写真は堺市大仙公園で(2005年5月7日)。
高校時代の交換日記から
(Ted)
1952年7月31日(木)雨
7月27日付けの Sam の、長らくなかった4ページにわたる記録は、じつに生き生きとしている。リンゴの投げ合いの場面はレーヴィンとキティのスケート場の場面を思わせる。しかし、一カ月ばかり会えないということが、Sam にとってどうだというのだろう。Kid という女性は名前の通り、いかにも可愛らしそうだ。Tarko の働いている様子もほほえましい姿に違いない。それで、彼女らが Sam にとって関心のない女性でないということと、ぼくの提案している問題とどういう関係があるのだろうか。おそらく、少しの関係もあるまい。(だからといって、Sam がこの日に書いたことは一切ぼくにとって読む必要のないことだったというのではない。)
Sam は Green のにっこり笑うのを見、後ろ髪と肩の温かく柔らかなのを見る。しかし、今度の問題でぼくが必要とするのは、Minnie の髪や肩を見ることではない。彼女の声を女性の声として聞き、微笑を女性の微笑として受け取ろうというのではない。もちろん、実際には Minnie は女性であるから、彼女の家へ行くのは、Jack や HZ 君や HY 君のところへ行くのとは勝手が違ってくる。それで、Sam に依頼するようなことになるのだが、Sam にどんな役割を持って貰おうというのでもない。スポークスマンとか何とかいうのでなく、対等で行きたい。また、そうでなければならないし、そうあるのが当然だ。[1]
きょうも、ぐずぐずしていて悪かった。雨に遭っただろうね。ご免なさい。
それにしても、突然行くことには賛成しかねる。一応うなずきはしたが、4日は駄目だと思う。「休暇になるとは、こんな問題を」ということを説明しろということだが、休暇以外は忙しくてその暇がないということに過ぎない。
小説の主人公の性格についてヒントを与えてくれて、ありがとう。どれも皆、書いてみたいものばかりである。だが、1. を書くのは困難だ。正反対にするとなると、思想までもそうしなければならないだろう。もしも、それだけを反対にしなければ、釣り合いのない人物が出来上がるかも知れない。思想を反対にすることは最も困難であり、かつ避けたいと思うことである。小説を通して、ぼくはぼくの思想を主張しなければならない。小説の主人公が作者の主張したいものとは反対の主張をしたのでは、おかしなことになるのではないだろうか。
2. は Sam が列挙した中で最も新鮮味を感じさせる題材であるが、残念なことには、現在のぼくの書きたくて書けない問題である。後期には新聞部を止めようかと思っているぼくが、学校新聞の理想家を謳うようなものを書くのはどうかと思う。こう書くと引込み思案だと、Sam は思うかも知れない。現に編集長をしているくせに、Ted には学校新聞をよくして行く気がないのか、とも思われるかも知れない。だが、駄目である。女主人公を書くとなると、いっそう駄目である。手ごろなモデルが見つからない。いくら創作とはいえ、一人の人物の足先から頭のてっぺんまで、すべて考え出すということは無理である。といって、これを男生徒にすると、理想性が薄く、面白くないものになることは明らかである。
結局、3. に近いものを書くことになりそうだ。が、抽象的方向に走りやすいことと、身近の経験をあまりにも取り入れようとし過ぎて躍動味のないものになりがちであること――この二つを撃退しながら書かなければならない。
引用時の注
Sam と一緒に Minnie を訪ねようという提案は、たしかに知的交流を主眼としたものではあったが、いまこの辺りを読み返すと、私の意識下にあった、そして意識に上ることもなくはなかった、女性への関心を、意識上では不自然に押し隠そうとしていたように思える。しかし、少しあとの日々には、「無意識の意識」についても大いに考察している。
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