2005年5月18日水曜日

人麿文学の最高峰



写真はシルバーグレー系の色素をもとにして青いバラを作り出す試みの代表作「たそがれ」。堺市浜寺公園の「ばら庭園で」、2005年5月15日写す(記事には無関係)。

 [以下の記事は、四方館さんの「あうたりわかれたりさみだるる」にトラックバックして書いたものである。四方館さんのその記事はプロバイダーの事故により消滅したが、関連部分は私の記事内に、次の通り引用してあった。]

<相聞の歌に隠された悲劇>
嘗て、梅原猛氏が「柿本人麿の死は、賜れた死、すなわち刑死であった」と、かなり衝撃的な説を述べた長大な書「水底の歌」を読んだ。
…(略)…
   柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時に、
   妻の依羅娘子(よさみのおとめ)の作れる歌二首
今日今日とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずやも
直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
…(略)…

 柿本人麿が刑死したという説には驚いたが、四方館さんが人麿の妻・依羅娘子の歌を万葉集巻2から引用しておられるのにも、少しばかり驚いた。私は最近、リービ英雄著『英語で読む万葉集』の中で、柿本人麿が妻の死を嘆き悲しんだ歌を読んだように思ったからだ。私の記憶違いだったかと思いながら、リービの著書を取り出して探してみると、やはり人麿が妻の死を悲しんだ歌だった。依羅娘子は、人麿がその後結ばれた妻だったのだろうか。

 リービが紹介している歌は次の通り。

   柿本朝臣人麻呂の妻死して後に泣血哀慟して作りし歌二首 より
    或る本の歌に曰く
…大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹は座すと 人の云へば 岩根さくみて なづみ来し 良けくもぞなき うつそみと 思ひし妹が 灰にて座せば
                         (柿本人麿、巻2・213)

 リービの英訳は、そこだけでも十分に悲しみが出ている「うつそみと」以下の部分を紹介する。

my wife, whom I thought
was of this world,
is ash.

 リービはこの歌についてのコメントにおいて、皇子皇女の死を悼むために人麿は最大級の「公」の挽歌を創りだしたが、彼の文学の最高峰は「私」的な挽歌の方にあるという結論にいたった、と述べている。そして、最後にある「灰」ということばから、「もう一つの文学が誕生したのだ」と、この長歌を絶賛している。

[以下、最初の掲載サイトでのコメント欄から転記]

四方館 05/18/2005
 私が採り上げた五首は
人麿の、鴨山の‥‥が、巻二の223、以下227迄。
 リービ英雄が紹介しているこの長歌には妻の名が詳らかではありませんが、歌中に、
「吾妹子が 形見に置ける みどり児の ‥‥」とあるのので、この妻とのあいだには幼な児がいたということになりますね。この時代ですから、妻は複数人居てもおかしくはないですから、依羅娘子は別の妻ということになりましょう。
 万葉集巻二のこの歌の前後には、まず210番にこの歌とまったく類似の長歌が配され、
その反歌としての短歌二首が211・212と並び、続いて、「或る本の歌に曰く」との詞書が付され、213番にこの歌があります。抜粋の箇所にあたる部分は
「…大鳥の 羽易の山に わが恋ふる 妹は座すと 人の言へば 石根さくみて なづみ来し 吉けくもそなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えぬ思へば」
となっています。
 古来、「人麿家集」と謂われる人麿のものと伝えられる集があるるとのことで、ただ学説的には、この歌集のすべてが人麿の歌ったものであるということにはずいぶん疑問がふされているものらしいのですが、「或る本の歌に曰く」という詞書は、この伝・人麿家集につながるのではないかと考えられているのではと思われます。
 ところでリービ英雄が絶賛した根拠ともなる「灰にて座せば」の詩句ですが、ここで気になるのは、果たしてこの妻は火葬として荼毘にふされたのかどうかです。持等天皇は自分が死んだときは火葬にと生前望んでいたということが伝えられているようですが、実際に火葬されたものかどうか真偽の程はわからないのでは。もう一つ、700年に死んだとされる僧道昭が火葬にと遺言し、そのとおり荼毘に付されたとされ、これを機に火葬の風習が当時の上流階級にも波及していったとされているようです。この点において、この歌が実際に人麿の詠んだ歌であったどうかに国文学者のあいだでは疑問符がつけられていた、という記憶があるのですが…。

Ted 05/19/2005
 いろいろお教えいただき、ありがとうございます。同じ巻二・213でも、終りの方が異なるものがあるのですね。
 『広辞苑』によれば、人麿は生没年未詳となっていますが、持統、文武朝に仕えたとあり、それは690年から706年のことになります。706年が僧道昭の死んだとされる年の6年後であることから、人麿の一人の妻が火葬されたことを疑う根拠も、それほど確かではないように思われますが…。

Y 05/19/2005
 was of this world の of の使い方に、また懐かしく感心したのですが、人麿のような人は、「公」と「私」との両方に、その文学の最高峰があると考えたほうがいいのでしょうね。
 Ted さん、先日のばら庭園で本当に写真をたくさん撮られたのですね。良い写真ばかりだと思います。今はデジカメの小型なものを持ち歩けば、私のように不器用でも、写真の技術はあがるかなぁと考えるのですが。うちにあるのは、3年半は前に買ったデジカメなので、少し大きいのが難点です。

Ted 05/19/2005
 掲載している写真はおおむね、画像処理ソフトを使って、トリミング、明るさの変更、像の周辺のシャープ化などの修正を加えています。

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