いておこう。[…(注 2)]
夜、「赤と黒(下)」の文字を拾い、頭に 19 世紀フランスの像を描くとともに、高邁な思想に触れる悦びを味わう。第 32 章の始めに引かれている「あゝ! 何故これでなければならないのだ。何故ほかのものではいけないのだ。 ボーマルシェ」という 2 行へ来たときは、それが踏み心地よい白雪ででもあるかのように、もう一度踏みしめてみた。
引用時の注
- この句の中の「来ぬ」は「来ない」の意味ではなく、「来た」の意味であり、「こぬ」ではなく、「きぬ」と読むのである。このとき以来、この句は私の頭にこびりついていたが、「賀状の来ない昔の恋は」と解釈したので、「さりげなく」に、「はかないものだったのだなあ」という間違った意味をこじつけていた。それが、定年退職も近くなった頃、ふとしたきっかけで、「昔の恋人から賀状が来たが、(配偶者へ気づかってであろう)さりげない内容になっている。(それでも、嬉しいものだ)」と、おそらく正しい解釈ができたのであった。これについては、私の英文創作[文献 1]の中でも述べている。そこには、この句を読んだのは大学生時代だったと書いたが、高校 1 年のときだったのだ。まだ「昔の恋人」というような人のいなかった年で、この句が頭にこびりついたのは不思議だ。
- ここに友人たちからの年賀状(創作の題名は「年賀状」だったらしい)についての感想が記されているが、省略する。
- "Vicky: A Novella" (1997). [参考]M. Y. "英文小説「Vicky」の解説" (2003).
後日の追記:M.Y.君からメールで下記の感想が寄せられた。
【高校時代の日記、美しき青春です。「赤と黒」中のボーマルシェの啓蒙的な言葉に関する記述、高校時代に感銘を受けられたとは感心しました。実はボーマルシェについては、私は昨年 12 月オペラ「フィガロの結婚」をみるために、文庫版の同書を読んで、たいへん面白く思い、また、感銘を受けました。訳者の辰野隆の解説に「ボーマルシェはけた外れの変わり者でフランス革命前のごとき乱脈な世相からでなければ決して生まれぬ鬼才中の鬼才であった」とあり、スタンダールが『赤と黒』で引用するのもぴったりだと思った次第です。】
コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)
RIN 01/01/2005 14:37
明けましておめでとうございます。
昔の日記を現代版日記ツール「ブログ」に掲載されるという試み、とても画期的な試みだと感じました。米国で流行していたブログ (Weblog) という新しいツールが、昨年頃から日本でも急速に流行し始めて、私の周囲でも日記を始めた友人が何人もいます。「手段」は変わっても昔から「人」はそれ程、変わっていないような気がしました。
Ted 01/01/2005 17:15
私は、エコーとほとんど同時に、アメリカのブログの老舗、Blogger.com にもアカウントを取りました。そこでは、投稿の日付を 1999 年以降の任意の日に設定できます。Blogger.com の創業が多分 1999 年なのでしょう。もっと昔にさかのぼって日付を設定できるブログサイトがあれば、昔の日記のディジタル化にさらに便利なのですが。
*maho
01/01/2005 15:55
A HAPPY NEW YEAR!
How is your New year holiday? Hope you having good time. I ate mooch with daikon oroshi, yumyum.
I thought 来ぬ=kinu. You are bright with Japanese too, cool!
Ted 01/01/2005 17:34
Today I had my first visit of the year to a shrine. It was not to 大鳥大社 shrine, but to a smaller and nearer one, Kusabe-jinja.
