2005年1月31日月曜日

作家を鼓舞する終末論:川西政明著『小説の終焉』

 先月、他の岩波新書 2 冊を買ったついでに、「120 年の歴史が積みあげてきた豊饒な小説世界を語る」という帯の言葉に惹かれて、同じ新書の表記の本 [1] を買った。まず、目次を見ると驚く。本書は、I から III までの 3 部に分けられており、各部はそれぞれ四つ、五つ、および六つの章からなるが、これらの 15 章すべての題名に「終焉」がついている。以前読んだ科学の終焉に関する本 [2] を思い出した。科学の終焉は、その本の著者 J. ホーガンが予想するほど早期に到来するものではない、と多くの反論があったし、私もそう思った。

 『小説の終焉』中のいくつかの章題を、「終焉」を略して記せば、次のようなものである。第 I 部に「私」、「性」、第 II 部に「芥川竜之介」、「大江健三郎」、「村上春樹」、第 III 部に「戦争」、「存在」など。

 作家が同時代の社会的あるいは政治的テーマを扱い、それが時代の変遷によって、今日的なテーマでなくなったという意味では、終焉もあるであろう。しかし、同様な問題が現在なお多少形を変えて存在している場合がきわめて多い。また、一人の作家が死亡すれば、その人の新たな作品がもう世に出ることはないという意味では、その作家の終焉ではある。しかし、彼または彼女が提起した文学的課題、あるいはその作風の与える影響が生き続けているならば、その作家について終焉といってしまってよいだろうか。

 疑問はそれだけではない。著者・川西は、現存の作家についても終焉を迎えたとし、また、「性」、「戦争」、「存在」など、永続的なテーマにも終焉を宣言する。読者は、これはいったいどういうことか、終末論者には将来への展望はないのではないかなど、いぶかりながら読まされる。

 川西は本書において、多くの小説家の人生とその作品をより合わせて巧みに紹介しており、読者は、たくさんの小説の血の通ったあらすじを楽しむことが出来る。著者はそうした紹介を通じて、それらの作品に共通して扱われたテーマ、あるいは一つのテーマを追求した一小説家の役割が、狭い意味では、確かに終焉に至ったと見てよいことを示している。

 大岡昇平の『俘虜記』を紹介したあと、川西は
この昇平の指摘どおり日本は五十九年間、戦争を放棄しつづけた。それは日本人が世界にむかって誇っていいことである。
と記す。また、原爆文学の語り部・林京子の『長い時間をかけた人間の経験』の紹介に続いて、
「私」とともに被爆で死んだ友人、被爆直後に死んでいった友人、戦後に死んでいった友人、今なお原爆症をかかえて生きつづける友人が同じ道をあるいているのだ。そんな道が日本にはある。
と述べる。これらの言葉は重く受け止めなければならない [3]。しかし、次いで同じく林京子による『トリニティからトリニティへ』を紹介したあと、
林がここまで到達したことで、日本の原爆文学は終った。
としているのは、狭い意味でも「終焉」といえるかどうか疑問であり、「終焉」のつじつま合わせのように響く。

 「存在の終焉」の章では、埴谷雄高の『死霊』が長ながと紹介される。本文全 210 ページ中の 20 ページ、約 1 割を割いているのである。これは、バランス上問題ではないか。しかも、私は『死霊』のあらすじからは、この小説を読んでみたいという気は少しも起こらなかった。川西はこの一作の行き過ぎた紹介から、
この『死霊』をもって存在だけを考えつづけた小説の系譜は終焉したのである。
と、強引に結論している。

 しかしながら、「おわりに」の章を読むと、読者は著者の終末論の意図を知り、ようやく安堵する。そこには次のように書かれている。
小説が存続するためには、この次の百年にこれまでの百二十年の小説の歴史を大きく凌駕する豊饒な世界が創作されなければならない。その判断の土台になるものを提示するために、僕はこの『小説の終焉』を書いた。
——これは、二葉亭四迷の『浮雲』に始まる日本の近代小説の歴史を多数の小説のあらすじを通して紹介し、忙しい読者を楽しませる本である以上に、今後小説を書く人びとを鼓舞する本なのである。

 「おわりに」を読んだあとで、「はじめに」を再読すると、そこにも同様なことが記されていたことに気づく。
小説はつねに歴史とともに歩いてきた。…(中略)… 今、その歴史が跡形もなく崩れている。これまでの歴史の上に立つ小説はもう書いてはいけない。
問題意識を持ち続けたあとにこそ、言葉はよく理解できる。

  1. 川西政明,『小説の終焉』(岩波, 2004)。
  2. John Horgan, End of Science: Facing the Limits of Knowledge in the Twilight of the Scientific Age (Little Brown, 1997).
  3. けさの新聞にも、原爆症訴訟原告・東数男さん(79歳)の訃報が掲載されている。東さんは長崎で被爆。東京地裁で 2004 年、原爆症不認定処分の取り消し訴訟で勝訴。国側が控訴し、今年 3 月に東京高裁で控訴審判決が予定されていた(朝日新聞による)。

 後日の追記:この記事を短縮したものを、アマゾンのカスタマー・レビューとして投稿した。そこでは、私は別のニックネームを使っている。


コメント(最初の掲載サイトから若干編集して転載)

Y 01/31/2005 14:35
 なるほど、そういう趣旨の本でしたか。それでも、小説の過去の歴史を壊す論を書く必要はないように思われますね。それに、作家と小説が密接に関連している場合もあると思うのですが(たとえば「大江健三郎ならさすが、なのだろう」「村上春樹作品なら新作は読みたい」などの一般大衆意識)、一旦小説が書かれれば、それは作家の手を離れて作品として生き残るか、また生き残らなくても、その時代、その時勢にあたえた重要な影響が何かあれば、それでよいのだと思いますし、そもそも小説をもっと「味わい愉しむ」ことに重点をおいて捉えるなら、純文学に限っても、小説の使命、などと意気込まなくてもよいように思います。
 しかし、戦争や原爆などについて書ける作家が今後日本において減っていくであろうことは、確かではないでしょうかね。日本での戦争体験がないのですから。SF、ファンタジーの領域では大いにあるのですが、「現実性」の問題意識が違いますものね。しかし、「戦争」の対義語が「平和」ではないと私としては、思うので、「平和」について今の時代風に新しく書ける作家が出てほしいとは思いますね。
 小説のテーマは、本書で大きく挙げられているものの他に、もっと沢山あると思いますよ。

Ted 01/31/2005 15:04
 私の紹介の仕方が悪かったかも知れませんが、川西さんは、「小説の過去の歴史を壊す論」として、終焉を唱えているのではなく、現在の作家たちの書くものに物足りなさを覚え、彼らに過去の作家たちを乗り越えて新しい取り組みへの努力を求めるため、あえて過去(ごく近いものも含めて)の課題はすべて終った、という言い方をしているのだと思います。
 「小説のテーマは、本書で大きく挙げられているものの他に、もっと沢山ある」には同感です。ただ、本書では、新書サイズにまとめるため、テーマを十分に網羅できなかったということもあるでしょう。

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