You're right to think 来ぬ=kinu in this short poem (senryu or haiku). I had been wrongly thinking 来ぬ=konu for many years. So I'm not wise enough about Japanese, to say nothing of English.
poroko 01/01/2005 21:25
「夏はきぬ」の来ぬですね。さりげなくでも匂わすような字句があれば細君は間違いなく気付いているでしょう。その奥様の態度もなにか「さりげなく」なのでしょうかね。
何日分にでも書けるブログは複数存在するようですが、一旦投稿してから日付を変更する必要があったり、投稿時設定手順が増えたり少々面倒なようです。
Ted 01/02/2005 09:07
そう、「さりげなく」なのでしょうね。などといって、わが家でもそうなのでしょうか。
Echoo! で簡単に過去や未来の日付けを選べる機能を付加して貰えるとありがたいですね。未来というのは、Blogger.com で年末に新年の挨拶を 1 月 1 日づけのブログとして掲載して、親元へ帰った人がいたのを見ましたので、そのような目的に好都合か、ということです。
Nadja 01/01/2005 22:28
I wish this new year will be the happiest and best for you!
昔の恋人から来る便りの子供の写真に、そっくりや~~ぎゃははは、と笑っているのは私です(笑)
Ted 01/02/2005 08:54
I wish the same to you!
私のところへも、昔つきあっていた人や憧れていた人からの賀状はありますが(それで、「賀状こぬ」と詠んだと勘違いした句の作者に対して、誤りの優越感を持っていたのです!)、子供の写真がついていたことは、残念ながらありません(どちらも男の子しかいなかったなぁ)。
四方館 01/02/2005 01:20
おもしろいもので、この記事のように、往年の日記など昔の文章に触れるほうが、現在の書かれたものを読むより、ずっとぬくもりを感じてしまうのはなぜでしょうね。これは Ted さんの記事にかかわらず、どなたの場合でもそうだと思うのですよ、きっと。その人の現在の姿—イメージ—がそれなりにあって、もちろんそれ自体、日頃の文章から此方が勝手に描いているに過ぎないものですが‥‥。時を隔てた、この場合 50 年以上も遡った過去の、その人の断片的なイメージがほのかに思い浮かんで、過去と現在が自然にオーバーラップしてくる。大袈裟にいえば、過去と現在が結ばれて、その人の来し方にまで想像がひろがってゆく…。その人の生そのものに触れてゆくような、あくまで想像のなかでのことですが、その生への感触がぬくもりの正体だと思いますが…。
Ted 01/02/2005 08:42
「ぬくもりを感じて」いただき、恐縮です。高校生時代の日記は、未熟なところはあるものの、現在の私が書くものと、すでにかなり似ているようです。言い換えれば、その頃以来の私の進歩がそれほど大きくなかったということで、恥ずかしい次第です。
Y 01/02/2005 11:13
四方館さん、その通りですね。Ted さんは昔の文章をそのまま残しておられて HP やブログに掲載されたり、また同窓生などのお話をブログでよくされるのですが、私は心地よいのです。私には子ども時代もなかった(空白)も同然なのですが、うらやましいと思わず、Ted さんの誠実さ(誠実な感性)がこのようにして長く人との関係でにじみでてきた人生を歩んでいらっしゃったのだなあと感じられるからです。
私は空白、断絶、断絶、喪失…の人生ですので、Ted さんのぬくもりと対照的なのですよね。こんな人間なものですから、今更「築いていきたい」という言葉は使いません。「作っていきたい」という程度ですね。
四方館 01/02/2005 13:27
Y さん、空白といえどもおそらくまったくなにもないということではない。断絶や喪失といっても、必ずそこにはなんらかの関係性があり、見えない糸もそこはかとなく感じられるものですよ。あなたの生も、私はきっと同じように築かれてきたものとして感じられる、と思っています。
Ted 01/02/2005 13:47
四方館さんのコメントに私も同感です。Y さんの子ども時代には辛いことが多かったのでしょうが、そこには今の Y さんのよさを育んだ何かがあったはずと思います。
Y 01/02/2005 13:48
四方館さん、ありがとうございます。温かいお言葉…。そうですね、断絶や喪失にも、また「続く関係性」があり、見えない糸もありますね。この人生をもちろん肯定していますし、30歳まで生きてやっとわかったことが余りに多い、ということは、やはり何かを築いてきたのでしょうか。四方館さんからみられて、そのように思われるのでしたら、そうなのでしょう、と思うことができます。
0 件のコメント:
コメントを投稿